紙の本
慰安婦を救済すべく創設された「アジア女性基金」の当事者が語る真実
2007/07/21 12:35
13人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ブルース - この投稿者のレビュー一覧を見る
慰安婦問題については、左右双方の立場から、また学術的な観点から多くの書物や論文が出版されている。本書がその中にあってユニークなのは、慰安婦とされた女性たちの救済を目的として設立された「アジア女性基金」の呼びかけ人・理事であった著者が、その運営体験を通してこの問題について具体的に論じていることである。
アジア女性基金は、1995年の村山内閣時につくられ今年2007年にその使命を終えたとして解散した財団法人であるが、その使命は、アジア・太平洋戦争時に慰安婦とされた各国の女性たちに対して、
(1)日本国民の拠金からの償い金
(2)医療福祉支援金(実質的には政府支出)
(3)内閣総理大臣のお詫びの手紙
などを届けるという三つの柱から成る。
この基金がつくられた背景には、日本が戦後に各国と締結した国際条約により、全ての賠償問題は解決済みという状況があった。それ故、国家賠償ではなく基金方式の救済策を取らざるを得なかったが、アジアを初めとする諸国やNGOからは、この基金は日本国の正式な謝罪ではなく欺瞞以外の何ものでもないとする激しい反発が寄せられたという。
著者は、慰安婦とされた女性たちが高齢で残された時間も無い中で、解決済みとされた国家賠償の道を再提起することは現実的ではなく、このような基金方式が当時としては最善の救済策であったと述べている。そして、基金に対して硬直した批判を展開した各国のメディアやNGOのあり方に深い疑義を呈している。著者によれば、これらのメディアやNGOは、過度のナショナリズムや理想主義・正義感に捉われるあまり、肝心の慰安婦とされた女性たちの本音を圧殺した傾向があったのではないかとしている。
著者は、基金を巡る批判の限界を明らかにすると同時に、基金の失敗点や反省すべきところも隠さずに述べている。その一つに、広報が不充分であったことが挙げられている。この基金の事務的な運用は、政府からの支出(通算25億円)で賄われており、時の政府も広報に努めるべきであったが、歴代の首相は、この問題について及び腰であり、広く日本国民を巻き込んだものとはならず、各国にも積極的なアピールを行って来なかったという。このような消極的な対応が、現在まで尾を引いていることを思えば、歴代の為政者の責任は重いと言わざるを得ない。
なお、最近声高に叫ばれている「慰安婦公娼論」について、著者は研究者の立場から、慰安婦とされた女性には、
(1)突然強制的に連行されたケース
(2)既に「公娼」であった人が募集に応じたケース
(3)看護婦・家政婦・工場労働者として募集され現地に着いてみると慰安 婦として性的奉仕を強制されたケース
などがあったことを挙げ、このうち(3)のケースが最も多かったとして、慰安婦制度は全体として女性の尊厳を踏み躙る過酷な制度であり、当時の国際法及び日本の国内法にも違反していたとして痛烈な反論を加えている。
紙の本
肝心かなめのところは素通りという不思議な本
2007/07/27 16:20
15人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルだけで内容を推し量ると間違えてしまう本である。慰安婦が強制連行されたという言い分が正しいのかどうか、それがこの問題において最大の論点であることは今どき常識と言っていいが、その点にはほとんど言及していない。
この本が扱っているのは、この論点が決着を見ていないのに、というより強制はなかったという見解の方が国内では浸透しているのに、河野洋平が軽率に談話を発表して謝罪し、政府もそれに合わせて基金を創設してゆく過程、その中でのNGOや運動家の思惑の違いや軋轢、すれ違いなどのごたごたぶりである。著者自身、東大教授として、イデオロギーや名誉欲やナショナリズムが入り乱れての激流の中に巻き込まれさんざん苦労してきたようだ。
そうした著者の苦労自体は、実に良く伝わってくる。著者は著者なりに良心的なのであり、過激で非現実的な主張をするフェミニストや運動家、実務と体面の狭間で仕事をする官僚や政治家、問題が虚偽から出発していると指摘する政治家や文化人などなどに揉まれて、疲労困憊といった様子なのである。皮肉でなく、お疲れさまでしたと言いたくなってしまう。また少なくとも本書には、こういう場所に姿を現す運動家やNGOの実像を知るという効用はありそうだ。
しかし、肝心かなめの前提が無視されているのでは、著者の努力も無に等しいと言わざるを得ないだろう。慰安婦の強制連行ははたして実在したのか? この重要な論点について、本書はほとんど何も語っていない。著者はこう書いている。
「実証性を重んじる歴史学の観点からみた場合、そこには一定の範囲の共通の認識が認められる。それを全面的に否定する議論が、歴史的事実の裏付けを欠く思いこみに過ぎないことは広く認められていると言ってよい。(…)「慰安婦」たちの境遇、待遇は多様であり、(…)ある日突然強制的に連行された事例があり(…)」
冗談ではない。広く認められているのは、吉田清治のデタラメ証言をあばいて、慰安婦強制連行などはなかったと論証し、さらに左翼系学者が「強制」の概念を不自然に拡大して行くことをも批判した秦郁彦の『従軍慰安婦と戦場の性』(新潮社)である。また本書と同時にBK1で私が書評した西岡力『よくわかる慰安婦問題』(草思社)も然り。少なくとも日本国内ではそうした意見の方が断然優勢というのが現状なのだ。
大沼氏も学者の端くれであるはず。もし秦氏や西岡氏の本が間違っていると言いたいのなら、具体的に論証しなければならないことくらいは承知であろう。ところが、本書ではそうした論証はまったくなされていない。上記のように、「共通した認識」という漠然とした言い方でこの問題の最重要点が片づけられており、その部分はわずか1ページあまりである。全体で2百ページを超える本なのに、強制連行があったという実例を具体的に証明することすらできない本書とはいったい何なのだろうか。
ちなみに西岡力『よくわかる従軍慰安婦』でその証言の虚偽が分かりやすく説かれた金学順の名は、本書の最初に登場する。大沼氏よ、もしあくまで金学順の名を使いたいなら、西岡氏の主張に具体的に反論していただきたい。それができないなら、このような書物を出すのは紙資源の無駄であると知るべきであろう。
投稿元:
レビューを見る
アジア女性基金の立ち上げと、その後の慰安婦への補償に深くかかわってきた筆者の総括、自己批判ともいえる著。建前としての政府補償は、条約が壁になっていて、いつになったら実現できるかわからない。いや、国際法学者の筆者にはそれは不可能なようにみえる。しかし、その間にも補償を受けられず死んでいく元慰安婦たちがいる。そうした慰安婦たちはもちろん名誉もほしいだろうが、お金による補償も決して否定することはできない。筆者は、右と左から批判されつつも、慰安婦の生活保障を一番に考え、それを実現させてきた。この慰安婦補償が最も成功したのはオランダに対してだそうだ。韓国では、むしろ彼女たちは国に、社会倫理にしばられ、さらには反日に利用された。個人が確立し、個人の利益を最優先する社会とそうでない社会の差を感じさせられる。それにしても、これほど批判の集中砲火をあびてきたにもかかわらず、著者の強靱な精神力にはほとほと敬服するし、名よりも実をとる「政治力」にも感心する。政治とはいかなるものかを考えるお手本のような著でもある。また、政府を一枚岩として批判せず、その中にいくつもの層があることを訴える著者の気持ちにも共感した。
投稿元:
レビューを見る
こんな活動があったとは知らなかった。お金をあれだけ出していても国家補償がなされていないと言われる理由が分かった。しかし、何をどこまですれば納得してもらえるんだろう。
投稿元:
レビューを見る
二国間条約により国家補償は解決済みとする日本の立場から、現実的に見て被害者個人の請求権が認められることは少なくとも元慰安婦の人たちが生きている間はまず無理だろうから、ほぼ不可能な法的責任の追求に拘るのではなく、道義的責任を実効的に果たすために、財団法人を設立し税金と寄付金から賄った償い金と首相のお詫びの手紙を出来るだけ多くの元慰安婦の人たちに渡すという趣旨が、国内の左右団体やマスコミはもとより、あくまでも国家補償をもとめる韓国の挺対協などにより非難、糾弾されながらも、一定の実りを見せ12年間の事業を終えたアジア女性基金の設立・運営に関わった著者が振り返って書いた本。「「慰安婦」問題は、道義的・法的問題であると同時に、日本政府の政策のあり方をめぐって異なる価値観をもつ者が争う政治闘争でもあった」。と著者が記しているが、ここでは主にその?政治闘争?の面に焦点が当てられている。韓国がかなり手ごわく、たちの悪いNGOなどが元慰安婦たちを言いくるめるかして国家補償に拘泥させているところを、基金側がむしろ一生懸命説得して償い金を貰ってもらうように努力していて偉いと思った。一方で、こういう理屈って韓国には通じにくいんだろうなあとも…。そんなこともあってなのだろうが、12年は長過ぎじゃないかなあ。外務省のHPなどから見ると国庫から48億出して基金の運営資金はそのうち35億円で実際に元慰安婦などに対して使うことのできたお金が寄付金の6億円を合わせて大雑把に19億ぐらいというと、稼動年数を減らして運営費用も少なくできなかったのかという気がするのだけれど、これぐらいかかるものなのかなあ。やってた人も疲れただろう。
投稿元:
レビューを見る
被害者本人の事情を斟酌せず、ナショナリズムに利用する韓国政府。
結果論と言われればそれまでだが被害者にとってNPOは本当に役に立っていたかも危うい。
戦時中の全ての狂気は罪に問うべきではない、が、敗戦国はそれを主張する権利を持たない。
だからといって、日韓共同宣言に責任の回避を見出す論も人道的に支持しかねる。
限られた時間の中で、まず何をすべきか。
優先順位ですよ優先順位。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
一九九〇年代以降「慰安婦」問題は、「歴史認識」の最大の争点となっている。
政府は軍の関与を認め謝罪。
市民と政府により被害者への償いを行う「アジア女性基金」がつくられた。
だが、国家関与を否定する右派、国家賠償を要求する左派、メディアによる問題の政治化で償いは難航した。
本書は、この問題に深く関わった当事者による「失敗」と「達成」の記録であり、その過程から考える新たな歴史構築の試みである。
[ 目次 ]
第1章 「慰安婦」問題の衝撃
第2章 アジア女性基金とメディア、NGOの反応
第3章 被害者の視点、被害者の利益
第4章 アジア女性基金と日本政府の問題性
第5章 償いとは何か―「失敗」を糧として
終章 二一世紀の日本社会のあり方
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
著者は元従軍慰安婦への補償に長年携わってきた人物。経験から語られる言葉には重みがある。
「元慰安婦たちが生きている間に補償を実現したい」という著者の想いは、国内外の政府・メディア・NGO・学者などの無理解に直面しながらも、ついに実現する。しかし、それは決して完璧なものではなかった…。
著者は自分の活動を振り返り、自分の経験を将来に生かしたいという想いから本書を執筆した。理想と現実のギャップ、他人に想いを伝えることの困難さ、真摯な反省の大切さ、この本からは色々なことを学んだ。
投稿元:
レビューを見る
「従軍慰安婦」問題が、右と左からの政治的な声によって解決が困難になってしまっていた現実が、本書を読んでよくわかった。
歴史上の事実としては、「日本軍」が関与して慰安所を設置したことは間違いがないだろうし、終戦直後の資料焼却によってその多くの記録が失われたことは許せない思いもあるが、「慰安婦」が当時おそらく数万人いただろうことも、本書を読んでよくわかった。
当時の社会情勢や社会的常識の今日との違いを考慮しても、やはり「慰安婦」は決して許容できるものではないと、本書を読んで考えた。その意味で、この「慰安婦問題」の一定の解決を計る「アジア女性基金」の取り組みは、いろいろな問題を含みつつも、やはり評価できるものと思う。
社会党出身の村山内閣という政治史上の「あだ花」のような稀有な存在の下でなければ、決して実現しなかっただろう「償い事業」の詳細が本書で紹介されているが、この評価はどうなのだろうか。
「フィリピン」「オランダ」においては「成功」。「台湾」については「一定の成果」。「インドネシア」については「不十分」となったように思えるが、「韓国」については明らかな「挫折」だった。
これは「事業内容の是非」というよりも韓国の「反日ナショナリズム」の大きさによるものだろう。
「アジア女性基金」のNGOは、「左右の対立を超えて未決の戦後処理問題を解決する」ことを目指したのだろうが、この結果はどう評価されるのだろうか。一定の成果はあったものの、残された課題はより大きかったというところか。
それにしても、韓国の「反日ナショナリズム」の大きさである。このような問題になると社会が沸騰するように湧き上がる。日本においても、反作用のように同様の事態が起きるのは、最近の「竹島問題」を見ても明らかである。
本書は、「慰安婦問題」を通して、戦後日本がアジアからどう見られているのかを知ることができる良書であると思うが、読後感はあまりよくない。それは、ナショナリズムが高揚すると、国家間の軋轢の解決策が見つからないという現実を突きつけられるからである。
アジアにおいて、「戦後」が終わるのはまだ遠そうに思える。最近の「尖閣」をめぐる日中関係は戦後最悪とさえ言われる。20世紀に二回の大戦争を行った欧州においては「ユーロ」という統合への壮大な実験が進行中であるが、本書を読んで東アジアで「戦後」が終わるのはいつになるのだろうかという感慨を持った。
投稿元:
レビューを見る
慰安婦問題に際し設立されたアジア女性基金に携わった著者が
慰安婦問題解決に向けて活動した記録を振り返りつつ、
結果、どのような反響、反発が起こり、
また問題があったのかを概説する一冊。
主張は一貫しており、これを様々な角度から補完している。
内容もスッキリとまとまっており分かりやすい。
著者自身、広報活動の薄さを嘆き悔やんでいるが
私自身も活動内容の詳細については本書で初めて知った。
広報活動が適切に行われなかった背景には多様な問題が渦巻き、
一概に何が悪いとは言い切れないが
国民一人一人がこうした情報を積極的に習得し
現実的な判断を試みる姿勢が大事な要素の一つであると思う。
投稿元:
レビューを見る
このテーマへの理解が深まるとともに、解決困難な問題に対する姿勢、取り組み方について非常に深い洞察を与えてくれる著作。
投稿元:
レビューを見る
2013.7.30-2013.7.31
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshihara jya/53727977.html
投稿元:
レビューを見る
民間から償い金を募って、慰安婦への補償をした「アジア女性基金」の当事者が書いた本。善意で始めた活動が、国家補償原理主義者のNGOやメディアなど独善に凝り固まったものに踏みにじられていく過程が描かれている。
多少、自己弁護的なところが鼻につくが、韓国の挺対協などNGOが問題解決の道を遠くしているのは間違いない。
本書でうなづいたのは、リベラルや左派こそ中韓と議論し、誤りは正していくべきという下り。左派の遠慮とも言える姿勢が、嫌韓や歴史修正主義者の跋扈を呼んでいるのは正にその通りだと感じた。
解決の道などないのかもしれない。だが、それでも対話を続けて行かなければならないのが日韓関係なのだろう
投稿元:
レビューを見る
日本政府とアジア女性基金の広報不足。反日ナショナリズムをあおり基金のお金を受け取る者を裏切り者扱いした韓国の支援者団体とメディア。基金を評価せずにただ批判し、韓国世論の間違いは批判しなかった日本メディア。
最近東アジア関連できなくさいタイトルの本が書店をにぎわしていると話題になり、そのこと自体が批判されることも多い。本書は実際にアジア女性基金のために奔走した著者が執筆したもので、その意味では、より信頼に値するのではないかと思っていた(実際そうだろう)。でも、ようするにそのような本の内容をもっと知的な言葉でお上品に書いただけで、事実自体はそんな変わらないんだな、と思うとなんだか暗い気分になった。
日本のいわゆる「和式リベラル」の責任は重いんだなと改めて思った。
「自分ができもしない、不自然で過剰な倫理主義の要求、知識人のいやらしさがにおう、もっともらしいがその実空虚な論理こそ、戦後責任や戦後補償の主張をうそっぽいものにし、日本の一般市民の反発をまねき、日韓の率直な、深みある友好を妨げて来たのではないか。加害国体被害国という国を単位とする一枚岩的な図式、中韓の主張には反論してはいけないという過剰な倫理主義は、双方の自制のきいた、しかし社会は基本的に俗人からなることを自覚した議論の積み重ねによって一歩一歩克服していかねばならない」
投稿元:
レビューを見る
読んでみたらアジア女性基金の活動記録だった。大沼先生は理事として奮闘したらしい。民間からの基金と政府とで半分ずつの拠出という中間の立ち位置だったがゆえに右派からも左派からもバッシングされたそうだ。
「カネの問題ではない、大事なのは気持ちなのだ」とメディアやNGOが声を大にすることにより、基金からのお金を受け取りにくくなってしまうというメディアとNGOの責任を指摘。慰安婦問題の被害者もいろいろだし、「心からの謝罪がほしい、でもお金も必要だ」という被害者は、被害者像の美化により、「またカネで身を売るのか」という声により、受取りを申し出られなくなってしまった。被害者がいろいろなのはたしかにそうだ。特に韓国での受取り者へのバッシングがものすごかったみたい。
大沼さんは別のところで、この事業を通じて、韓国の知識人に絶望し、韓国は反日さえ言ってればいい体質だとまで書いていた。