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紙の本
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
著者 内田 樹 (著)
【小林秀雄賞(第6回)】ノーベル賞受賞者を多数輩出するように、ユダヤ人はどうして知性的なのか。そして「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」。サルトル、レヴィナスらの思想を検討...
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
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商品説明
【小林秀雄賞(第6回)】ノーベル賞受賞者を多数輩出するように、ユダヤ人はどうして知性的なのか。そして「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」。サルトル、レヴィナスらの思想を検討しながら人類史上の難問に挑む。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
内田 樹
- 略歴
- 〈内田樹〉1950年東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程(仏文専攻)中退。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に「ためらいの倫理学」「街場の現代思想」他。
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紙の本
さっそく買って読みました(笑)。
2006/07/22 14:35
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近はもっぱら、書評を眺めて、そこから本を選び、買います。
さて、今回紹介の本はというと、予告篇が長かったなあ。
季刊「考える人」に3回にわたって、この本が取り上げられていたのです。紹介者は養老孟司さんでした。
2006年冬号の連載「万物流転⑮」が「ユダヤ問題」と題して、
内田樹(たつる)氏のこの本を語って、
「連載の初回から思わず釣り込まれてしまった」とはじまっておりました。
2006年春号・夏号では養老孟司・内田樹対談を前編・後編と分けて掲載しており、どちらも楽しく読みました。 楽しく読んだのですが、肝腎な話題になっている本が、それこそ、いまだ刊行されていなかった。
それが、この7月20日に新書で発売になりました。
内容は硬いのですよ。「ユダヤ問題」「シオン賢者の議定書」「ペニー・ガム法」などと出てくるのですが、その間をすいすいと繋いでゆく語りかけがよくこなれている。というか、魚がスイスイと障害物を避けて泳いでゆくような、自在な論の進め方です。
こんな箇所があります。
「彼が善意であることも無私無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致命的な政治的失策を犯すことを防げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無私や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の『政治的傾向』を解明することを優先的に配慮すべきではないか。私はそのように考えている」(p105)
さて、内田樹さんの泳ぎ方はというと、
「読者にとってはまことに迷惑なテクスト戦略であるが、『私にわかっていること』だけをいくら巧みにつぎはぎしても、ユダヤ人問題に私は接近することができない。・・・ユダヤ人問題を30年近く研究してきてそのことだけは骨身にしみてわかった。・・ユダヤ人問題というのは、『私の理解を絶したこと』を『私に理解できること』に落とし込まず、その異他性を保持したまま・・次の受け手に手渡すというかたちでした扱えないものなのである。・・・いかなる政治学的・社会学的提言をもってしてもユダヤ人問題の最終的解決に私たちは至り着くことができない。これが私の立場である。」(p162)
さて、季刊雑誌の養老・内田対談は、というと未発表部分を含めて新潮社より単行本になる予定なのだそうです。
新書を読んで、対談を読むというのも楽しめます。
私など、予告編にあたる対談を読まなかったら、この新書買わなかっただろうなあ。そう思うと対談のよさを感じます。
ちなみに新書のあとがきに
「もとになったのは2004年度後期の神戸女学院大学での講義ノートである」なんて言葉があり、その次には
「三回の担当時間が終わってレポートを集めたら、『ユダヤ人が世界を支配しているとはこの授業を聞くまでは知りませんでした』というようなことを書いている学生が散見され。これは困ったことになった」とあります。
うんうん。そういう困ったことがおきないためにも、養老孟司・内田樹の対談は出版されるほうがいいですね。と思ったりします。新書と対談と両方いっしょに読めば楽しさの厚みが何倍にもふくらむのでした。
紙の本
人間の邪悪さと愚鈍さというテーマの設定
2010/02/07 11:05
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くにたち蟄居日記 - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近宗教関係を読むことが面白い。一方 内田という著者を知り その本を読むことが面白くなってきた。その二点が交差する場所に本書はある。勿論 ユダヤ文化とユダヤ教とは厳密には一致しないのだろうが。
ユダヤに対する知見が殆ど無かっただけに本書は無類の面白さと難しさがある。僕が本書で読み取ったことは二点だ。「世界には『反ユダヤ問題』が 今でも構造的にある」という点と「『反ユダヤ問題』は ユダヤ側に原因があるというよりは 『反ユダヤ問題』を提起し 再生産している 非ユダヤ側に まず原因を求めることで見えてくるものがある」という点である。
前者に関しては 今日までの僕の鈍感さと不勉強に帰することが出来る。従い 今回漸く 少しながらも勉強できた点は大きな収穫である。これが無類の面白さだった。
問題は後者である。
平たく言うと「問題は その問題が発見されるまでは問題ではなかった」とでもいうような感覚に近い。「反ユダヤ問題」を作ってしまう思考のロジックこそが 探求されるべき課題なのであるという趣旨なのではないかということだ。但し この僕の感覚も まだまだ平板であり薄っぺらいと感じざるを得ない。そこが 僕の不勉強ということなのだと反省せざるを得ない。
著者は過去20年 ユダヤの研究をしてきたという。極東に住む日本人である著者がどうしてそこまでユダヤにコミットしてきたのかを考えることは興味深い。まえがきにある「人間の邪悪さと愚鈍さ」について著者は誰よりも詳しいと断言している。おそらく そこに著者の答えがあるのだと思うが それを明確に論じる言葉を今は持ち合わせていない。
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非ユダヤ人は「ユダヤ」をどこまで語るか
2022/12/24 21:37
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サンバ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書で繰り返されているように「ユダヤ」周辺の問題はその定義から解決まで分からない。分からないが故に、いかに語るかがその人自身を自ずと語ることになる。内田樹氏は、「当事者からの分析を想定し、赤の他人に『仮の』断定的説明をできる人間」ということを自ら暴露している。
ユダヤ人は「遅れてやってきた人」であり、彼らのあらゆる受難は、行為の前に存在する有責性にある。これにより、神に「やらされた善行」ではなく「神の遍在の証明としての善行」を志向でき、世界が欲望する知性を獲得した。
ヨーロッパを中心に人々の欲望がエスカレートすると「反ユダヤ主義」として、「ユダヤ人の証明はユダヤ人であることを否定すること」、「自分たちが選び苦しんでいる近代は、ユダヤ人による搾取のための陰謀」、「日本人はユダヤ人の起源は同じで、しかもユダヤ人を導かなければならない」という知性に欠けた論理、言説による迫害が発生する。
上記の論理、言説は、一部は今も通用するし、言葉を換えればかなり多くの事例と同じスキームだ。ユダヤで思考することは、自らの構造をかなり解き明かす、最後は分からないテーマだ。
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考える人
2006/08/16 09:47
12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
理路の人・内田樹が繰り出す高級漫談の切れ味は鮮やかだ。ところが、圧巻ともいえる「終章」をロジカル・ハイとともに一気呵成に読みきって、はて私はこの本を読み終えることでいったい何を得たのだろうか、その点がはなはだ心許ない。
この書物に鏤められた「無謀な着想」や「驚くべき思弁的仮説」や「めまいのするような仮説」の一つ一つを数え上げることはたやすい。
ユダヤ人とは誰のことか。それは国民名でも人種でもユダヤ教徒のことでもない、それは「国民国家と国民」といった枠組みで思考している限りは理解することのできない、いやそもそも「それ」として語る語彙すら持たない「まったく異質なもの」「端的に私ならざるもの」に冠された名である。「ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。」
「ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ私たちが「世界」とか「歴史」とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものなのではないか。」
なぜユダヤ人は迫害されるのか。それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」である。非ユダヤ人が「欲望」するのは、ユダヤ人の知性である。「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。」
いずれも内田節(理路)が冴え渡っている。しかしそれらを束ね重ねあわせ、かつ一冊の書物としての結構を踏まえ、内田氏はこの本を書くことでほんとうは何を言いたかったのかを整理要約して語ることができない。
『私家版・ユダヤ文化論』には、これを一冊の書物として、つまりそれぞれの章や節に書かれた事柄を一続きの論述として、一個の物語(理説)として編成し整序する土俵が欠けている。というか、内田氏はそうした土俵(言語と言っていいかもしれない)の起源、あるいはそもそも「考える」とはどういう事態だったのかという問題を、もはや想像することすらかなわぬ知性の起源以前との対比で「考える」という不可能事に挑んでいる。
だから本書は、その構成において完璧に破綻している。「ユダヤ人」をめぐる認識論(第一章)と存在論(終章)というまったく位相を異にする論考が、その間に「ユダヤ人」という概念とそれへの欲望の近代日本とフランスにおける使用例・発現例の概観(第二、三章)をはさんで媒介される。異なる書物の異なる章を任意に切り出し、あたかもカバラか聖書のように編集したもののようだ。それを内田氏は意図的にやっている(たぶん)。「私家版」とはそういう意味だったのではないか。
内田氏は「新書版のためのあとがき」に、「私のユダヤ文化論の基本的立場は「ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない」というものである」と書いている。こんな告白を最後の最後になって記すのは実に人が悪いと思うが、ここで注目したいのは、なぜ「新書版のための」とわざわざ書かれているかということだ。
雑誌連載時に書いた「あとがき」風の文章(終章8節「ある出会い」)に加えてといった趣旨なのかもしれないが、そうではないだろう。新書版以外の版が想定されているからに違いない。それはこれから書かれるものかもしれないし、すでに著されているのかもしれない。あるいは、もう一つの私家版として私の脳髄の中に常に既に巣くっているのかもしれない。
紙の本
ユダヤとは
2016/01/14 00:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しろくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
ユダヤ人、という言葉は世界史上よく現れる。
でも実態はよくわかっていなかった。
この本を読んでもまだわからないことだらけだが、陰謀論については、なんとなくわかったような気がする。