紙の本
東大法学部を撃とうというからにはそれなりのリサーチは欠かせないが、残念ながら杜撰にして大ざっぱな本である。
2005/12/29 16:33
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
長らく近代日本のエリート養成学校として機能してきた東京大学法学部について書かれた本である。しかし出来映えは残念ながら芳しからずである。
理由は、焦点が絞り切れておらず、書き方も大ざっぱ、調査もいい加減、と言うに尽きる。根本的には著者の問題把握能力の低さが原因かと思うが、本を書く上でのコンセプトでまず失敗している。
つまり、あまりに網羅的なのである。コンパクトで紙数も限られた新書という制約がある中、明治時代に創立されてから近年に至るまでの東大法学部の歴史をたどり、なおかつ現役東大生の性格をさぐるべくインタビューし、東大不要論までぶとうというのだから、いきおい、筆の運びはスカスカになってしまう。網羅的であろうとして、逆に中身が薄くなっているのだ。
加えて、新聞記者としての活動歴が長いせいか、著者の書き方は悪い意味でジャーナリスティックである。つまり、特定の人物のエピソードが入り込んでしまっており、データにものを言わせるという記述法になっていない。いや、エピソードだけでまとめるならまだしも面白いのだが、大ざっぱな歴史記述の中にぽつりぽつりと半端な長さのエピソードが混じるので、歴史としてもエピソード集成としても半端としか言いようがないのである。
そして最後に至ってこの本の不出来ぶりは歴然としてくる。記述の杜撰さがその極に達するからだ。「国立大学はすでに役割を終えているのだから、すべて民営化しなければならない」という文句が突然出てくる(133ページ)。しかし、本書で或る程度(きわめて不十分ながら)具体的に内実が明らかにされたのは東大法学部だけなのである。それでどうして「国立大学はすべて民営化」という飛躍的な物言いになるのだろうか。なるほど、著者は別の箇所で、東大法学部生の親の平均年収は1200万円で国民の平均を越えていると書いている(6ページ)。しかし東大は特別なのであって、国立大学全体で見ると、親の平均年収は私大生の親の平均年収を下回っているのだ(私がBK1で書評した『日本の高学費をどうするか』を参照)。高等教育に国費を投入する理由がなくなっていないことは明らかだろう。
要するに、著者は東大法学部を論じて国立大学全体のこととと短絡するほどにいい加減なのである。例えば、慶応大学を論じて私大全体のこととしたら、誰もが変に思うだろう。その程度の考えさえ、著者の頭には浮かばなかったのであろうか?
なお、欧米では一流といわれる大学はほとんど私立と書かれているが(24ページ)、ヨーロッパでは一流大学はほとんど国公立である。アメリカでもカリフォルニア大学など、州立の名門校はそれなりに存在する。どうやら著者は「民間活力」という日本で流行しているスローガンを信じ込むあまり、まともなリサーチもしないで本書をでっちあげてしまったらしい。困ったことである。
紙の本
調査不足にくわえてシニシズム多用
2006/01/09 21:26
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:masa - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は東大法学部出身者でも官僚でもないが、これはかなり問題のある本だと思った。
①(61ページ)
1990年代前半に法学部内の講座再編があり、いわゆる社会主義思想系統の講義ないし教授陣がなくなった(去ってしまった)のか意味不明。ちなみに東大経済学部は1990年代前半に学部講義の経済学原論がなくなった。
②(73ページ)
『秘書課長に泣きつかれた』自治省の秘書課長は、省内人事とOB対応が主な担当。仮に大臣の味方をするとするならば、自治大臣の秘書官(自治省内のキャリアか、大臣が連れてきた私設秘書)ではないか。また事務官に先輩の役人が丁寧な言葉で言うはずもない。
③(75ページ)
先鞭をつけたのがボート部の先輩である、の部分だが、ここで述べられている「ボート部」は、旧制一高端艇部とすべきであり、東大ボート部ではありえない。取材が不足している。ちなみに、竹内道雄氏、長岡実氏は、東大漕艇部には入部した記録はないはずである。
④(94ページ)
中には、毎夜ノーパンシャブシャブに打ち興じる者もいた、についてだが、毎晩楼蘭に行っていたと取材できたのだろうか。知っている限りでは最高でも週1、2回だと記憶している。
⑤(99ページ)
安延氏のことを書かれているが、彼はS53東大経済学部卒。なんでも東大法学部のような論調だ。
⑥(105ページ)
銀行のMOF担のエリート行員のくだり。MOF担当には東大経済、京大、一橋もMOF担当で少なかならず存在しており、すべて東大法学部という表現はおかしい。また、MOF担当が日参する銀行局、証券局(軟派)のキャリア担当者は東大法学部と経済学部・他大学出身者がほぼ半々の配置であったはず。したがって、「東大法学部卒の鉄壁のネットワーク」という表現は誤りだ。
⑦(107ページ)
時価発行増資の自社株のくだり。時価発行増資の株式を証券会社経由で購入した銀行員はいたかもしれないが、なぜ時価発行増資で自社株を証券会社を通じて購入するのが問題なのか?。不法であるのか、不当であるのか、意見をもらいたいものだ。
⑧(176ページ)
節のテーマで、「戦略的価値を持つ私立大学」と書いてあるが、そう考えられているのかと思う。ふさわしくない大学生、教職員を多数かかえつつ苦闘しているのが大多数の私立大学の現状であり、東大以上に深刻な問題ではないだろうか。今や、私立大学の半数はかつての専門学校あるいは高校レベルの教育を行っているのが実態だ。この節は「玉石混交で深刻な問題をかかえつつも、将来の戦略的価値に期待しなければならない一部の私立大学」と書きべきでないか。
私も、これまでのミラミッド型システムを八ヶ岳に変えなければならないと思う。しかし、筆者は、その変化のための『生贄』に東大法学部を据えている。たとえば、あとがきで筆者は現代のシニシズム流行を批判したいと書いてあるが、本書に流れているものは、世間的に極めて有名である東大法学部に「三角帽をかぶせて街を歩かせ、世間の方々に東大法学部へ石を投げさせて、なおかつ三角帽をかぶせた人間(=筆者)を英雄にするようにもっていく」という毒(シニシズム)が隠されている。あるいは、そうした方が著書の販売戦略上よいと無意識に筆が動いたのではないか。そのように感じてしまった。
大学への評価は、世間が一致して思うようなものではない。どこの大学に行った人も、良かれ悪しかれ人それなりの思い出を持って通っている(通った)。国が予算を減らす増やすは小さな問題ではないが、一大学の学部を真正面から批判するだけの能力も責務も筆者にはないと思う。それを出版した出版社も同じだけの責任を問われるべきである。
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こうもまぁ、世間の偏見に迎合、助長するような著作は見上げたものだ。
官僚離れ、外資志向の増加という指摘はまっとうだろう。
しかし、エリート排出機関としての東大の機能低下、存在意義に対する懸念はどうかと思う。
勿論昔に比べて様々な点で卓越性、優位性が失われているかもしれないが、だからといってそのほかの大学が成長しているとも思わない。
25番の教室構成等、嘘の記述も存在するのでこの本自体の信憑性が疑わしくなる。森田朗が怒るのもむりからぬ。
内部にいる人間にとっては、あんまり耳障りのいい話ではないですね。
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1つ1つの題の長さが短く、非常によみやすかったです。
東京大学法学部の歴史などを詳しく知る事ができ楽しめました。
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東大法学部の歴史と存在意義を批判的に描いています。東大法学部はそもそも、日本の法律を整え、近代化させていく上で必要不可欠だった法律職行政官を大量に生産する目的で国が設置したものだった。それが現在では東大法学部の学生はその多くが裁判官や弁護士、外資系企業をはじめとする民間企業を流れ、その役割は変容しつつある。と著者は分析します。「東大法学部のブランドはかつてに比べるまでもなく色あせ、大貯水池からは民間に直接流れるものや、官界に入っても失望して民間に転進する者が増えていった。」「エリート輩出構造は、東大法学部を頂点とする富士山型から、あちこちに峰のある八ヶ岳型に変わっていくだろう。あるいはいくつものピークのある万里の長城型と言ってもいいかもしれない。なぜか、それは多様性がこれからの社会の青写真を描くうえでのキーワードとなるからである。」大前研一氏と同じことを言っているので驚きました。本書は東大のことばかりでなく、東大法学部と切っても切れない関係にある霞ヶ関のことも詳しく描写しており、とても勉強になりました。新潟の農家出身で学歴のない田中角栄と、ピカピカの東大法卒の福田赳夫の「角福戦争」の引用は印象的でした。でもやっぱり東大は憧れますね。そもそもこの本を手にとったのも東大コンプレックスの現れかも。。。
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官僚の士気が下がるのは権限をとられちゃったからだとある。
「裁量権をせばめられた官僚たちのやる気は、徐々に減退し、朽ちてゆく。モラール(士気)の低下である。腐敗官僚の増加は(中略)最大の原因は使命感と緊張感の喪失にあったというべきであろう」(p.92)
まあ、生涯一プレーヤーの身としては、それでも問題を求めて荒野を行かなければならないと思っています。だって解決能力を発揮したいわけですよ。職業倫理みたいなものですね。
「真の教養とは(中略)問題を発見する力を備えているということだ」(p.176)そうなんだよなあ。ここが問題だ、と。で、解決への筋道も持っているともっといいですよね。
それにしても…
QCのもとが原価計算だったとは初めて知った。「昭和十三年制定の『国家総動員法』にもとづき、『軍需品工場事業場検査令』なるものが公布され、軍需物資を生産する民間の事業主に(1)原価計算をさせ、(2)その結果を報告させ、(3)担当官を派遣して監査する−ことになったからであった」(p.80)「戦後、米国から『品質管理』の手法が導入され、日本企業の成長を内側から支えるシステムとなったが、その前にこの原価計算の土台があったからこそ、見事な花を咲かせたと言っていい」(p.81)
そうであったのか。本題よりもこの話が俄然光彩を放っている。
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東大法学部の歴史と、それに関係する政財官界の人脈、さらに彼らの業績(所業というべきものもあるが)などの基本データが充実していて、日本における東京大学の位置づけがとてもわかりやすい。
その反面、著者独自の主張となると、やや物足りない。
主な論点は、国家中枢への人材供給源としての東大法学部の終焉と、それに伴う法学部の学生の劣化である。この論自体は、今となっては(多分、この本が出版された2005年当時でも)めずらしい話ではないように思う。
東大法学部出の官僚の堕落、市場主義者的な東大生への違和感、予備校化した東大のありようなど、東大を取り巻く現状に対して、さまざまな疑問が提示されているが、要は
「公共に尽くす考えのない東大生(含む教授)のために、実質的に国立大学である東大に、多額な国民の税金をつぎこむのはおかしいいだろ!」
ということなのだろう。
そんな東大生は「エリート」ではない、ということで、じゃあ真の「エリート」とはどんなものかというと「ノブレス・オブリージュ」のお話で何となくお茶をにごされた感があり、また、エリートの育成法についても、具体的には奨学金の充実というくらい。
旧制一高について書かれたあたりを読む限りでは、著者に「エリート教育」について熱い思いがあるように感じたので、拍子抜けな感は否めない。
これからの日本には、誰が何といおうとエリート層が必要だと思っている自分としては、そのあり方と育成方法について非常に興味があったのだが……。
実際問題、いわゆる優秀な高校生の進学先が東大以外の海外の大学にも広がっているとはいえ、人数的にも制度的にも、とても、それらがメジャーになっているとは言える状況ではない。なんだかんだいっても、優秀な日本人の子供は、どうしても東大を目指してしまうのだ。ならば、ここは腰をすえて、東大を真のエリート養成機関として再構築する方が近道なのではないだろうか。
著者も、とうの昔に賞味期限切れとなった、現在の東大(および、それを頂点とするシステム)に対しては厳しい姿勢をとっているものの、「東大」的なものを否定しているわけではない。
今度はぜひ、東大のリストラクチュアリングについて論じてほしいと思う。
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高校時代に読んだからか、退屈な内容ではあった
よく言われている、真のエリートたちの官僚離れとかいろいろ。
でもまぁ、東大で官僚がどうとか本人はそこまで気にしてないっていうね。
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本書をどう読むか、人によって大きく異なるだろう。
エリート官僚養成機関の実績が、時代の変化とともに様相が変わり、それを取材を通じて紹介している。
では、その変化があって悪いところばかりなのだろうか。私はそうは思わない。これだけあらゆる価値観が多様化した今日において、学生の進路選択に幅がでるのはある意味当然だと思う。ごく一例を取り上げて東大全体を批判する、「金ぴかエリートの敗北、東大を見放す高校生」といった見出しは事実と状況の表現がフィットしていないと感じた。
戦時中に大卒者が海軍に主計官の将校として任官される「短期現役」があったそうだ。主に経理・兵站・文書管理・秘書を担当したという。
昭和55年の中曽根内閣はこの短現出身者の大臣が多かった。法律と予算を扱う際に、海軍の合理性が精神として必要で、独特の文化が一定期間できたそうだ。
ちなみに、著者の卒業した学校は、自由学園最高学部は各種学校。法令上は大学ではない。あとがきの185頁に「自由学園という大学」と書いてある。この表記はいいのかなぁ。
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東大法学部は、近代国家を形成する上でとても重要な役割を果たした。明治時代、日本は西欧列強に伍していくため、法律が整備された法治国家を早急に構築する必要があった。その法律を作る人材を供給する機関として東大法学部は創設された。いまでも霞が関において、東大法学部卒の人間が大きな力を持っているルーツはここにある。
しっかりとした制度がまだない真っ白な状態で、制度を作っていくことが必要だった時代は、そういう能力を持った官僚がすさまじい権力を握っていた。しかし、ある程度制度が完成し、先進国の仲間入りを達成した頃には、当初作られた制度は時代に合わなくなってきており、新しく制度を作り直さなければならなかった。しかし官僚は、一度作った制度を消すことはできない。なぜなら、既存の制度によって既得権を得ている集団があるからである。そこで制度を作り直すことができる政治家に、徐々に権力が移っていった。
現在の東大法学部において、もはや官僚は人気の進路ではなくなっている。東大法学部生たちは人材としての「代替不可能性」を求めて、弁護士になったり、外資系企業に就職したりする道を選んでいる。このような進路を選ぶ学生たちに、国立大学に国費を投入するというかたちで援助する必要があるのだろうか。もはやその必要性は薄く、私立大学と区別なく補助金を使うか、学生個人に補助金を出すべきだろう。
真のエリートには、「公共の精神」「総合的な知力」「問題解決力」などが求められる。そのようなエリートを育成するためには、現在のような東大を頂点とするピラミッド型ではなく、多様性を持つ構造にしなければならない。
この本は簡単にいってしまえば「東大法学部批判」の本である。かなり前に購入して読み始めたが、当時は全く興味がわかず放置した本であり、最近部屋の整理をしていたらたまたま見つけたので、読んでみるとすらすら読み終えてしまった。この3年間ほどで少しは成長したのかもしれない。
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東大法学部を憂う内容になっています。
否、東大法学部のみならず、
日本の教育自体を憂いているといった方がいいかもしれません。
一側面の捉え方としては、著者の言っていることは正しいのだと思いますが、
一方的すぎるのではないかと思うところもありました。
しかし、著者の言っているように、
このままの日本の教育制度のままでは、
完全に世界においていかれるのは間違いないと感じています
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ブックオフをぶらぶらしてて、タイトル見て即買っちゃった本。東大法学部の歴史でも書かれてるのかな、それなら知ってても悪くないかな、と思った。
最初は東大法学部の歴史が書いてあった。日本を成長させる官僚を養成する学校だったんだって。
それがだんだんそうじゃなくなってきた・・・。官僚たちの夏みたいな時代じゃなくなってきて、官僚の魅力が薄れてきて、学生の質も落ちてきて・・・・。といった流れ。途中からはかなーり厳しいことかかれています。ちょっとへこむ。
でも昔の学生の様子とか知れるしいいと思った。途中多くのOBも登場するからOB訪問している気分になるし。昔はゼミに入れる人は3人に1人だったらしい。昭和までは2類が一番多かったらしい。
自分たちが無批判に受け入れている体制を批判的な視点から書かれた本を読むことでまた違った感じで見ることが出来る。自分が批判されているような気がして身が引き締まった。
そして、大学だけじゃなく、官僚制にまで突っ込んでいくところはすごい。当然なのかもしれないけれど。
とにかく、東大法学部の人には読んでほしいな、すぐ読み終わるし。貸します。
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うーん。著者のスタンスがわからなかった。
官僚を育てるべくして設立された東大法学部、けれども官僚が力を失い腐敗するに従って東大法学部の意味もなくなってきた……というような書かれ方をしているけれど、その当時、著者は記者クラブで官僚たちを見てきたのでは? なぜそこできちんと糾弾しなかったのだろう。なぜ今更言うのだろう? と不思議でならない。
こういう目で見られたら、東大って名乗りたくない気持ちもわからなくは無いな、と思いました。
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以前「天皇と東大」(立花隆)を読んだが、東京大学の成立と戦前の歴史についてはその方が詳しかった。
本書は戦後について詳しく書かれているのと、政治との距離をも書き込んでいるのが目につくが、書体は週刊誌的にも感じられ深みがない。
新書であるからこの程度で充分なのかもしれないが、知ることができるのが概略のみというのにはやや不満が残った。
2017年8月読了。
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「インターネットで検索ができる現代に知識が豊富な人を教養人とは呼ばない。真の教養人は、学ぶ方法を持つこと、問題を発見する力を備えるということである」