紙の本
ポストモダニズムにまで至る日独戦後思想の見取り図を分かりやすく提示
2005/07/26 19:41
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本とドイツ、というテーマはやっかいだ。ヨーロッパ内では英仏に比べて遅れて近代化に向かったドイツと、そのドイツから部分的に学びながら明治維新後の国家体制を整えた日本。第二次大戦で敗戦国となったという点でも共通しているとはいえ、実は相違点の方が多いので(ちょっと考えてみれば当たり前の話なのだが)、比較は容易ではない。
その容易ならざるところを無視した比較、特に戦後処理の仕方をめぐって、かなり単純な論法が日本では一時期流通していた。いわく、ドイツは戦争犯罪をきちんと反省したが、日本はどうか、など。しかしこういった大ざっぱな議論は西尾幹二『異なる悲劇 日本とドイツ』によって完膚無きまでに叩きのめされてしまった。ドイツが反省したのはユダヤ民族を絶滅させようとした犯罪行為なのであって、戦争そのものではなかったのである。
仲正昌樹の新著は、戦後の日本とドイツを思想面で比較しようとするものであるから、いきおい戦後処理の話から入らざるを得ず、第1章は戦争責任論となっている。しかし残念ながら西尾の議論を超えるものではない。著者自身、「はじめに」で《本書は……「過去の清算」を軸にして》書いたと言っているので、目新しい視点が導入されるのかと期待したが、そうなってはいない。
ではこの本は価値がないのかというと、そうではない。著者の本領は、戦争責任問題をひとまず終えた第2章の後半あたりから徐々に発揮され始める。第2章の前半、つまりドイツ人の特性とドイツという国の形をめぐるマンやグラスの発言などは旧聞に属することで新鮮味がないが、後半、ノルテの著書をきっかけとした歴史家論争を紹介し、ハーバマスの憲法愛国主義論と戦後日本左翼の護憲主義を比較するあたりから、ようやく我々は戦後ドイツと日本と比較する知的空間に本格的に足を踏み入れたと実感することができる。
そして続く第3・4章こそ、著者の真骨頂を示す部分と言える。
第3章ではマルクス主義との関わりで日独両国の戦後が比較される。そもそも戦後ドイツの社民党はゴーデスベルク綱領によってマルクス=レーニン主義と袂を分かち、議会制民主主義の枠内で労働者階級の地位向上を目指したのであって、日本の共産党や社会党左派が曖昧な形でマルクス主義とのつながりを保ったままでいたのとはまったく状況を異にしていたのである。実質的な西側陣営の一員として英仏などとのつきあいを模索せざるを得なかった西独に比べ、日本はイデオロギーや国家体制を共有する国が間近になく、米国との同盟関係だけを考えていればいい立場にあった。また、西独が東独などの社会主義国家と陸続きで隣接していたのに対し、日本はそうではなかった。そこから、日本の知識人が現実との関わりを詰めることなく漠然とマルクス主義を正義と同一視したのに対し、ドイツ知識人はより現実的な反体制理論の構築を行ったのだという。アドルノの否定弁証法などが分かりやすく解説されており、なかなか説得的である。
第4章ではポストモダン思想の日独比較がなされている。紙数の関係で内容には立ち入れないが、ボーラーやヘーリッシュの紹介やドイツロマン派とポストモダンの関係など、たいへん興味深い内容である。
ナチスへ見方については、ドイツ書籍商平和賞受賞に際してのマルティン・ヴァルザー発言をめぐる論争などにも触れて欲しかった気はするが、新書という分量の制限内でポストモダニズムにまで立ち入って戦後日独思想の見取り図を提示した著者の力量を評価すべき書物であろう。
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
同じ敗戦という体験をして、その後、「似て非なる道」を歩んできたと目されもする、日本とドイツの両国。本書はその戦後思想の歩みを、ドイツの方は西側に軸を置くが、可能な限り冷静に対比的にまとめる。これは取捨選択を含めてけっこう大変な作業だと思うが、著者の構成力がよく発揮され、高い水準で結実している。まさに力業だ。
仲正氏といえば、右も左もアイロニカルに切り刻む所がある(最近は左叩きに偏しているようだが)。ただ、広い意味でのイデオロギーから完全に自由になれる人間はまずいないはず。それを踏まえるとしても、仲正氏の本書でのポジショニングは、偏りを「補正」しようとする意識によって慎重に決められているのだろうということが伺える。「補正」する基準としての検量線は、「現実」から目を背けないということなのだろう。
《このように、「結果」を尺度にしてその国の対外政策の基本思想の妥当性を評価するのは、アメリカやイギリス、フランスなど他の西欧諸国が話題になる際には至極当然のことであるが、どうも「過去の清算」に関して日独を比較しようとすると、その当たり前の話が通用しなくなる。おそらく、日本の戦後責任問題については左右双方とも依然としてかなりのバイアスがかかっていて、なかなか本当の意味で現実主義的な見方ができないということと、(略)様々な意味で「極端」な人たちの祖国である「ドイツ」に対する「神秘的にして観念的」というステレオタイプ化されたイメージが相俟って、冷静な比較が妨げられているような気がする。》
天の邪鬼な私は、「本当の意味で現実主義的な見方」という表現に多少ひっかかりもするが、著者の言わんとすることは分かるつもり。こういう主題には、うってつけの書き手の一人じゃないだろうか。
著者ならではのアイロニーは本書では目立たないが、こんな感じでたまに顔を出す。
《西尾も全く事実に反したことばかり言っているわけではないので、少しくらい一致してもいいではないかと私は思うのだが》
これは主眼としては、左派に向かっての意見ではあるのだが、私は西尾氏に対しても辛口で攻めてるなと思える。これは西尾氏という人は、「たまに」なのか「時折」なのか「そこそこ頻繁に」なのかまでは決めつけられないが、「ある程度は事実に反したことを言う人だ」と暗に述べているように読めるからだ。まぁ私の考えすぎかもしれないが、こんな風にちくりと刺す手法って好きだったりする。
本の内容から脱線したことばかり書いているが、ともかくも、中味に関しては読んでみて下さいと言うほかない。鳥瞰的な見取り図を巧妙に設計した上で書かれた比較思想史の面白さを、手軽に存分に味わえる。
巻末の年表も役に立つ。
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やっぱり日本人って、何事も「全体像」で捉える傾向があるんじゃないのかな?
そこが戦後処理でもドイツと決定的に違う点なんじゃないだろうか。
時には物事を側面ごとに切り離して考えないと、どこへも進めない!?
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本書は、四つの章から出来ている。「二つの戦争責任」、「国の形を巡って」、マルクス主義という「思想と実践」、「ポストモダン」の状況、の四つである。■「戦争責任」は誰にあったのか。
なぜ日本は「人道に対する罪」に問われなかったのか。
「普通の国民」も加害者なのか。
「反省仕方」のドイツとの違い。
日本の左翼は平和護憲主義の矛盾など、戦後の左右の言論の矛盾点が前提を共にするという二項対立にある不毛の度合いが大きい論議になっているという問題意識が基軸なって論じられている。■第一章には、戦後ドイツと戦後日本の戦争責任の相違が述べられている。これを論じるにはヤスパースの「贖罪論」を抜きにして論じるわけにはいかないのだろう。保守派の佐伯啓思、西尾幹二もこの問題について論じている。(1)「刑法上の罪」(2)政治上の罪(3)道徳上の罪(4)形而上の罪、の四つである。仲正昌樹が、再度これついて論じている。ドイツ国家の名によって犯した犯罪行為に対して責任をまぬかれるものではない、これが「政治上の罪」。たとえ命令されたとしても、その命令に従ったのは自分であり、その自分の行為はに対してはあくまでも道義的な責任があある、これが「道義上の責任」。例えば、他人の殺害を阻止するための対応をせず傍観していたとき、社会から責められないにしても、やはり罪の意識は持つだろう、これが「形而上の罪」。道徳的な罪が、内面的であるとしても、社会や他者に対するものであるのに対して、形而上のものは、高度に個人的な使命感や倫理感に関わる。■戦争責任について論じているが、国民凡てが悪いのか、A級戦犯が悪いのかという「二項対立」に陥る議論は不毛だとする。どこまでの責任を天皇あるいは政府首脳に求めるか、戦争犯罪に部分的に加担してしてしまった一般兵士にどの程度の責任があるのか、犯罪に加担しなかったが政府や軍の方針を黙ってみていた一般国民はどういった責任を負っているのかといった細かい議論がほとんど行われていない。■ドイツでの憲法愛国主義と国民国家、あるいは西欧型市民社会と中欧としての独自の道を巡る論争のような、「歴史と国民のアイディンティ」に関する明確な対立軸があって、お互いがそれに基づいて
教科書の記述を問題にしているという形にはなっておらず、同じことを良く言うか悪く言うかのと言うような啓蒙主義的な押し付けがましい議論になってしまっている、というくだり等、問題意識が共有できたような気にさせてくれる一冊であった。■今後の仲正昌樹の論述を注目していきたい。
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ドイツも日本も枢軸国であり、戦後は民主主義を『受け入れ』経済復興してきた。
『似たもの』ではあるが『受け入れ』の仕方は違ったようである。
単純に比べるべき事柄では無いが、そこで考える事を止めてはならず、考察を加え続ける必要がある。
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日本とドイツの「戦争責任」についての違い。西欧の中のひとつとしてのドイツ、アジアのひとつとしての日本
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[ 内容 ]
本書は、「過去の清算」を軸にしてドイツと日本の六十年間の「戦後思想」を比較するものである。
[ 目次 ]
第1章 二つの「戦争責任」(「国際軍事裁判」はインチキか? 「人道に対する罪」を背負ったドイツ ほか)
第2章 「国のかたち」をめぐって(「国のかたち」は変わったか 分断された「国のかたち」 ほか)
第3章 マルクス主義という「思想と実践」(思想的武器としてのマルクス主義 日本における“何でもマルクス主義” ほか)
第4章 「ポストモダン」状況(ポストモダンの導入と批判的知性 ドイツのポストモダニズム ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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日本とドイツ―戦後の対外政策においてよく比較の対象とされる両国であるが―では、よく「ドイツは周辺諸国にちゃんと謝罪したが、日本はアジアの国々に謝罪しない。けしからん」という主張が展開される。そうなるのはなぜなのか?、という素朴な疑問から出発している。
著者によると、日本とドイツの戦後政策は地政学的要素・政治的要素・文化的要素などから、単純比較はできないし、すべきでないという指摘・批判が鋭くなされていた。メディアで展開されるような単純な比較の問題とは異なり、議論に深みがあり説得力を持ったものだった。
ただ、途中のマルクス主義の日独比較あたりから、私の不勉強による教養の欠如が原因で、十分に理解できなかったのが残念である。しばらくしてから、また読み返す必要がありそうだ。
最後に、巻末に年表とそれに対応する参考文献一覧が載っているのがありがたく感じた。
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二国の敗戦の受け止め方に生じる違いの、そもそものきっかけを知りたくて手にしてみました。左右に偏りもなく、私なりに整理できそうでよかったと思う。が、後半2章は私のほとんど未知の思想の世界についてだったため、またその補完目的の読書をしなくてはならないハメになってしまったけれど。
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主に社会思想史を研究する仲正氏による日独戦後思想史の概説書。
出版された2005年は、小泉政権下で自民党が衆院選挙で大勝した年である。
この本は、第二次大戦中の同盟関係から戦後の清算に至るまで類似した道をたどった(と一般的に思われている)日独が、実は、思想史的には質的に異なる道を辿ってきたことを主題として語っている。
また、日本における戦後思想は思想史的な主流を持たないまま、曖昧模糊とした「右と左」の二項対立に終始している点も指摘している。
具体的には、以下の4点において比較分析が行われている。
(第1章)戦争責任を誰が負うのか
(第2章)戦後ナショナリズムの形成過程とその内容
(第3章)戦後の思想界におけるマルクス主義の扱い
(第4章)日独における従来的知識人とポストモダンの受容
ごく一般的な戦後論をイメージしている人は、第1章と第2章までを読めば十分満足できるはず。
・・・というよりは、第3章と第4章があまりにも思想史の専門的議論に立ち入っている。それは、門外漢にとっては「戦後思想」の話であることを時々思い出しながら読む必要があるくらい込み入っている。
3,4章は単なる思想史の日独比較として読めば十分面白いので、戦後思想史と近現代思想史のそれぞれを日独で比較したものだと思って読めばよい。
<以下、重要と思われるポイントの引用とコメント>
「当時生まれていなかった人たちに先人の犯した罪についての告白をするよう強いることはできないが、彼らもまた、先人の遺産、「過去からの帰結」に関わっているので、その帰結に対して「政治的責任」を負わなければならない」(pp42-43. 1985年のヴァイツゼッカー大統領による「荒れ野の40年」という演説から)
⇒「今の人が責任を負う必要があるのか」「何の責任を負うのか」という、戦後責任論における二つの根本的な問いに答えている。このような発言を生れてこの方政治家(ましてや首相レベルの人間)の口から聞いた覚えはない。
「少なくとも形のうえでは、国家としてゼロからの出発となったドイツ連邦共和国に比べると、天皇制の下でソフトランディングな体制の転換を通して誕生した日本国は、本当に大日本帝国とは全く別個の国家であると言えるのか疑問に思えるところが多い」(p.69)
⇒したがって、その帰結に対して政治的責任を負わなければならない。
「大日本帝国の「国体」は公式的にはいったん解体されたものの、天皇制を核として文化的・宗教的なレベルでは生き残り、それが「国民国家」としての日本国の統合の象徴として―政治的にも―機能しているので、右にとっても左にとっても、自分たちの立っている足場が見えにくくなっているのである。」(p. 129)
⇒アメリカ追随なのに改憲したい右と、アジアとの協調と志向しつつ護憲派の左という「ねじれ」が存在するのも、根っこはここに起因している。
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p.41
「反省」というのは個人の「心の中」の問題であり、独房に閉じ込めて洗脳でもしない限り政治的に強制して”反省させる”ことなどできないので、左右双方とも大前提が間違っている。
p.45
終戦後の責任論のほとんどは、「敗戦という嘆かわしい結果」に至った原因の説明に集中しており、ドイツの場合のように、国家の利害や戦争の勝敗を超えた「人道に対する罪」のようなものが議論の俎上に載せられていたわけではない。
p.68
「敗戦国」という負のアイデンティティ
ドイツの場合、ヒトラーを総統=指導者(Fuhrer)とする第三帝国が「国家」としては全面的に解体して、ドイツ連邦共和国という全く新しい国家が誕生したのに対し、日本では、国家の中核(=国体)である天皇制が政治的な役割は縮小されたものの基本的に維持され、新憲法もその第一条で、天皇が国の象徴であることを明記している。
p.69
少なくとも形のうえでは、国家としてゼロからの出発となったドイツ連邦共和国に比べると、天皇制の下でソフトランディングな体制の転換を通して誕生した日本国は、本当に大日本帝国とは全く別個の国家であると言えるのか疑問に思えるところが多い。
p.98
ホロコーストだけは歴史的に一回的な出来事であり、少なくともドイツ人自身がこれを他の事例と比較するのは許されないという雰囲気のあった当時のドイツの政治文化(1986-87年にかけて起こった「歴史家論争」。時刻の歴史の捉え方という「歴史観」について)
p.113
p.151
身体的欲望を全面的に管理し続けるのは無理であり、無理な努力を続けると、無意識的に抑圧されていたものがどこかで爆発してしまう。ナチス体制は、「内部」に生きている市民たちに対しては身体管理の徹底による秩序化を図ったが、「外部」に対しては、抑圧されてきた欲望を解き放ち、暴力的な残虐行為を行なったと言える。それがホロコーストである。
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大戦の敗戦国である、日本とドイツ。戦後の両国の比較を試みるのがテーマなのか?
マルクス主義思想からポストモダンへ。
法律に厳格なドイツに対し、事後法を適用したことは、傲慢さだろう。
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日本とドイツがなぜ戦争責任の取り方を巡って大きく違うとされるのか。皮相的な見方ではなく、著者が日本における左派の反戦平和スローガン「ノーモア広島」、「非武装中立」、「安保廃棄」の中に見える、日本が戦争に巻き込まれない、"唯一の原爆被災国として"二度と核兵器を許さないという日本自体の被害意識があったことを指摘しています。その中からは確かにアジアへの加害意識は出てこなかったのでしょう。それが戦後直ぐに東久邇首相が語った「一億総懺悔」という言葉への抵抗に遠因があったとの指摘は実に面白いです。また良くドイツはナチスを悪者にして切り離せたので、謝罪し易かったと言われますが、天皇の戦争責任を曖昧にしてきたからこそ、日本の謝罪の中途半端さがあったのだということも改めて感じました。
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戦後60年、海外ではイラク戦争が起こった2005年に書かれた日本とドイツが辿った戦後思想についての本。こちらも『日本とドイツ 二つの全体主義』と同じく、思想史について手際よくまとめられている。目次は以下の通り
第一章:二つの戦争責任
第二章:「国のかたち」をめぐって
第三章:マルクス主義という「思想と実践」
第四章:「ポストモダン」状況
第一章と第二章では、日本とドイツで戦争責任についてどう考えられていたのかが書かている。「一億総懺悔」で自国の被害者性を強調して、他国への加害者性が最近まで思考がいかなかった日本と、周辺諸国と隣接する領土を失い、東西に分割されてしまって新たに「国家」として出発したために、改めて「ドイツ」とは何かを考えざるを得なかった戦後ドイツの思想状況が対比的に描写されている。第二章の「憲法愛国主義」の立場を取るハバーマスと、日本の「護憲平和主義」の日本のリベラル左派との対比が興味深かった。個人的な感想だが、戦後ドイツでハバーマスらが参加した歴史論争に比べると、日本で90年代に行われた「敗戦後論」論争は後にほとんど何も残さないしょぼい論争だったなあと感じざるを得ない。
第三章では、日本のマルクス主義とドイツフランクフルト学派との比較がされている。この章自体、フランクフルト学派の紹介として良くできており、ネットでフランクフルト学派=極左と短絡的に思っている人たちには是非とも読んで欲しい。マルクーゼは、当時の学生運動の近い立場だけど、アドルノは直接行動に否定的で、日本で云えば丸山真男の立場に近い。なので、日本でフランクフルト学派を敵視する右派は、マルクーゼの印象に引きずられ過ぎだろう。
第四章では、目次の通りに70年代以降のポスト構造主義以降の思想的状況について書かれている。紙面の都合か、この章はやや駆け足気味にその後のポストモダン状況について論じられている。ドイツの現代の思想界の動向について全く知らなかったので、ドイツポストモダン派 vs フランクフルト学派の話は大変勉強になった。あと、東浩紀一人勝ち史観のように感じられたが、日本のゼロ年代の思想のまとめとしては手堅いと感じた。
日本とドイツが「国民国家」として成立後に、現在までどのような思想史が形成されたかが概ね流れとして把握できるので、『二つの全体主義』、『二つの戦後思想』の二冊を続けて読む事をお勧めする。
評点:8.5点/10点。
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未開人のうちに、かつての自分の野蛮さの鏡像を見てしまい、自分もまたそこに引き戻されるのではないかという不安に襲われる文明人は、彼らを放っておくことができない。
仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』p149
日本の戦後思想は、マルクス主義の人々(とマルクスを独自に解釈して実践する左派の人々)が、その時代ごとに「何を考えてどう行動した(しようとした)のか」が中心。この点が詳しく書いていないと、文字通り何が書かれているのかわからないのだが、本書はその点をドイツのそれと比較して読み進められるので読みやすい。
言われてみると過去、新聞では「マルクスっぽい理想郷」というものを共通の概念として持っている、その理想郷に向かって進むことを「前提」として書かれていたようにも見える。
それら新聞や本書から読み取れるのは、なんとなく手に入れた民主主義のもとで、なんとなく自由で、なんとなく社会主義/共産主義っぽい理想郷を目指す日本のうやむやさ。逆に、理性における理想をとことんまで突き詰めた結果、人種絶滅という結果に至った後のドイツの厳格さとの対比が読みどころ。
現在、思想における二国間の共通点は思ったよりも少ないようだ。思想に関しては日本はドイツに対して莫大な貿易赤字を出しているのだが、本書にある感じだと、せっかく輸入してもつまみ食いする程度らしい。ただしお互いに「戦前と戦中に全体を覆っていた思想は全否定する」という点だけが共通しているように読める。この全否定の状態から、だれかが一歩踏み出そうとすると何かしら激しい反応が起こる点も共通している。
この「うやむや感」と「厳格さ」という極端に異なる状態にありながら、共通点が「全否定」と「全否定への否定は許さない」というところが、やはり過去に暴走を許した原因か。
日本においては、こうした「全否定する、しない」「マルクスっぽい理想郷を目指す、目指さない」の二項対立を中心。当然ながらこの前提が、なんでそんな前提になったのかよくわからないというか、そもそも自由主義と民主主義の国で、何でマルクスっぽい理想を目指すのか意味不明というか、なんでそんな他人の理想に付き合わないといけないんだよ、どっちでもいいじゃん的な現代の日本で、左派の発言力というか説得力などの全てが失速して復活の兆しが見えない原因にも思えなくもない。
続きの『戦前思想』も手に入れてあるので、その辺りを気にしながら読んでみる。