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「ラストサムライ」を観て新渡戸武士道にカブレたニワカ国家主義者の方々必読の書
2005/06/15 11:42
13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
オビにもあるように「武士道は大和魂ではない!」という本である。
もともと武士という存在は平安期,律令制度の間隙に生じた荘園という私有地の拡大に伴って現れたいわば私兵・傭兵であり,有り体に言えば,人殺しの専門職,今風に言えばプロのテロリストである。その望みは国家の安寧でも正義の確立でもなく,ただひたすらに自分の生を全うすること……。
天下のご意見番として講談などでも有名な大久保彦左衛門が著わした「三河物語」,武士道といえば必ず引用される山本常朝の「葉隠」,武田家の名将高坂弾正の手になると言われる(異論あり)「甲陽軍艦」などを手がかりに,武士として生きた男たちの死生観,哲学を分析した快著と言えよう。
特に新渡戸稲造らが唱えた「明治武士道」と,実際の武士たちの「武士道」との違いを追求した後半は圧巻。そも「武士」を否定して成立した近代国家ニッホンが,なぜ明治も半ばを過ぎてからかつて忌み嫌った「武士道」なる言葉を引っ張り出して埃を払うばかりか,あまつさえ「Soul of Japan」(新渡戸の「BUSHIDO」の副題)とまで祭り上げなければならなかったのか,というあたり,「ラストサムライ」を観て新渡戸武士道にカブレたニワカ国家主義者の方々必読である。
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ほりおこすべき武士道をおしえてくれる本
2006/05/25 00:42
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は戦国時代から明治時代にいたるまでのさまざまな武士道を比較しつつ論じている.「明治武士道」というと新渡戸や内村などのキリスト教徒の思想が有名だが,この本では当時むしろ優勢だったが「敗戦とともに忘れ去られた」井上哲次郎らの国家主義者による明治武士道についても論じている.この本でもくわしく論じられてはいないが,いま,敗戦とともにうしなわれたものをほりおこすことが必要であり,このような明治武士道もほりおこすべきもののひとつなのではないだろうか.
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新渡戸の『武士道』は武士道ではない
2004/11/28 21:38
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ひところ、新渡戸稲造の『武士道』が注目された時期があった。
何もかもがごちゃごちゃになり、何を自分のよりどころとすればよいのかわからなくなってしまった現代の日本人にとって、毅然とした態度でわが道を進む武士の処世はたまらなく魅力的だった。
ところが、著者はここで待ったをかける。新渡戸の『武士道』は本当の意味の武士道ではない、と。
それはどういうことか。どうしてそう言えるのか。彼は過去の武士たちの生きざまをエピソードとしてからめつつ、武士の思想としての武士道が本当はどういうものかをあぶりだしていく。
現代において、武士という人間は一人もいない。なればこそ、人々は想像をたくましくして彼らの足跡をたどろうとし、また、なぞろうともする。だが、私たちは武士ではない。その本質において、どうしようもない断絶が現代人とサムライとの間にあることを、とりあえず知っておいてもよいのではないかと思う。
とはいえ、私などはこの本を読んでよけいに武士にあこがれてしまった。致し方なきことにて候。
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武士道にもいろいろある!
新渡戸の武士道は武士の思想ではないなど、へぇを連発したくなる。
武士の思想の凄さ、論理の一貫性を味わえる。
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国家の品格を読んでから、読みました。
武士道と言われて、個人的に違和感を感じていたもの。新渡戸の武士道と葉隠の武士道。それらの差異、武士道の本質が分かりやすく書いてあり、大変面白かった。
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新渡戸稲造の武士道を「明治武士道」、明治以前の武士の精神論を「武士道」として、現代人の勘違いを正す一冊。武士の出てくる話を書く前に読むと、キャラにリアリティが出るかも。ここに紹介されている武士の心構えが、好きな人の命は優先させるところは違えど、なんともいえずリィに近いものがあるなぁと。
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武士道が、最近巷で喧しいが、武士の武士道と明治期以降の武士道は、全く異なるもであるという的確な視点立った武士道についての解説書である。武士は、死と引き換えに戦闘する。根本は人を切ることであるのであるから、死は戦闘の為の引き換えになった倫理であろう。明治期以降の武士道は、その死の引き換えは、現実にはない。精々陸軍の死との引き換えがあったのであろうが、これは、国家の権力的統括の必要性もあったのであり、本来の武士道とは全く違うものであり、武士個人の責任とは違った位相で語られることとなった、と思う。著者は、明治15年に下された「軍人勅諭」は、自立した戦闘者としての武士を「私情の信義」として否定したと述べる。武士の義とは、人を斬る義であって、又、斬られることもあるという義でもある。そこには、自己の確定こそが、思想として深められる必然的切っ掛けがあるが、軍人勅諭のように、国家のための、他者による義が説かれ諭されるためにする構造などにはないのが本義であろう。明治武士道の虚妄性がここに潜むと私には思える。
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[ 内容 ]
存亡を懸けて自己を問う。
武士道とは大和魂ではない。
[ 目次 ]
第1章 武士道とは何か(混乱する武士道概念;武士道の原像;実力稼業の世界)
第2章 勝ちがなければ名は取れぬ(実力とは何か;勝ちがなければ名は取れぬ;朽ちもせぬ空しき名;過激な分別;有るものは有る、無いものは無い)
第3章 主君と家来(頼もしき家来;妻子の一命;恋か、忠義か;諌言は一番槍にまさる)
第4章 一生を見事に暮らす(根本は人を切ること;死の覚悟;武士のたしなみ;我一人の精神)
第5章 明治武士道(軍人精神の成立;『軍人勅諭』;明治武士道;キリスト教と武士)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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武士の世界のバランスは、過不及を削った適度としての中庸のことではなく、一人の人物が過激な両極端を矛盾なく体現するところの中庸なのである。両極端を足して二で割った常識ではなく、両極端をそのまま包み込む、いわば両極を超えたところにある常識なのだ。98
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一は一であるということを決して曲げないところこそ、天地宇宙を通じて唯一つ確実な拠り所である。相手が神であれ仏であれ、己れの頼むべき所はそこにしかない。これこそが、武士の発見した「哲学」だったのである。112
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自らを支えるのは、法でも道徳でもなく、自分は刀を抜く存在であるというただその一事にある。それこそが、「男道」「武士道」の、基本中の基本なのである。188
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「忠」とは、自分の主人という特定の人格に対する関係である。これが、「忠」というものに対する普通の理解であった。そのことがおそらく、帝国軍隊に、その統合の核を、国家という抽象的なものではなく、天皇という人格に求めさせた(意識的か無意識的かは別として)大きな理由であったと考えられる。250
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武士道をそもそも論から論じた本。確かにこういう切り口から考えると、武士道に対する理解が進む。ありがちな切り口でないのが新鮮で貴重。勉強になるが、これからどう生きるべきかと考えて、武士道に頼りたいと思っている私のような人には、ちょっと違和感があるかも。
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明治以降の新渡戸武士道と本来の武士道は違うぞ、では本来の武士道とはなんだったのかってゆう本。
様々なエピソードや論考がとてもおもしろった。明治になって武士道が廃れ新渡戸武士道として復活するまでのところも、いきなりお家の私兵って具体的な個人の関係が抽象的な国家の軍隊にならなかったので、天皇の統帥権ってのは天皇という人格を利用したもんだとか。キリスト者が武士道を擁護してった背景に、西洋に日本にも道徳があるというのを紹介しようとしたところが大きく、新渡戸武士道もその点で本質から逸れてしまっただとか。
この本で紹介された武士の考え方で今の生活に説明がつくものも以下のように多々あって、そこは参考にしたいと思った。
武士道の根源とは本当の実力とは何かととの問いの中から生まれた。腕力だけでなく、統率力や人望や経済力や運など、様々な要素を含めたものが実力である。
重要視するのは説明でなくて事実、そうじゃなきゃ命を預けられない。
形や威儀へのこだわりは実力の発露、すべてが威の表現である。
勝たなければ名は得られない。地名を名字にするのもその地を守り抜いて来たという実力の証。
大高城から一晩動かなかった家康、これは武士としての分別があったから。一は一と事実をありのまま受けとめる分別が大事。
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【Impression】
武士道を全く持って勘違いしていた。
確かに言われてみれば、「武士道」が全て綺麗ごとで(現代的な感覚で)語られていることに違和感はある
実際、「殺人」を生業としている人たちのことで、そのような世界に身を置いている人に対して、現代の感覚での道徳がニアリーイコールとなるはずはない。
「武士」の世界の凄絶さがよく伝わってきたと同時に、頭の中の整理も出来てよい本だった
【Synopsis】
●現代の日本において語られている「武士道」は、武士の本質を表したものではなく「明治時代の国家・軍事体制を整えるため、世界に日本を説明するため、キリスト教と日本人の価値観の根底が一致していることを示すため」提示された概念のこと。
●武士道は、「本来の武士道」と「明治武士道」に分けることが出来、現代において語られているのは後者である。前者も正確には2分割でき、「太平時代(徳川政権)以前以後」である。
●前者の武士道においては、太平時代においては前時代の「壮絶たる武士」の行動を否定しようという動きはあるが、根底に通じる「理想の武士像」は同様である。要するに、後期武士道は儒教的な概念から武士の行動を説明するものであり、前期武士道は血みどろの戦闘の中において達成される。
●中庸はダメであり、両極端の矛盾を同時に体現する事が求められる。
●明治武士道は、天皇を中心とした「軍隊」を整えるため、武士と主人の間に存在した「つながり」を見出すため「大和魂」という「同じ日本に住んでいる」というところに見出した。かつ、外国におけるキリスト教と日本の価値観は似ている、ということを証明するために明治武士道を作り上げた。要するに「国民道徳」である。そして国民道徳において「戦闘者」であることを薦めていない。しかし、武士は「戦闘者」でないと成り立たない、よってイコールではない。
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201309/
武士の実力は、基本的には、リアルな物質的な力の総合にある。現実に己の存亡を懸けている現場にあっては、そのことを単純に否定するような妙な精神主義の入る余地はない。ただ、そのリアルな力の現実を見据えつつ、その力を保持し、駆使し、拡大していくことができるための条件として、ある種の人格的、精神的な力が考えられていたのは確かである。/
今日の社会では、一応の建前として、自他の対立は、話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば、たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して、どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは、何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら、刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考えを、野蛮であるといって片づけるのは簡単である。しかし、そういったからといって、自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ、武士を野蛮と笑うそのときに、私たちは、他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。/
武士道はキリスト教と矛盾しないという対外的な説明に使われた武士道は、ここでは逆に、キリスト教は武士道と矛盾しないという対内的弁明に用いられることにもなる。/
本書がとらえる武士道の基本骨格は、キーワードで示すなら、「私」「戦闘者」そして「共同体」である。これらは、それぞれ「自立」「実力」「心情的一体」という三つの価値に対応している。それは新渡戸稲造の『武士道』とは、まるっきり似ても似つかぬものであるということだ。/
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今日、『武士道』と言うと新渡戸稲造の著書を連想すれど、新渡戸稲造の武士道はあくまで明治時代に発行されたものであり、国を纏める為、政策的意図が強いと指摘する。
本来の武士道とは常に死と隣り合わせであった武士にとっての行動規範のようなものであって、新渡戸稲造の武士道とはあまりに違いが大きいと。
作中によく引用される『葉隠』も機会を作って読んでみたい。
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新渡戸稲造の武士道のオマージュ的な作品と思っていたが、いい意味で裏切られた。
新渡戸のいう武士道を明治武士道と定義し
本来の武士道とは違うという内容。
本来の武士道はもっとリアリティーを持ったリーダーシップであることが理解できた。