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商品説明
先住民の多様な歴史群を、ポストコロニアル理論を経たいま、排除・包摂しない歴史の多元化が求められている。異文化の歴史を聴き「通文化化の歴史学」を大胆かつユーモラスに展開する。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
可能性に満ちた魅力的な研究
2004/10/29 23:20
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
これはすごい本だ。ここ数年のなかで最も優れた研究書ではないだろうか。ものすごい衝撃力を持った本で、歴史学のみならず、すくなくとも人文系の研究者は強烈な知的刺激を受けるはずだ。とてつもなく大きな可能性を秘めた研究書である。この本で著者が問いかけた問題は、アカデミズムに携わる者はみな真摯に受けとめて、自分なりに考えていくべきだと思う。
著者はオーストラリアに留学し、グリンジ・カントリーに滞在しながら、アボリジニの長老(とくにジミーじいさん)を師として彼らの「歴史」を学ぶ。そこで「歴史」とは何かという大きなかつ根源的な問いにぶつかる。「歴史」を語ることができるのは誰なのか。アカデミズムにおける「歴史」が「正しい」もので、アボリジニの長老の語る「歴史」は「歴史」ではないと言える根拠は何か。近年、ポストモダニズムやポストコロニアル研究などにより、既存の学問のあり方に批判的検討がなされてきた。そして研究者はたしかにアボリジニの語る「歴史」も尊重するようになった。ここまでは良い。だが著者はこの先にある問題を問う。
《しかし、アカデミックな歴史学者はいまや、あらたな方法論的問題に直面しているのではなかろうか。それは、アボリジニの過去にたいして、西洋近代的概念としての「歴史」(のみ)を適用する根拠は何か、というより根源的な問いである。(p.183)》
アボリジニが語る「歴史」をアカデミックな「歴史」と同じように受けとることができますか?と著者は訴える。たとえば、アボリジニの長老はこんなことを語る。「アメリカのケネディ大統領が、グリンジ・カントリーに来た」と。そして、彼らはケネディ大統領にイギリスから来た白人に迫害されたことを訴え、それを聞いた大統領が「イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよ」と言った。それがきっかけとなって、牧場退去運動が始まったのだという。
もちろん、我々の知っている「史実」では、そんなことは起きていない。となると、アカデミックな「歴史」は、このアボリジニの語りは「正しい歴史」とは異なるとして、「歴史」と呼べるものではないと分類してしまうかもしれない。あるいは、もう少し良心的な研究者ならこの語りも尊重して、おそらくこれは何かを言い換えたものなのだろうとメタファーとして分析し始めるかもしれない。
しかし、著者はアボリジニの長老たちは大統領をメタファーとして語っているわけではないのだという。それは彼らなりの歴史分析であり「現実」なのだと。これを私たちの「歴史」の枠内に収めることなく受けとめることができるのかと、著者は既存の歴史学に問いかけているのだ。こうして既存の「知」の枠組みにはげしく揺さぶりをかける。そして、著者が目指すのは、彼らの「歴史」と私たちの「歴史」を繋げることができるのかということである。われわれと彼らの間にギャップがあっても繋がることができると、その方法を模索し続けた。
現時点におけるアカデミズムの限界点を示した本書の功績は今後、さまざまな分野でも応用できそうだ。このような重要な問題を考察しているのに、その文章はきわめて明快であるということも本書の優れた点の一つであると思う。具体的な事例から積み上げ、そこから聞こえてくる「声」を誠実に受けとめた結果なのだろうと思う。このような素晴らしい本を残してくれた保苅実氏に感謝したい。
紙の本
保苅さん、あなたの声は伝わりました。
2005/03/03 23:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕が初めて、この本を知ったのはブログでのレビューでその絶賛も異論も著者の保苅実に対して興奮を抑えきれぬ想いで書いている。少壮の歴史学者で実証歴史学と違った、だからと言って、人類学と言ったアクセス方法とも違う歴史実践の中で歴史をメンテナンスする壮大な野望を持った青年なのです。オーストラリア先住民アポリジニのグリンジ・カントリーに入り込んで、共に暮らし、今と共に生きる歴史を語ろうと、だからと言ってグリンジの歴史観を神話として追いやることなく、あくまでも歴史の文脈で、アポリジニの長老の物語を本当に本当に、神話でなく歴史的真実と決定し得るのか、その危ういところで闘っている青年なのです。
あと二ヶ月の命、と医者に宣告されても本書の原稿を書き続けていたその凝縮したエネルギーがこもった本書は歴史学、人類学に門外漢の僕でさえ、平易な語り口ながら深い洞察に満ちた思考の軌跡で、図書館から借りて読み終わったのに欲しくなって枕頭の書として購入しました。奥付を見ると再版されたばかりで、多分、初版は品切れとなり、暫くの間店頭から消えて購入し難かったと思います。bk1を見るとメルさんが、熱い共感とわかり易い梗概を書いてくれている。僕自身の疑念に近代主義は機能不全で西欧型民主主義を越えることが出来るかというのがある。でも、ポストモダンがすべては幻想だとして相対化することは、「ホロコーストはなかった」、「南京虐殺はなかった」とする歴史修正主義者の台頭を許す隙を与えたり、逆に民主主義者達の保守化を強化したりする。
作者はそんなぼくの疑念にヒントを与えてくれる。《それは、アカデミックな歴史学とは異なる場所で営まれている多様な歴史実践を、神話や記憶といった歴史の外部へと排除せずにとりあげる試みである。神話や記憶といったオルターナティブを示すことで、歴史のみせかけの相対性を誇張すべきではない。これではアカデミックな歴史性の西洋近代性(=普遍性)に何の影響もあたえないだけではなく、ややもするとそれを隠蔽しかねない。ここでの目標は、西洋出自のアカデミックな歴史(普遍的な「よい歴史」)と歴史学が受け入れられない歴史(普遍化されない「危険な歴史」)とのあいだに対話や共奏をうながす可能性を模索することにある。》本書はそのような方向性にある思考の軌跡(トラック)を痛く感じることが出来る。
刺激的な本で単に知識の啓蒙吸収にとどまらない処世でない立派な仕事がある。そしてこの本の素晴しさは保苅実がクレジットされているが、「主体の概念」をなんらかのかたちで保持しながら、一人のミュージシャンにクレジットを帰した、ジャズアルバムのように、プレイヤーとしてアポリジニの長老たち、同僚、批判者が保苅と同じステージで演奏する。
《…それを僕はアレンジすることはできるが、完全に統御することなどできない。なぜなら、それは僕の声ではないのだから、それでも僕は、アレンジャーとして、本書の作者=主体の地位を疑いようもなく占めているし、そのことに誇りをもっている。そして僕は、本書や僕自身が、将来ほかの誰かの作品の中で、こうした複数の主体のひとつとして参与する機会があることを楽しみにもしているのである。》作者の肉声が聴こえる本は小説以外で読んだ記憶はあまりありませんね、余韻に浸ってしまった不思議な構成の博士論文です。どこまでも奥行きは深いのですが、読みやすいのです。
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