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商品説明
【芥川賞(129(2003上半期))】愛ではない。堕落でもない。あの女からもうひとつの世界を知った、それだけ。底辺を這いずる女と高校教師。血を流し、堕ちた果てに…。身の内に潜む「悪」を描ききった驚愕・衝撃の問題作。第129回芥川賞受賞作。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
吉村 万壱
- 略歴
- 〈吉村万壱〉1961年松山市生まれ。京都教育大学卒業。大阪の高校教諭を務め、現在、養護学校勤務。2001年「クチュクチュバーン」で第92回文学界新人賞を受賞。
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紙の本
暴力の博覧会
2004/01/18 23:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:リエイチ - この投稿者のレビュー一覧を見る
暴力の博覧会である。
虫を殺す暴力、風呂屋で放尿する暴力、リンチする暴力、それをもみ消す暴力、陰核を切り取られる暴力、生徒の窮地を放置する暴力、親が子を見捨てる暴力……。この本一冊の中の暴力を数え上げていたら丸一日はかかるだろう。
さらに暴力の連鎖もある。ソープ嬢を蔑みながらいたぶる高校教師の暴力、その高校教師とソープ嬢をいたぶる若者たちの暴力、若者たちの中には、教師がかつて窮地に放置したままの生徒の姿があったし、教師にひどい目に遭わされても懲りないソープ嬢は、自分を慕うやくざの男に冷酷だ。
主人公の高校教師は、ある日出会ったソープ嬢と共にどんどん堕ちていく。頭の悪い、暴力に麻痺した女の言動が、男をどんどん、投げやりで凶暴な気分にさせていくのだ。暴力の度合いはどんどん濃厚になって、けして気分のよい内容ではない。が、なぜか読後感は悪くない。凄惨な話なのだが、女の、窮地にめげないたくましさが、「人間なんて気取ってみたって、しょせんはこんなもんよ」と言っているようなのだ。
「暴力はいかん!」と普段私たちは声を大にして言うけれど、「疲れている夫を無視する暴力」や「混雑するスーパーで、駐車場を他人から奪う暴力」や、「この寒空にホームレスがいることを知っていて何もしない暴力」などを、毎日果てしなく続けている。
いちいち悩んでいては生きていけないのである。暴力は憎むべき行為である。しかし、生きるということは、被害者になったり加害者になったりしながら、傷だらけになって前に進むことなのだと、気づかされる。
抵抗と諦観を繰り返しながら、人は生きていくのだよ、との著者のメッセージを感じた。
紙の本
飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?
2003/10/19 22:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎氏の初期の評論(1964年)に「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」というサルトルについて書かれたものがある。どうして人は文学としての表現をとり、それを読むのか。そこにどのような意味があるのか。私はその評論の内容そのものよりも、タイトルそのものに強い衝撃を受けた。大江氏はその評論の最後にこう書いた。「ぼくは、《飢えた子供がいる時に…》という考え方の極に定住することはできないし、個人的な自己救済の極に定住することもできない。そのあいだをつねにフリコ運動しているという感覚が、ぼくにとってもっとも普通な、作家としての職業の感覚だ」。
第129回芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」の作者吉村萬壱氏は、《受賞のことば》の中で自身の文学としてのテーマは「暴力」であると書いている。新しい世紀にはいって、私たちは「暴力」の威力に呆然としている。国が国に対して行う暴力、大人が子供に対して行う暴力、子供が大人に対して行う暴力。いつも弱いものだけが犠牲になっている。そのような時代に文学は有効であるのか? 文学は時代に何を指し示すことができるのか。
受賞作「ハリガネムシ」は高校教師とソープ嬢の泥沼のような関係を描いている。二人の荒々しい暴力は終盤若い男たちによる行き止まりのない暴力へと発展する。それでいて主人公がたどりついたのは、安らぎのような諦観である。吉村氏は「暴力に対する恐怖と、その先にあるかもしれない光を求める中から小説が生まれてくる」と書くが、主人公がたどりついた諦観こそが光なのか。それは光かもしれないが、あまりにかすかな光でしかない。このような時代にあって、小説家がそれでも書くのは、暴力の先にある光を求める故だともいえる。
大江氏は先の評論の二年後、「作家は文学によってなにをもたらしうるか?」という論考の中で、おそらく先の問題に対して明確な答を出している。「僕はこのようにして自分が自分自身の存在の根にむかうことによって、他者に、かれ自身の存在の根にむかう緊張を喚起したいのだ」。大江氏の文学論を受け入れるとすれば、この作品で吉村氏が表現しようとした暴力は私たちに私たちの根にある暴力にむかう緊張と脅えを喚起したことになる。そして、私たちも暴力の先にある光を求めてやまないことに気づかされるのだ。
紙の本
過激なセックスシーン、暴力シーンがふんだんにあるこの作品、誤解してはならないだろう
2003/09/02 14:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
読み進みながら子供の頃のハリガネムシの記憶が鮮明に浮かんだ。よく見かけた昆虫の中でもカマキリそのものですら長く細い体の下部にはいやらしくふくれた腹が、先には三角形の鋭角な小さな頭が乗り、その割に大きな目玉がぐるりぐるりと、鋭い口先をパクパクさせ、見るからに獰猛であり、その鎌を振る様は威嚇的であり、実際に私がなじんだ昆虫の中でもっとも醜い攻撃的虫けらであった。そのカマキリを踏みつぶす。緑色の体液に混じってくねくねと細長い針金状の寄生虫が腹からはじけ出るのである。文字通りはじけ出るのだ。カマキリの体長の10倍はあろうかと思われる、ネバネバと黒光りするその姿態は吐き気が出るほどグロテスクであって、どうしてこれだけ質量がこの小さな腹に納まっていたのかとゾッとし、もしかしたらカマキリはこの怪物によって支配され、動かされ、これまでの生を生きてきたのではないかと思われるほどの存在感を圧倒的に誇示し、蠢いているのであった。
転落した果て、最下層の風俗店で働くソープ嬢。容姿、肉体は無様に、知性のかけらはなく、精神は粗野、人間にある尊厳を一切捨象した女が登場する。高校で倫理を教える<私>がこの女と同棲、人目をはばからぬ狂態の日常に、女を嫌悪し、己を嫌悪する。そして女が受けた或いは受ける暴力行為や自分の腕に刃物を当てるその傷跡にやがて己の内にすみついた暴力の種がはじけていく。そして<私>は自滅していく。
花村萬月の『二進法の犬』も暴力世界に魅せられ堕ちていくインテリを描いていた。がそのエネルギーの方向は対等の力を持つもの或いはより強い力を持つものへ向くベクトルであったが、ここでは逆に自分よりも弱いものへ向かう薄汚い暴力である。<私>はこの女の歯が折れるほど殴打する。あるいは裂けた傷口を縫い針で縫い、傷口を広げて指先でそこをこね回す。二人の痴態を目撃した若者集団が凄惨なリンチを加えるラストも<私>の精神は怒ることはなく、ただその暴力を自虐的に受けとめるのである。
<私>は堕ちていく。街娼になって死んでいく女たちを描いた桐野夏生の最新作に『グロテスク』がある。そこでは彼女たちの焦燥感をかきたてるものが社会の枠組みにあるとして、堕ちていった理由はそれなりに示されていた。
ドメスティックバイオレンス、「切れる」若者の通り魔的殺人、メール交換心中これらが日常茶飯事で起こる。池田小学校における大量児童殺傷事件の犯人のふてぶてしさはつい先日目の当たりにした。現実の卑劣な社会現象なのだが、しかし、すべて動機がわからない、理解できない暴力沙汰ばかりである。過激なセックスシーン、暴力シーンがふんだんにあるこの作品、誤解してはならないだろう。作者の目は冷静である。弱いものに向けられる常軌を逸した暴力の根元には得体の知れない魔物が潜んでいるのではないかと、現代社会の精神病状を淡々とのべているようで、実に不気味なリアル感がただよう。
そして子供心に残るあのおぞましいハリガネムシ………。このタイトル、言い得て妙である。
書評集「よっちゃんの書斎」はこちらです
紙の本
「堕ちていく」感じが、ひしひしと…。
2005/11/28 16:12
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ろびん - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分はこっち側で、あっち側とは関係ない、と
ほとんどの人が思ってるんだろうけれど、
境界線なんて、ほんとはないのかもしれないね。
きっかけが与えられれば、
すぐに爆発しちゃうような爆弾を抱えて、
今日も電車に乗ってお仕事行って、なのかも。
血とか暴力とか苦手な私は
読むのがちょっと辛かった本。