紙の本
聖なる国インド
2004/04/19 18:45
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は、宗教に大いに関心がある。コーランも読んだし、聖書も読んだ。仏教については、生まれながらにして、その思想は、身体に染み付いている。これで世界のほとんどの宗教の考えを理解しているであろうか? 答えはNOである。5億の民の信仰する宗教、そう、ヒンドゥ教の考えを理解していないのである。本書は、書店で目にし、迷わずに購入した一冊である。
本書に、ヒンドゥ教を端的に表現したたとえ話が掲載されていた。それは、以下のようなものである。
ある日、村の少年が学校帰りに道端で瀕死の小鳥を見つけた。少年は、二度、三度羽をひくひくふるわせ、やがて身動きしなくなった小鳥の死を見届けると、なにを思ったか、傍らの木片で小鳥の周りにぐるりと輪を描いて走っていった。つぎにそこを通りかかったのは、畑仕事を終えて帰る農夫であった。彼はしばらく、輪の中の小鳥の死骸を不思議そうに見ていたが、肩から鍬をおろすと、穴を掘って小鳥を埋葬し、その上に小石を積んで帰っていった。夕方いつものように、瓶を頭に乗せた女たちが、にぎやかに談笑しながら村の共同井戸へ水汲みにやってきた。女たちは小さな石塚の前まで来ると、急に黙って立ち止まった。女たちは互いにひそひそ話し合っていたが、それぞれ道路わきの藪から野花を摘んで塚に手向け、サリーの縁で顔をおおうと、ひとしきりお祈りをして立ち去った。こうして、いつしか小鳥の塚は村人たちの新しい信仰の場となった。こうして、この塚には、神の名前が付けられ、ここが信仰の発祥の地となる。すなわち、ヒンドゥ教とは、誰が、どういう教義で始めたというものでは無く、人間の持っている慈悲の優しい心から自然発生的に発生したものであるという理解である。この喩え話は、私のヒンドゥ理解の大きな一助となった。
こういう思想から寛容性が生まれるのである。ヒンドゥの心を具現化した人物がいる。それは、ガンジーである。彼は、理不尽な敵に対し、非暴力不服従を説いて、インドを独立に導いた。偉大なるヒンドゥの具現者である。しかし、現在のインドは、イスラム(パキスタン)との対決姿勢を露にし、この高尚な思想は、どこかに行ってしまっている。この矛盾がどこから来ているのか私は知らない。
本書の〆として、シュリー・ラーマクリシュナという修行僧を紹介して本書は終わっている。彼は、ヒンドゥー教に留まらず、イスラム、キリスト教と身体で神を具現化し、あらゆる宗教は、道は違えど同じ山頂を目指すものという事を地でいった人物である。凡人には不可能な厳しい修行の元、神の実在を実感した人物である。私は、彼のような修行者では全く無い。凡人の欲望渦巻く凡夫である。しかし、宗教というのは、彼といい方は違うが同じ感想を持っている。それは、つまり、宗教とは大河のようなもの。道は違えど、海と言う神に全て流れ着く、というものである。
本書は、私に取って未知な宗教であったヒンドゥー教をより身近な存在にしてくれた。充実した読書だった。
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インドの宗教でありながら、仏教の原点も理解できる。
2012/02/10 06:59
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:浦辺 登 - この投稿者のレビュー一覧を見る
新書とはいえタイトルからして手を出しかねるが、見た目より読みやすく、理解しやすかった。ヒンドゥー教というと日本人の理解が及ばない宗教と思ってしまうが、生贄を神に捧げるか捧げないかの違いだけで、原点は仏教と変わらない。ある意味、日本で親しまれている七福神のうち弁財天、毘沙門天、大黒天、吉祥天がヒンドゥー教の神様であることを知ると、親近感と興味がわいてくる。さらに、ヒンドゥー教の怪鳥ガルーダは密教の迦楼羅であり梵天の化身といわれる。ここからも仏教はヒンドゥー教から派生した宗教とわかるが、理解が及ばないインドの土俗宗教と思っていたものが意外にも日本人にとって身近であったことがわかる。
現代社会は何かと生きづらい。それは何故だろうかと考えをめぐらすと、何らかの事件、事故があればルールや法律を持ち出して規制をかけるからである。言語も宗教も風習も異なる異民族社会の西洋では事細かに契約という取り決めをしなければ物事が進まず、その西洋の考えが東洋の影響下にある日本との間で軋轢が生じているからではないだろうか。
さらに、深く考えさせられたのは、20ページにある「人間が自己を越えたきびしい目を感じる心を持つこと」、229ページの「利益と愛欲は、人間の本能のおもむくままに放置すれば、偏執や耽溺のわなに陥る危険がある。」の言葉である。現在の日本社会において「お金を儲けることは悪いことですか」と問う事はあっても、「足るを知るとは」と問いかける人は少ない。この言葉の「むなしさ」はどこから来るのだろうか。
ヒンドゥー教では人生を学生期、家住期、林住期、遊行期の4つに区分するという。この言葉を知ったとき、以前、五木寛之氏が『林住期』という著書を著わされたことを思い出したが、これも仏教に伝播したヒンドゥーの教えだったのかと気付かされた。人生の目的、それは「死ぬ」という「真実」を悟ることともいわれる。そのインド人の哲学思想はどのようにして生まれるのか不思議だったが、それは意外にも昼寝の習慣からという。熟睡はできないものの、真昼の暑さから身を守るために横になるだけの昼寝だそうだが、それは思索にふける時間でもある。現代人の不幸は考える時間が無いことと言われるが、インド人は天地の理に従う事で幸せなのである。
昨夏、原子力による発電量が不足したことから熱射の夏を過ごしたが、本書を読了後、日本人も慌てず騒がず情報の「断捨離」をし、昼寝から生まれる幸福を感じるとるべきだったと思えてならない。
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ヒンドゥーにおける性
2024/01/07 12:38
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投稿者:ないものねだり - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヒンドゥー教では性はタブーではない。欲求は堕落ではない。聖という漢字に清らかさを結び付け、性という漢字を汚れと結び付ける日本とは根本的に違う。
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●構成
プロローグ ヒンドゥー教と日本人
第Ⅰ章 ヒンドゥー教とはどんな宗教か
第Ⅱ章 ヒンドゥー教はいつ始まり、どのように発展iしたか
第Ⅲ章 ヒンドゥー教の支持基盤:カースト制度
第Ⅳ章 ヒンドゥー教のエートス
第Ⅴ章 ヒンドゥーの人生と生き方
第Ⅵ章 解脱に向かって
エピローグ シュリー・ラーマクリシュナの生涯と福音
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宗教を理解することは、なかなかに難しい。自分を形成したバックグラウンドとは全く異質な、異文化の宗教であれば尚更であろう。日本に生きる私たち、あるいは西洋の人々でも、とりわけヒンドゥー教に対しては、おそらく大きな違和感を感じるのではないか。
本書は、インドの人々の日常生活に多大な影響を及ぼしているこの宗教について、その成立の歴史を振り返り、宗教としての性格や特徴を論じ、また現代のインドにおいてどのように理解されているかを述べる。よくヒンドゥー教は多神教だというが、著者はそうではなく、多くの神々から自分にとって必要な、御利益のある神を信仰するのだという.。一見ご都合主義だが、これはヒンドゥー教の大きな宗教的寛容の精神に依る。他の宗教もそれはそれとして認め、その上で自分の奉ずる神を慕うのである。そもそもヒンドゥー教には聖書のような教典は存在しない。様々な宗派の様々な慣習があり、千差万別の教えの緩やかな総体としてあるのがヒンドゥー教なのである。
ヒンドゥー教を通じて、その教えだけでなくインド社会のメンタリティについても概観できる本であり、他の宗教を信じる人にとっても自分の宗教について再度理解を深めることができる一冊であろう。
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【図書館】
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インドについて知りたくなったので、その代名詞とも言えるであろうヒンドゥー教を手に取り易い新書で読んでみた。
どうしてもヒンドゥー教はカースト制度などから固定観念としての異質さを抱いていたのだが、本書は著者の経験を交えて明快に解説していたように感じた。
なので入門書としては十分な出来となっているのではないかと思う。
ただどうしても理解できない文化・慣習もあった。
信愛の解脱という道がありながらなぜ差別があるのか、ということに関しては個人的に納得がいかなかった。
しかし、よくよく考えてみれば宗教は概して差別的だったりするので、ヒンドゥー教だけの問題ではないのだろうし、内部批判めいたエピソードもきちんと載せてあったのでバランスは取れていたと思う(エピローグは特に必読)。
先にインドの詩人タゴールを作品を読んであまりピンとこなかった自分だが、少しは理解を深めるのに役立った一冊だった(実際にタゴールのエピソードも多く載っている)。
他のレビューで「専門用語やカタカナが多く難しかった」というようなことが書かれているが、巻末に索引もしっかりあるので、それを上手く活用して読めばさほど難易度は気にならないはず。
他にも興味深い著作があるようなので、これを機にインドの深遠な世界に少しでも触れていきたい。
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聖なるものと俗なるもの。これはインドを理解するための重要なキーワードになると思う。
インドに行く直前に買っていて、飛行機の中で読んだ本。
結局読み終わったのは帰国してからですが、むしろ逆に、現地の空気、感じたこと、みたものなどが新鮮な時期に読んだことで、思い出深い一冊になっています。
ややまじめな本ですが、「地球の歩き方 インド」のお供にどうぞ。笑。
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[ 内容 ]
弁財天信仰、輪廻転生の思想などヒンドゥー教は、直接に、あるいは仏教を通して、意外にも古くからの日本人の暮らし、日常の信仰、思想に少なからぬ影響を与えてきた。
本書は、世界四大宗教の一つでありながら、特定の開祖もなく、核となる聖典もない、いわばとらえどころのない宗教の世界観を日常の風景から丹念に追うことによって、インド社会の構造から、ガンディーの「非暴力」の行動原理までも考察する。
[ 目次 ]
プロローグ ヒンドゥー教と日本人
第1章 ヒンドゥー教とはどんな宗教か
第2章 ヒンドゥー教はいつ始まり、どのように発展したか
第3章 ヒンドゥー教の支持基盤―カースト制度
第4章 ヒンドゥー教のエートス
第5章 ヒンドゥーの人生と生き方
第6章 解脱に向かって
エピローグ シュリー・ラーマクリシュナの生涯と福音
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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ヒンドゥー教のふかーいところというより、庶民の目線を含めて俗っぽいところから聖なるところまで、エッセイチックに解説してくれます。
その解説がどこまで正しいのか、よくわかりませんでしたが・・・。
最終章のラーマクリシュナについては、とても興味を惹かれました。
顔はボビー・オロゴンっぽいけど、中身は完璧に聖人です(笑)
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新書ながら400ページもある本。疲れました。
単に教義や信仰形態について文献的に迫るのではなく、筆者の体験からかかれている部分も多いため、全体として読みやすい。
内容として面白かったのは聖牛信仰について。牛、特に牝牛を殺してはいけないという教義が存在するのはその乳牛や糞が現実生活において非常に重要なものだったかららしい。
また、バクティ信仰と日本仏教との類似が指摘されており興味深かった。
エピローグで紹介されているラーマクリシュナの思想に関してはもっと詳しく知りたいと思った。ラーマクリシュナは19世紀の人物。ヒンドゥーやイスラム、仏教においてそれぞれ神秘的な体験を経て普遍宗教的な思想に至った人物らしい。
本文では ガンディーやタゴールの記述がたびたび紹介されていたが、これらに関する著作にも触れていきたい。
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ヒンドゥー教の過去から現在に至る有り様が、うまく整理されている。様々な引用も読者の理解を助ける。新書としてはけっこう分厚いが、文章は読みやすいし、著者のインドでの研究・滞在経験が紹介されることが多く、最後まで興味深く、さほどの忍耐も必要なく読むことができた。著者の滞在経験は40年程前のものだが、今読んでも問題は感じない。
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宗教書ですが、インドの旅行書として有用です。日本文化底流にあるヒンドゥー 例えば輪廻転生、業(カルマ)や浄・不浄感などが理解できるし、ヨガやベジタリアンについてりかいが深まります。そのほかインドの偉人、カンジー・Rタゴール・ロマンローラン(仏)・スリーオーロビンド・シュリー・ラーマクリシュナについて記述もあります。
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ヒンドゥー教について筆者の膨大なフィールドワークや
研究の成果をもとに、初心者にも分かりやすく、
その現実と理想を説明する一冊。
馴染みの薄いヒンドゥー教を、
本書を読み終わる頃には親しみと畏れをもって
見つめることができるようになる。
語り口の柔らかさもあって、
穏やかにヒンドゥーの世界を知れる良書。
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ヒンドゥー教は、別に宗祖がいるわけでもなく、いろいろな神様を信仰するインド全体の世界観・文化・生活習慣なのだと理解。ヨガはそもそも心身を鍛え気の通りを良くして神に近付くための修練であり、その昔は川に浸かって内臓を取り出したり、濡れた布を鼻や胃に通すような修行も行われていたとか。現代のインド人科学者でさえも輪廻転生を信じている、とか。私の持っている価値観など、文化の中で培われたものであり、絶対的なものではないのだなと。異文化を知ることで日本を知ることができた本。そんなインドをみる筆者のコメントも、いきいきと好奇心旺盛でありながら、ヒンドゥを信仰する人々に対するリスペクトに溢れており、すばらしい読後感でした。インドに行ってみたいな。
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解脱と云う考えは、全く非現実的であり、夫れ程人の心を惹くものではない。事実、夫れに就ては冗舌な議論がなされてきた事からも分かるように、夫れは学者達の単なる論題に過ぎない。解脱は決してヒンドウーの宗教儀式や礼拝の目的ではない。ヒンドウーの儀式や礼拝の中心目的は、現世的な繁栄である。そして、此の現実世界への専心の為に、この世に再び生まれ変わると云う輪廻転生の教義が、死後の生命に就てヒンドウーが提唱した全ての概念の中で、最も説得力の有る確固たる信仰になっているのである。彼らは此の世界を余りにも深く愛して居り、その為に幾度も生まれ変わった后ですら、永久に此の世を離れると云う可能性を、出来るだけ遠い先の、起こり得ない事にしたのである。
p.337
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ヒンドゥー教には律法規範の核となる聖典がない。
ヴェーダは啓示だが律法書ではなく神を賛美し宥め儀式を解説する。集団によって信仰神の違いはあるが制度化された宗教集団ではない。
また古代ヒンドゥー教は真理に到達する事を第一に考え、誰が何を考えたか記録する歴史に無関心であった。印刷媒体では真理を伝える事は出来ないと考え口伝を重視した。※口伝内容が真理だとどうやって保障するのか疑問だが。
【信仰の目的】
信仰の目的としては神からの恩寵として現世の利益を受けるため、最終的には自らの想念、肉体から解放され輪廻からの解脱することになる。
【義務】
義務は➀供犠を行い、➁ヴェーダを学習し、➂子孫(息子)を残すことにある。
【かつてのヒンドゥー教】
バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャはヴェーダの学習が義務だが、シュードラや女性は学習が禁止されていた。ヴェーダを習得していないと義務の1つである祭祀が行えない。
だがヴァルナ(身分)よりも実際に重要だったのはジャーティ(社会集団)であり、ジャーティが違えば上下関係も大きく変わった。
【改革運動】
日々の仕事に集中して行為の貴賤や軽重は気にせず神への一途な献身により神との合一、輪廻からの解脱を説いたバクティ運動がヒンドゥー教を大衆信仰として根付かせた。