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紙の本
ナジャの迷宮、ブルトンの迷宮
2009/05/27 00:09
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者自身の私生活を「ガラスの家」のように描いたという、小説とも日記とも言えそうな奇妙な作品。ナジャと名乗る奇妙な女性との交際について、訳者岸田國士の解説によればほぼ事実そのままであったということだが、90%の事実からブルトンは美しい幻想を取り出してみせた。
ナジャと会った場所、ナジャと眺めたオブジェ、ナジャの書きなぐったデッサン、そういった写真も散りばめて、まるで人生の断章であるかのように扱われているが、僅か数ヶ月のそれは彼にとって、人間の抱く幻想の正体についてのインスピレーションをむさぼった時間だった。ブルトンは、ナジャの行動や言葉と、自分の無意識から沸き出す想念との間のシンクロニティに瞠目した。彼女こそが、シュルレアリスムが芸術の枠を超えて、人間の根源に迫りうることを示しているのではないかという幻想がそこに生まれた。
現代においては、無意識にしろ表層意識にしろ、例えば脳波という概念によってそれを物理的な実体として捉えることができる(その意味が理解可能かは別として)。しかし20世紀初頭においては、無意識とは合理性と神秘性を併せ持った存在であり、そこにフロイトやブルトンが幻想を抱く余地があったし、その幻想は科学的考察から逸脱したものでもなかった。ブルトンの無意識に対する関心を刺激するこの奇矯な美少女は、真理を伝道する霊媒であり、ブルトンを導く聖女。無意識という対象自体が幻想を紡ぎ出す装置であり、この物語はシュルレアリズムの創世神話だった。
それでは1928年に発表されたこの作品が、1963年に著者により改訂出版された書かれた意義はなんだったのかということになる。ナジャは確かに、シュルレアリズムに殉じた聖女だったかもしれないが、時間が経つに連れて、シュルレアリズムという幻想に殉じた、いいや、シュルレアリズムに殉じた幻想の少女、そういった認識がまったく等価値に生じたのだと僕は考える。同時にナジャにとって文学やブルトンは、これからの生活を、人生を豊かに引き上げてくれるという幻想の体現者であったはずだ。だからブルトンにとって、彼女の存在が誘う迷宮は深まるばかりであり、その生は幾度でも再生されなくてはならない。繰り返される短い生の記憶は、取り残された人々によってもう一度虚飾を剥がされて、新たな神話に生まれ変わるはずだ。
この物語の現実との対比については多大な研究が為されていることが、詳細な訳注からは伺われる。それは事実との合致について織るためというより、出来事や風景からブルトンが受け取った幻想の匂いや体温、また悔恨を探ることで、時代と一体になった物語の完成に近づくこともできるのではないだろうか。
紙の本
何が書いてあるのか、深く考えては読めなくなる
2019/01/22 22:31
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
シュールリアリスム、ダダイズムの旗手が書き上げた作品というと身構えてしまう。「ナジャ」とは何か。「私は誰か」「私は誰を追っているのか」「誰かいるのか?」「誰か生きているものがいるのか」ということがこの作品のテーマだといわれると余計にややこしくなる。ナジャという女性に対しては小説の中で、幻想的な女性というよりはドキュメントの構成要員として登場させているようにもみえる。この作品については、難しい固定観念、先入観に拘らずある作家がパリで妖精のような若い女性と出会った楽しいひと時と彼女が去ってからの寂しいひと時を描いたドキュメントとして読んだほうが楽しめるし、私もそのように楽しんだ
紙の本
シュールっていえば、大体みんな共通のイメージをもつ。超現実主義、それは確かにそうだけれど、いざ本質を語ろうとするとその漢字訳以上のものにはならないんじゃあないのかな
2003/11/07 20:48
5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
パリの町で出会った妖精のような若い女・ナジャ 彼女とともにすごす驚異の日々のドキュメントが、「真の人生」のありかを垣間見せる。「私は誰か?」の問いにはじまる本書は、シュルレアリスムの生んだ最も重要な、最も美しい作品である。1963年の「著者による全面改訂版」にもとづき、綿密な注釈を加えた新訳・決定版。訳者の巖谷國士の解説によれば、彼自身三度目の訳となるものだという。
50葉近い写真や図版と、本文と同じくらいの頁数の訳注(実は活字のポイントが小さいので、分量的には注の方が本文を凌ぐ)が特徴的な文庫本。訳文は、難しい漢字は殆ど使われず、その分量たるや村上春樹の文章以下で、頁が白く見えるというのは、珍しい。文についても、それは言えて、なんで「かな」で書くのと思わずいいたくなる。
それは、カバーのことばにある「最も美しい作品」という評価に対して訳者の巖谷が与えた衣装といってもいいだろう。マン・レイの手になるポール・エリュアールのポートレイト、J-A・ボファワール撮影のパリの風景、作品の中に出てくる、もしかするとシュールレアリスムの世界では有名かもしれない人々や、スケッチ・手袋などの写真といった、ブルトン自身が初版と同様に使用し、あるいは今回新たに入れ替え付け加えたものたちと同様、不思議な思いにさせる。
全体は、明確にはなっていないけれど二部構成らしい。解説にはそう書いてある。大体が、分類がはっきりしない本なので、読んでいて、途中から急に日付が出てきて「む、いつのまに日記に?」などと思っていると、そのまま走っていってしまう。変わらないのは夥しい写真が相変わらずついている事、ナジャがいることくらいだろうか。
で、冒頭にも書いたけれど、目に優しい訳文なので、すらすら読める。有名な人物が登場するし、図版も多い。ナジャを見るギャルソンの奇妙な取り乱し方といった描写も面白い。でも、殆ど頭に残らない。結局、シュールレアリスムが、誰がナント言おうと美術以外に何も残さなかったのもいたし方が無い、と納得させてしまうほど、空虚なのだ。
超現実主義、という言葉を冠する作品は現在もある。絵画にしても、私自身が「シュールじゃん」などと書く。しかし、それはあるイメージであって、ブルトンの提唱したムーブメントとは全く関係が無い。例えば、先日、柴田元幸の訳ででたグレッグ・バクスターの絵本(?)『バクスター危機いっぱつ』も、シュールであるのは分るけれど、そしてそれは面白いのだけれど、多分、ブルトンの精神などはどこにも感じられない、ただ超現実という糸だけが繋ぎとめている、そんなものだと思う。
そういうシュールレアリスムの未来を暗示させる作品、といったところだろうか。たしかに1940年代生まれの巖谷國士にとって、シュールレアリスムは空気のように身近にあったのだろう。彼の青春の時期に、それが勢いを持ち、煌いていたことは否定しない。しかし、結局、文学に関してはシュールという言葉だけを残して実体を無くしてしまったのではないだろうか。
因みに訳者の巖谷は東京都港区高輪生まれ。東京大学文学部仏語仏文学科卒。評論家、旅行家。フランスを中心とするシュルレアリスム、ユートピア文学などを専門領域とし、その他メルヘン、美術、都市、映画、マンガ等さまざまな分野にわたる評論活動をおこなっているという、いかにも一時代前の高等遊民を思わせる。仲間のための本、そう言ってしまえば、あらゆるところから非難の波が押し寄せるのだろうなあ。でも、あえて言おう、これ読んでシュールに奔るなんざあ、俗物だね。