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ちょっと古いけど、意外と面白かった。
特に「機械」は最高。
しかし長くて最後まで読めないまま図書館の返却期限が来てしまい・・・。また今度借ります。
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よくあやまって横溝利一が好きといってしまいますがあのドロドロ系ミステリーが好きなわけでなく、新感覚派のほうです。文庫だとこれくらいしか本がない(と思ってたら講談社文芸文庫でなんこかでてるみたいですね〜文芸文庫高いんだよねー)のでもっと後期の作品読みたい読みたい
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「機械」は間違いなく日本文学最高峰の傑作短編。書き手の「私」と登場人物の「私」の分裂、幾重にも重なった機械の構造、主人と云う采配者のもとで歯車のように押し合い圧し合いする三人の男。電波な文体にもきちんと意味はあったのです。笑 微笑については好きすぎてせつなすぎて何も言えない。とりあえずホモだよねとしか(それは不真面目すぎるだろう)
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歯車に挟まってしまった人間の行く末を描く「機械」が恐ろしすぎる。こんなのを現代文でやらせるうちの高校って一体なんだったんだ…(遠い眼)
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これも大学で…というのもこの近代文学の授業はまずその日の講義までにその作品を読んで論文(?)を書いてくる。というものでこのあたりになると読まずに、むしろその授業中に書いていた。なのでいまだにその時の作品の「機械」は読んでないが終わりに入ってる「微笑」がなかなか面白かったです。台詞で終わるラストが印象深い。
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『機械』は読んでも凄いですね。ありがちな小説形式の冒険だとは言われつつも、やっぱり読んでて「おもしれーなー」と単純に思わされます。文学史上こういう人がいた、ということにとても意味があると思います。周期的に読みたくなる文章。
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【本書より】彼は運好く瑪瑙のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨の生胆だ。これはまるで、噛み切った一片の唇のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山の翡翠のようで」
すると、彼の饒舌に煽動させられた彼の妻は、最初の接吻を迫るように、華やかに床の中で食慾のために身悶えした。(「春は馬車に乗って」)
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横光利一作品の中でも有名どころが入っています。「機械」を何度も何度も読み込んでいくと頭がグルグルしてきますが、だがその世界がいい。
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【蠅】―短篇。
危篤の息子に会いたい農婦、駆け落ちの若いカップル、母子、息子に会いに行く田舎紳士。馬車の出発を待ち漸く乗り合わせたそれぞれの登場人物と、蒸したての饅頭と御者。のんびりした情景の描写が美しい。また蠅の視点による客観性の表現がユニーク。シュール。(2008.12)
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2009/7/6(〜p131),8(〜p184),9(〜p347終)
友人から途中まで借りて読ませてもらい、続きがすんげー気になってしまったので図書館でかりて読みました。
私は「春は馬車に乗って」と「機械」と「睡蓮」と「罌粟の中」という話が好きで、
「春は馬車に乗って」ではとても感動したというか、胸に強く響きました。
「罌粟の中」は読んでいて楽しかった。ワクワクさせられたというか、なんだか心躍りました。
最後の「微笑」もすごくよかった。
私は最初「梶」という主人公がなんだか好けなかったが、途中からすごく好きになりました。
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文章が衝撃的。話の構成も。
病気の話も多いが、春は馬車に乗っては、
死に対する明白な臨場感が存在した。
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インテリジェンス。
かつ、パッショネイト。
面白かったけど、時代の空気感をもっと楽しめれば・・・
つまりは、自分がインテリではないと言うことを再認識した。
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春は馬車に乗って、について。
妻と彼女の介護をする夫の短編。厳しくも、優しい時間の中で流れ移れゆく二人の心境の描写が素晴らしい。聖書を読み上げる夫の心境には涙を禁じ得ない。死に向かって生きて行く人の哀しさを優しい文体で描いている。
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どうしても、後期の小説は、巧みであることは絶対に間違いないと認めつつも、その論理性と倫理性のあまりのどぎつさに、辟易してしまって、端的に言うと書きすぎに思えてどうしようもないのだが、書きすぎてしまうことが凄まじいまでのうねりをあげてくる中期の「時間」と「機械」は、今読んでも未知のものに触れたという感じが強い名編であるように思う。
蛇行しつつもすべての心理描写を一本の線の内に取り込んでしまおうとする文体は、「時間」においては世界の観察者たる語り手と語られる人物との間に生ずる時間の共有可能性と不可能性を巡る記述として利用され、「機械」においては噛み合わない四人四様バラバラの動きがまるで歯車のように個々人の意思を超えたレベルで統合されその様はまるで機械だという主張に利用されているように読んだ。統合される個々人意思の不在は不気味であるがその不気味さが結局心理であるように思えてくるその書き方が上手すぎて、だが驚嘆する前にまずどうしたってこの文体そのものの持つ音の異様さにやられてしまうだろう。全体のうねりによって迫ってくるような短編でありこの凄みは初期から後期への橋渡しでありつつも、同時に断絶であるような気がしてならない。
初期の作品は「春は馬車に乗って」が書きすぎていない名短編といった具合で、「ナポレオンと田虫」はある人間の意思が肉体的な苦痛から立ち上がってくるという主題をナポレオンに植え付けたユーモラスな傑作です。後者は描写の視点の動き、田虫という隠された存在と固有名だけで顔が浮かぶほど強烈なナポレオンの描写をどう縫っていくのかということを、異常に視点が飛び移る感覚で切り抜けているところが非常に面白い。新感覚派としてデビューしたという部分の凄みは、この辺から感じられるのでは。
後期は、「微笑」が好きでした。
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彼自身が定義した「四人称」なる概念の実践小説である「機械」。四人称とは、「自分を見る自分」その他、自意識にかかわる問題を処理するために設定された概念らしい。つまり、小説内での語り手である「私」というものを絶対視するのではなく、語り手自身も他者の考えや意識がトレースされたり、そもそ小説自身が語り手の妄想かもしれないよ、ということ。
そう、この短編集において驚くのはその自意識というものが殆ど見られず、風景描写の方が印象に残るということ。これは、作中でも度々出てくるように著者が俳諧を嗜んでいた事と関係しているように思う。
そう、俳句や短歌というものは近年の歌謡曲に出てくる歌詞と異なり、多くはそこに「私」というものが存在しない。そして、自然の移ろいとその変化というものをそのまま描き出そうとする。俳句に季語が必要なのはその為だ。
そして、そんな感性を人間関係に転写しようと実験したのが「機械」なのだと思う。誰もがネットで自分語りをするこの時代にどこまでこの感覚が伝わるかはわからないけど、自分を絶対視したって楽しくないよ。