紙の本
メディアはメッセージ
2019/02/28 10:40
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
触覚的コミュニケーションの方が言葉よりも優れている場合もあることや注意を集中させるオーラルコミュニケーションに触れながら、言語というメディアの歴史と性格を丁寧に分析した書。
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最新のメディアが、五感をしっかり伴った本来のコミュニケーション機能を持つには・・・
まさに現代の大テーマですよね!
4本ほどマクルーハンで行ってみました。
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わかりにくいとは言っても、やはり持っておくべきかな。マクルーハンのエッセンスとも言える論文を何編か集め、コミュニケーション論を介して様々な分野の教授、鈴木大拙までもが納められている著作集。マクルーハンの入門書といった感じかな。
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2009/9/5図書館で借りる→2009/9/22再び借りる
2009/9/19一度返却
1部.マクルーハニズム
1.聴覚的空間
2.言語に与えた印刷物の影響
3.メディアの履歴書
4.メディア・アフォリズム
5.壁のない教室
6.テレビとは何か
2部.コミュニケーションの新しい探究
1.新しい言語
2.触覚的コミュニケーション
3.キネシクスとコミュニケーション
4.先史芸術の空間概念
5.動く目
6.純粋な色
7.口頭と文字のコミュニケーション
8.読むことと書くこと
9.コミュニケーション革命
10.仏教における象徴主義
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「メディアはメッセージである」
「メディアはマッサージ」で有名なマクルーハン理論
口頭コミュニケーション時代の中世から印刷技術の発達やラジオ・テレビといった電子メディアの到来に伴う人類のコミュニケーションの進化を綴った斬新な理論はただただ圧倒される。
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「メディアはメッセージである」
マーシャルマクルーハンの、メディアの拡張を巻頭に、諸学者の様々な見解がオムニバス形式で語られる。
抽象的な言葉で終始語られるため、流し読みしようなんて浅はかな気持ちで読むと何も理解できない。
メモ
人間が作った全てのものは、人間の身体性の表象で、インターネットはまさに人間の脳神経そのものである。
人々は古いものを理想化し、新しいものを排除しようとする。
触覚>聴覚>視覚
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サイマル出版からの再版、バンザイ!
サイズも文庫本になって使い勝手もベターです。
マクルーハン理論は難解だが、その分、応用範囲も広い。そして、なにしろ電子メディア全盛の今になって、その威力が初めて分かるのがすごい。
メディアやテクノロジーに関わる人は一度は読んでおいて損はないと思う。
本書は思考を深めてくれるだけでなく、視野を広げてくれるアンソロジーである。学術書の典型といってもいい。
最後に蛇足だが、鈴木大拙の論は、俳句論としてはいいのだが、仏教論としては、疑問符が付く。他の宗教で大上段に、キリスト教では、とか、イスラム教では、などと語らないだろう。仏教も一括りには出来ないほど、バリエーション豊かな思想になっているからだ。
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マクルーハンはやはり刺激的で、おもしろい。ただそれを全肯定するつもりはないが。
この本はマクルーハンとエドマンド・カーペンター(人類学者)が発行していた雑誌に寄せられた論文を集めたもので、1960年に刊行されている。
前半にはマクルーハン本人の短い文章が並び、後半はカーペンターから鈴木大拙まで、さまざまな寄稿者の文章が収められている。
マクルーハンの「メディアの履歴書」では、エドガー・アラン・ポーのスタイルについて、「結末から発端に逆の方向へ書く」という、「新聞」に由来する「同時存在性」の方法論であると指摘されており、これはなるほどと思った。探偵小説とは、既に物語の発端から結末に至るまで、すべてのものが最初から同時に存在しているのであって、単に「効果」を導き出すために、叙述がつづられているわけだ。そしてこの「同時存在性」はポーの大鴉やアッシャー家の崩壊、詩論にも指摘できる。
「新聞」もまた、世界各国の事件を同時にずらりと並べ、隙間には広告も含められる。
この同時性は、テレビというメディアによってさらに混然としたものとなるだろう。
カーペンターが書いた「新しい言語」も面白かった。彼の考え方はマクルーハンとほとんど同じである。
この本で言われている「電子メディア」とは、ラジオやテレビのことである。1980年に死んだマクルーハンは、その後に嵐のようにやってきたインターネットの時代を知らなかった。そして携帯電話、スマートフォン、ゲーム機のことも。
各端末をとおして、あたかも各人のニューロンがそのままデジタルな記号作用の情報網に接続されている状況を知ったら、マクルーハンはどれだけ興奮したことだろう。
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映像が新たな世界認識を作ったらしい。なんでも歴史を学ぶのは楽しいですね〜。テレビがリアルタイム性なら、ネットは時間の概念を自在にできるようにした気がします。最近フェイス部苦で時間差でタグづけされて若干、嫌な気分になりますから。
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《マクルーハン理論とは何か? by ジョン・M・カルキン》
【「メディアはメッセージである」の4つの定理】p29
①メディアこそ調査すべきであり、メディアこそ人びとが忘れているものだ。
人びとはみな内容にひっかかっている。しかし、形式、構造、フレーム、すなわちメディアに注意を払え、ということ。駄じゃれこそ本当のものである。メディアこそ本当のものである。マクルーハンは注意をひくため、真理を逆立ちさせた。
②コミュニケーションの形式は内容を変えるだけでなく、それぞれの形式はまた特定の種類のメッセージに適している。内容はいつもなんらかの形式で存在し、したがってある程度までその形式の力学によって支配される。メディアを知らなければ、メッセージもわからない。
③メディアはそれを使う人間の知覚習慣を変える。内容と関わりなく、メディア自体はなかに入っていく。文字がなかった時代の文化(前文字時代)、文字文化、文字後の文化は、それぞれ世界をちがった色眼鏡で見る。
Cf. 「メディアはマッサージである」:これはメディアが中立的なものでなく、人びとになにかをするものだという事実に注意を向けさせたかったものである。事実、メディアは人びとをつかみ、揺さぶり、転がしまわし、マッサージする。メディアは人びとの心の窓を開いたり、閉じたりする。
eg. 外を覗いてテレビ世代を見てみたらいい。彼らは部族的人間に戻るにつれ、ものの生地と動きと色彩と音を再発見しつつある。テレビは本当につかみかかる。テレビは使われずに鈍くなった感覚を本当にマッサージする。
④ホワイトヘッド「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんど粉々にこわすような過程である」
メディアは人間だけではなく、社会もマッサージする。
メディアもしくはそこに関連するプロセスを理解することがメディアを制御する鍵なのである。
eg. あるロシアの労働者が毎日工場を出るとき、手押し車を検査されたが、実際には手押し車そのものを盗んでいたという話がある。メディアはメッセージなのに、人びとが内容だけを調べていたら、たとえば手押し車のように、たくさんのものを見落とすことになる。見落とされていたものは絵でなく額縁なのである。中身でなく箱なのである。真っ白いページは中立ではない。教室も中立ではない。
【マクルーハンの5つの定理】p32
①紀元前1967年―全感覚が行動に参加した
前文字人(プレリテレイト)は"すべてのものが一時に"の感覚の世界に住んでいることが知られる。あらゆる方向からおそいかかる現実は、視覚と聴覚と臭覚と味覚の多方向性のアンテナによってキャッチされる。
eg. エスキモーは絵や地図をあらゆる角度から同じようにみる。彼らはすばらしい記憶力を持っている。目印もないのに、白一色の世界を旅し、移り変わる海岸線の地図を学問的にも正確にスケッチすることができる。"雪"を40,50もの違った言い方で呼ぶ。そして線的な性質のない、音響的空間に住んでいる。彼らはエスキモーである。彼らが世界を知覚する自然なやり方は私たちが世界を知覚する自然なやり方とは違うのである。
それぞれの文化は、環境の要求に応じてそれ自身の感覚のバランスを発達させる。きわめて一般的にいえば、人間の認識と知覚の形式は、自分が属している文化、自分達が喋っている言葉、自分達が接しているメディアによって影響を受ける。
②技術は人生を模倣する
エドワード・ホールは『沈黙の言葉』で、あらゆる技術とテクノロジーは人間のなんらかの肉体的ないし心理的要素の延長だという命題を掲げる。
今日、人間はかつて肉体でやっていたほとんどあらゆることをものに延長した。手の代わりに石斧、足の代わりに車輪、目の代わりに眼鏡、声と耳の代わりにラジオ、金銭はエネルギーの貯蔵法というように。
このような個々の専門的機能の外延化は定義上からいうと今日最高度に進んでいる。電信、電話、ラジオ、テレビのような電子メディアによって人間はいまや自分自身の体内にあるのと同じような神経組織を世界に強く張り巡らせるにいたった。
ケネディ大統領が撃たれたとき、世界は一瞬、弾丸の衝撃によろめいた。空間と時間は電子状況のもとで解消した。
③生命は技術を模倣する
私たちは道具を形づくり、次に道具が私たちを形づくる。環境における新しい変化は諸感覚間の新しいバランスをつくり出す。孤立して作用する感覚は一つもない。
マクルーハンは物理的信号の質ないし解像度によってメディアを分類している。映画はホットであり、テレビはクール。ラジオはホットであり、電話はクール。クールなメディアないし人間は人々に参加と"インボルブメント"(関わり合い)を求める。人々が反応する余地が残っているからである。
講演はホットで、セミナーはクール。
④人間がアルファベットを形づくり、アルファベットが人間を形づくった
eg. シカゴの代表的なホテルで、ある高名な教授が多数の聴衆を前にして講演をしている途中、コブラに足を噛まれた。3秒間の出来事だった。コブラに噛まれ、聴衆がアッと驚き、目の前がどよめいたのに教授はびっくりした。記憶と想像と感情が緊急行動に入った。たくさんのことが3秒間に起きた。2週間後、教授は治癒し、同僚に手紙で知らせようと思った。
ところがこの経験を文字でコミュニケートするには、最初に各部分に分け、次に目薬をさすときのように、一時に一つずつ、抽象的で線的で断片化した連続的やり方で仲介しなくてはならない。
これがプリントの根本的な構造である。
マクルーハンによるといままで数世紀にわたり、直線は無意識に、しかし冷徹にものごとの尺度として使われた。注意されることもなく、疑われることもなく、そうなっていた。自然で普遍的なものだと思われていた。
だが電子メディアが活字の独占を破った。電子メディアは聴覚、触覚、運動感覚に対する意識を高めることによって、私たちの感覚のプロフィールを変えたのである。
⑤1967年(現在)―全感覚が行動に加わることを望む
1900年以来たくさんのことが起きたが、そのほとんどは大したことはなかった。しかし今日では6歳の子どもが小学校の校門をくぐる日にはとっくに多くの物事を知っている。へその緒を切って間もなく、おとなしくさせておくためにテレビの前に置かれ、小学校入学まで���3千ないし4千時間テレビを見ている。
高校卒業の頃までには1万5千時間テレビを見るが、学校での授業時間はそれより少ない1万8百時間である。
子どもたちは学校という情報機関にやってくるが、そのときすでに頭は情報で溢れている。
■1部 マクルーハニズム
《メディアの履歴書 by マクルーハン》p94
【新しいメディアによる世界再編成】p96
新聞も含めたすべての新しいメディアは、詩と同じように、それ自身の仮定を人に押し付ける力を持った芸術形式である。新しいメディアは、われわれを古い「リアルな」世界に関連付ける手段となるものではない。それ自身がリアルな世界なのである。それは残っている古い世界を意のままに再編成するのである。
《メディア・アフォリズム by マクルーハン》p101
ラジオ・テレビが同時的に地球をカバーすることになったので、都市という形式は意味を失い、機能を失っている。
書くことを超えることによってわれわれは、一国あるいは一文化のではなく、宇宙の、地球の全体性を再び獲得したのである。われわれは高度に文明化した準原始的な人間を喚起したのである。
われわれは聴覚的空間に戻ったのである。われわれは三千年の文字教養の歴史によって引き離された原初の感情と情緒を、再び自分のものにしはじめているのである。「手は流すべき涙をもたない」p104
《5. 壁のない教室》p105
《6. テレビとは何か》p110
「あらゆるものが同時に存在する世界」(all at once world)p112
【古い環境は芸術】p114
エレクトロニクス回路が登場すると、それは機械的世界を取り巻いて、機械的世界を芸術形式に変えた。いつでも新しい環境が現れると、それは堕落であり、極悪非道のものであると非難され、それまで堕落であり極悪非道とされていた古い環境の方が芸術となる。
テレビが芸術形式になるのはいつのことだろうか。テレビはまだ環境的である。
【エレクトロニクス的世界のルール】p126
トルーマン・カポーティ『冷血』:あらゆる人が殺人犯であり、著者自身も逃れられないという深い相互関与の世界を描いている。
エレクトロニクスによる情報流通の条件下では、「やったのはあいつだ」とはいえない。これは19世紀的な古い分類と断片化の条件下ではありえたことである。しかし、あらゆるものが同時に生起するエレクトロニクス的世界においては、それは実際上、不可能になるのである。
【「パブリック」と「マス」の違い】p127
パブリック:あらゆる人が小さな視点(point of view)を持ち、自分だけのプライベートな空間の小さな断片を持っている世界。
マス:すべてのほかの人に関わりを持ち、そこには断片化も視点もなくなる。⇒アイデンティティの喪失
■2部 コミュニケーションの新しい探求
<3. キネシクスとコミュニケーション by レイ・L・バードウィステル>p202
キネシクスとは、人と人との非言語なコミュニケーションの視覚的側面について研究する学問分野である。
<9. コミュニケーション革命 by ギルバート・セルデス>p298
<10. 仏教における象徴主義 by 鈴木大拙>p306
松尾芭蕉「古池や蛙とび込む水の音」
【古池は全宇宙、全宇宙は古池】p309
芭蕉の古池は仏教哲学の華厳の体系における法界なのである。その古池は全宇宙を内に含み、全宇宙はその古池に収められているのである。
【一が多、多が一】p311
【事物の無我を損なう知的作用】p312
【花の超越的な美】p314
加賀千代「朝顔に釣瓶とられて貰い水」
【仏教哲学の象徴主義】p316
メモ:rose is a rose is a rose.
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マクルーハン理論―メディアの理解 (1981年) サイマル出版会と、全く同じ。
「新しい葡萄酒は新しい革袋に」とは言われるが、
「古い葡萄酒を新しい革袋に」とは。
また、騙された感あり。
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共著:J・M・カルキン、ローレンス・K・フランク、レイ・L・バードウィステル、S・ギィーディオン、ジャクリーヌ・タイアウィット、フェルナン・レジェ、デイビッド・リースマン、H・J・チェイター、ギルバート・セルデス、鈴木大拙、訳:大前正臣、後藤和彦、解説:服部桂、原書名:Explorations in Communication(McLuhan,Marshall;Carpenter,Edmund)
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電子メディアの登場でメディアやコミュニケーション、教育がどのように変化してくかを考察している。旧来のメディアには無いインタラクティブ性やリアリティ、拡散性によりコミュニケーションのあり方が変わりつつあることを旧来のメディアとの対比で示し、新たな時代の到来を告げている。さて、ここで議論されている電子メディアはテレビやラジオでありインターネットではない。しかしインターネットとテレビの関係に当てはめても違和感がなく、まるで現在のメディアを考察しているように感じた。本質を見抜いた考察だからこそ時代を超えても訴えかけてくるものがある。
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インターネット登場以前の話であるが、じゅうぶん今でも通用する部分はあった。
新しいメディアによりわれわれの感覚は変容するし、それにたいする向きあい方も、従来のままではいけないということ。