紙の本
日本語の発想に即した日本語文法
2003/02/24 05:54
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の国 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は前作「日本語に主語はいらない」で、英文法の安易な移植によって生まれた学校文法の「主語」信仰を学者らしい精密な分析で、かつ現役の日本語教師の視点で、見事に論破した。私自身も著者と同様、長く海外で日本語を教えており、学校文法の陳腐さに腹立たしさを覚えていたので、「日本語に主語はいらない」が出版されたときには、「よくぞ書いてくださいました」と拍手喝采したものである。
この本はその著者の第2作目である。前作でまさに「目からウロコ」の感を抱いた方も多いのではないか。この本は前作と重なっている部分も多いが、新たにウロコを落としてくれる部分もあるので、前著を読んだ人には続けて本書を読まれることをお勧めしたい。もちろん前著を読んでいない人は、この本を読みながら「日本語に主語はいらない」のエッセンスも分かるのだから、一挙両得というものだ。
さて、前書きで、著者は言う。
私を含めた日本語教師にとっての一番の問題は何か。それは「英仏語など西洋の言葉と日本語の根本的な発想・世界観の違いがどの文法書などにも十分記述されていないこと」だ。
私は学者ではないが、日本語を学ぶ学習者と接している日本語教師だから、著者のこの問題意識が痛いほどよく分かる。言葉を教えるとは、その言葉の発想法を教えることでもあるはずだ。だが、英語文法をもとに日本語を考える癖がついてしまうと、日本語本来の発想法が分からなくなってしまうのだ。例えば、「ある・分かる」について、ある日本語教科書は次のような説明を行っている。
他動詞の目的語は「を」で示すが、「「ある・分かる」の場合は、「が」で示す。
(注・この場合の「ある」は所有の意味。存在の「ある」の前に、所有の意味の「私は車があります」などの文で、「ある」を導入する日本語教科書もある)
確かに、英語の have と understand は 他動詞だろう。だが、英語の訳文を見て、日本語の文法を説明するというのは順序が逆である。
この本は
「ある」日本語と「する」英語
という副題がついている。「ある」「する」がそれぞれ日本語と英語の発想法を象徴する動詞である、ということを著者は例を挙げて証明していく。係助詞「は」が「スーパー助詞」なら、「ある」は日本語の「スーパー動詞」である。と言っても、まだ本書をお読みになっていない方は理解できないだろうが、そのスーパーぶりは本書を読めば明らかになろう。それでも、少しでも多くの方にこの本を手に取っていただきたいので、私の目からウロコが落ちた部分を一つだけ紹介しよう。
「んです」を使うと、言外の状況説明、言い訳ができる、ということは日本語を母語とする者なら感覚として分かることである。外国人に日本語らしい日本語を使ってもらうためにも、必ず教える項目でもある。ところが、どうして「んです」を使うと、言い訳ができたり、状況の説明ができるのか、それについて説明してくれる日本語の文法書にはいまだお目にかかったことがない。だが、この本はそれに見事に答えているのだ。その答えは…これはもうご自分で読んでみてくださいな。
本書は著者の言葉によると、「広範な一般読者層」を念頭に書かれたものだそうだが、わたしは日本語教師、あるいはそれを目指す人には是非読んで欲しい1冊だと思う。「日本語教育の参考書にはほとんど書かれていないことではあるが、日本語を教えるに当たって、最も大事なこと」がこの本には書かれているのであるから。
紙の本
文法を通してみる文化
2003/03/02 19:19
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、日本語の実態に即した文法の説明を!というコンセプトのもと、明解に日本語の文法を説明する。明治以来、西洋の言語学を応用して、日本語の文法を作り上げたが、それはあまりにも日本語の実態に合っていなかった。そこから、日本語文法の「謎」が生じたのだろう。
さて、本書が強調するのは、主語はない、自動詞と他動詞、受身と使役といった項目で、これらを従来の学校文法とは全く異なる論で説明している。そして、この文法論は、英語圏文化と日本語圏文化の比較文化論へと繋がる。それが、「ある」という存在を重視する日本語は、人よりも自然のほうが大きい。一方、「する」という行為を重視する英語では、人が中心となる。自然を中心とした文化観と人間を中心とした文化観という構図を、言語の面からも説明することができるようになる。この視点が特に注目すべきであり、本書の面白い点でもある。
本書には、文法から文化論へ繋がるヒントがたくさんある。たとえば、日本語には主語がない、という著者の一番強調する論から、ではどうして近代の日本の国語学者は、西洋からもたらされた「主語」の概念に拘ったのか。日本語に「主語」が無いことに、何か不都合なことがあったのか。
それから、もう一つ面白いのは、人間の顔の部位と植物の部位が対応しているのではないか、ということ。「目」と「芽」、「鼻」と「花」、「歯」と「葉」など。これは、どうも日本に限らず、東アジアの中でも見られることらしい。とするなら、東アジアにおける身体観、自然観の関係がもっと知りたくなる。人間の身体が自然と対応するという自然観が想定できるだろう。
もちろん、本書は日本語の文法の説明も合理的で、たとえば外国人に日本語の特徴を教える際に非常に参考になる本でもある。「する」と「ある」、この二つの違いがあることを理解すれば、「謎」が「謎」でなくなるのだ。
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カナダで日本語を教える著者による学校文法めったぎり本。独断的な論理の飛躍が鼻に付くが、基本的には賛成できるはず。
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大1のときの読んだ本。
英語と日本語の違いから日本語の特徴を浮き出させた本。
初めて日本語文法について読んだ本じゃなかったかな。
なかなかショックのでかかった本として記憶してます。
日本語文法に興味がある人は是非読んでください。
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日本語の文法でしばしば話題になる(らしい)、主語の有無や「は」と「が」の違い、などの議論を、これまでの議論を踏まえ、かつ英語と対照させながら解説してくれる本。そして著者の論であり、タイトルにもなっている「『ある』日本語と『する』英語」という結論が、最初から最後まで一貫して主張されており、とても分かりやすく、面白く読める。新書らしく時々話が脱線することもあるが、「ラ抜き言葉」の話は目からウロコだった。本当はもっとこの本の内容を批判できるほどになればいいのだが、まだまだ勉強不足のおれにとってはついついうなずいてしまうことところばかりだった。もっと日本語学を勉強しようと思わせてくれる1冊だった。
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カナダのフランス語圏で日本語教師を長く務めた筆者による、日本語解説本。
英語・フランス語との比較が面白い。
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[ 内容 ]
日本語教師にとって一番の問題は何か。
それは西洋語と日本語の根本的な発想・世界観の違いがどの文法書にも記述されていないことだ。
日本語の学校文法は西洋語、特に英文法を下敷きにしているからである。
本書はそれと反対の方向で「日本語に即した、借り物でない文法」を提唱する。
[ 目次 ]
第1章 日本語と英語の発想の違い
第2章 日本語と英語の「主語」
第3章 日本語と英語の空間/人間
第4章 「ある」日本語と「する」英語
第5章 日本語と英語の受身/使役
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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授業の書評レポートのために読了。
今まで読んだ言語に関する本の中では、一番理解しやすくて、また内容も面白かった。ただ各国の言語の特徴をその国の人間性の特徴へと還元して、さりげなくとんでもないこと言っているのには笑った。
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中学生の頃、英文を訳すると、どうしても「私は」「それは」が多くてきもちわるいな、と感じていた覚えがあります。
この本では、日本語と英語の文法上の違いが、ことばの構造までさかのぼって説明されています。そのうえで、学校で習う文法への言及もされています。
「日本語に主語はいらない」というのが三上さんの主張です。
ごらんあれ。
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前掲の「差がつく読書」で紹介されていた本。不勉強で三上文法知りませんでしたが、かなり説得力ありました。「ある」日本語と「する」英語の対比もわかりやすい。
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これはおなじ著者の手による『日本語に主語はいらない』で出てきた問題に、多少の彩りを加えたものといえる。新書で手ごろだし、説明もさらに上手になっていると思うが、共通の要素も多い。
とくに重要な「プラス」要素としては、英語と日本語を比較して、前者を「する言語」、後者を「ある言語」と位置づけることから、さまざまな考察がなされている点。
例えば、「I see Mt.Fuji」と「富士山が見える」の違い。英語ではあくまで「I」が主体にあるのに対し、日本語では「富士山」の「見える」という属性を表現している。ここに端的に「する」と「ある」の違いがある。
この「する」と「ある」の刻印は、両国語の実にあちこちに見受けられる。
例えば日本語では場所を示す名詞である「こなた」「そなた」「あなた」が人間を表すことがある。「殿」も「正室」「側室」も「奥さん」も、場所が人に変じている。もとより、「名字」そのものも、地名であったり、村の中での位置関係(お山の入り口だから山口とか、田んぼの中だから田中だとか)がもとになったりしているものが多い。一方、英米では「地名が人名にちなんで名付けられる」という逆の発想がされている。ビクトリア湖もセントルイスもサンフランシスコも人名だ。
過去形の作り方を見てみよう。英語動詞の過去形に添えられる接尾辞[-ed]は、[did]から来ているらしい。killed は「kill-did」であるというのが、まさに「する」言語なのだ。一方、日本語で過去形をつくる「た」は、「殺してあり」→「殺したり」→「殺した」という変化でつくられた。まさに「ある」言語といえよう。
エベレストに初登頂したヒラリーの「そこに山があるから(Because the mountain is there.)」は、その発想が英語的でない、「ある言語」的な発想だからこそ名言となった。反対に、有森裕子の「初めて自分で自分をほめたいと思います」は、日本語的でない、典型的な「する言語」発想である。
という具合に、英語/日本語を比較しながら、文法論が文化論にまで昇華しているのが特徴。言葉が文化をつくるのか、文化が言葉に影響を与えるのか。どちらの要素もあるとは思うが、これも著者が外国で日本語を教えるという経験から、多くのインスピレーションがあったに違いないだろう。
文化論、文明論というと腐るほどあるが、「言葉」に寄り添った考察としておもしろく読める。より「日本語文法」を詳しく知りたい人には前著を、英語と比較しての日本語論に興味がある人はこっちを、というふうにすすめたい。
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英語に代表されるヨーロッパの言語と日本語を比較し、前者が行為者を重視する「する言語」であるのに対し、後者は場所における存在を重視する「ある言語」だという主張を展開している本です。著者はこうした立場にたって、日本語における主語の問題のほか、過去、敬語、受身と使役などの問題に対して明快な答えを提示しています。
同じちくま新書から刊行されている山崎紀美子の『日本語基礎講座―三上文法入門』と同じく、三上文法の一般向けの入門書として読めるように思います。また、「する言語」と「ある言語」の対比に基づいて、日本と英語の文化的な差異にまで議論を及ぼす試みもあり、これも厳密にこうした主張が成り立つのかどうかはさておき、読み物としてはおもしろいと思います。
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人称代名詞と所有形容詞を使って文に人間をちりばめる、と言う英語の特徴はあまりに的確すぎて笑いが止まらなかった。
He took his gun out of his jacket. 彼が三度も出てくる。日本語だと銃を上着から取り出した、て終わり。何冊か読んでいるが、金谷氏の日本語に対する洞察は本当に凄い。長年外国に住んでいるからこそ見えてくるものが多いのかもしれない。
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アメリカでジョージ・ブッシュ山は可能性があり得る、日本で吉田茂山はあり得ない、との事。文化の差って面白い。
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ある日本語
する英語
好きではない
youとIは相互排他的
行為者不在文のおおさと格助詞「が」
ら抜き言葉ではなく、子音抜き言葉