紙の本
現世を超えた山の向こうに
2004/02/04 19:31
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
『女たちのジ時ハード』の作者として、そのスマートでいて、やけにリアリティのある筆致には驚かされていたが、こんなに「骨太」な小説を書いているとは知らなかった。「骨太」とは、古めかしい言い方かもしれないが、おそらく本書のテーマには、このくらいの方が似合うと思う。というのも、当初、外国人妻の「買い入れ」といった、ややショッキングな(そして軽薄な予感を持たせる)エピソードから始める本作のストーリーは、いつしか現世的価値観を超えた宗教へと至り、ついには、海を越えた山の向こうに愛の境地を見出すというものだからだ。だからとって、シャチホコばって「ジュンブンガク」的な読書を強要されることもなく、いつしか「まじめ」に人生や恋愛に向き合わせてくれる、感動的な長編だと思う。
投稿元:
レビューを見る
聖域以来この人にも随分楽しませてもらった。最近ご無沙汰ですが・・・。ひとつあげるとなるとやっぱこれですか・・・。
投稿元:
レビューを見る
とにかくイライラさせられっぱなしの小説でしたが、(入り込みすぎて)、読み終わった後はなぜかすっきりとしました。とにかく重かった。
投稿元:
レビューを見る
新興宗教、農家の嫁取り・・・現代が抱える問題を鮮やかに書いてると思う。読み終えたあと、不思議な爽快感と共に、真に人間らしい生き方とはなんだろう・・・と考えさせられた。ちっとも答えは出ないけど。
投稿元:
レビューを見る
嫁の来てのない農家の跡取り息子がネパール人の嫁をもらう。そこから始まる奇怪な出来事。失踪する妻、それを捜し求める夫。既存の概念が次々崩されていく、篠田さん得意のパターン。ラストの夫のセリフ。そこだけ読んでも、今思い出しただけでも胸が熱くなって涙がにじむ。傑作。
投稿元:
レビューを見る
ネパールから嫁いできた女性がとんでもない力をもっていたというお話。
外国人妻の現状が少し見ることができた気がします。
投稿元:
レビューを見る
皆川博子氏が書く一連のクロニクルと同様に、テレビを点けながら、音楽を流しながら、などといった“ながら読み”を許さない、強い作品。
粗いところはあると思う。
結木家が没落していく過程は、小説とは分かっていても我が事のように身につまされるほどリアルだし、それに伴うエピソードの数々も充分に読ませるものではあるが、それにしてもちょっと冗長なんじゃないか、という気がしないでもない。
だが、元来長編好きの私にとっては、骨格がこれだけ確立された作品なのだから読了してみればさしたるマイナス要因にもならなかった。
それほどまでに、文学としての力がものすごく強い。
作品そのものの評価とはまた別問題として、篠田節子氏の小説の中には必ず1つは、心に染み入ってくる登場人物の言葉や思考がある。
「アクアリウム」なら、「動物好きに動物学などできるものか」。
「ロズウェルなんか知らない」なら、「考えてみれば第四次産業、観光などというもの自体が胡散臭さなしには、成立しない」。
そしてこの「ゴサインタン」の中からは、「強いというのは、人を食べて自分が大きくなることで、大きくなるからお腹がすいてもっと食べたくなって、食べるからもっともっと強く大きくなって。反対に弱ければ、だれも食べない。小さいからほんの少しの生命をいただいて、平和に、何も持たずに、毎日生かしてもらっていることに感謝しながら、生きていかれる」。
これらはもちろん篠田氏だけが唱えるオリジナルな発想ではなかろうが、適切な場所に適切な語彙でもって述べられているから、何ら抵抗なく読む者の心中に染み込んでくる。
この感覚も含めて、やっぱり篠田節子はすごい。
到達する境地はある意味対極だが、ラストにつながる一連では、ちょっとだけ貫井徳郎氏の「神のふたつの貌」を想起した。
投稿元:
レビューを見る
第10回山本周五郎賞受賞作。
主人公の豪農の跡取り息子は,
何十回目かの見合いでネパール人と結婚する。
しかし,妻の奇行により両親が相次いで死に,
更に全財産を失ってしまう。
失踪した妻を探して,男は神の山ゴサインタンに辿り着く。
人と宗教という壮大なテーマを1組の国際結婚に照らし,
喪失と再生による人の救いについて,正面から描いている。
具体的な事象を冷静に描いていく筆致は,
大作であるだけにやや間延びした印象も受ける。
また,古典的な男性観を投影された主人公にも少し疑問が残る。
投稿元:
レビューを見る
5月7日読了。「このミステリーがすごい!」1997年度の第18位の作品。東北の農村の地主の総領である主人公が、業者を介してネパールから娶った花嫁・淑子。一向に日本語を覚えない、大人しく朴訥な嫁と思われた彼女は次第に神がかり的になっていき、やがて・・・。崩壊していく主人公の生活・財産・価値観とともに、読者の我々の価値観もまた揺さぶられる。高度成長期の日本の地主・小作人の関係の表と裏、極貧の東南アジアの聖と俗など。人間の矛盾と生命力が剥き出しとなるかのような、実に読み応えのある小説。救いとは、再生とは何か?幸福とは何か?「捨てる」と口で言うのは簡単だが、手の中にある小さな幸せを大事にしようとすることこそが人間らしさ、という気もするが・・・答えは分からない。第十回山本周五郎賞受賞作。
投稿元:
レビューを見る
篠田節子は,大きく分けると「ホラー系」と「社会派娯楽」,「魂の救済的」,「ミステリ」の4つぐらいのジャンルを手がけていると思うのだが,これは代表的な「魂の救済系」。
好き嫌いの分かれる作品だと思う。
正直,私は苦手だ。
なにが面白いのか分からんが,おもしろさを求めて読んでいいのかどうかも分からん。
でも途中で放棄せずに最後まで読ませてしまうところは,スゴイ。さすが篠田節子。
でも,どんな内容だったかもう忘れた。
投稿元:
レビューを見る
すべてを失った男の再生の物語。
読ませる文章がさすが。
人間って、すべてを失わないと救われないのかな、ってちょっと思った。
投稿元:
レビューを見る
ちょwwwこれはないわwww
「篠田節子、案外読めるわー♪これから好きな作者の一人になるのかしら?かしら?」なんて思ってた矢先だったから特にショック。
下手にアメリカに住んじゃってるだけあって(?)宗教関連は抵抗があるとはいえ、これはちょっと・・・
こっち住んでからかなりのコンサーバティブになったので、淑子の喜捨行動とか「お前関係ねーだろ!シネ!」って思ったり・・・
そもそも、名家の跡取り息子の嫁を、ネパールの斡旋会社(知らずとは言え)から貰って、日本語も覚えないし不器用だしとヤキモキしてたら両親が続けて死んで、直後嫁が神がかってきて奇跡起したり喜捨したり。で、息子もあきらめて名家の財産全部捨てちゃって、それでもついてきた信者と共同生活をしてる間に嫁が行方不明になって、そこまで愛してたの?だったのにネパールまで追いかけてって、現地の人と交流なんてしつつようやく嫁を見つけたときに、「今度は俺がネパールに住むよ!また一緒になろう!」って?
なに?
なんなの?
たまに思い出したように、「それでも淑子について行くとなぜか安心する」って記述があるからゆえの行動だとは思うけど、その「なぜか」説明してくれ!
投稿元:
レビューを見る
神の子と人の子、どちらが尊いのか。
救われる者と救われざる者、どちらが幸せなのか。
都会で生きる人と自然で生きる人、どちらが救われるのか。
投稿元:
レビューを見る
山岳小説だと思って買ったんだけど違った。一種の「魂の再生の物語」であった。
住民の生活や新興宗教の詳細なリアリティは作者らしい。 が、それとホラーもしくは神秘小説的趣きとのギャップが奇妙。
投稿元:
レビューを見る
★3.5くらい。読み終わるのに1ヶ月近くかかってしまった。P648の長編小説。人間救済、回復の物語。
<名前の回復>カルバナ・タミという名前を剥奪された「淑子」。
<人間性の回復>人間(輝和)が変わるには、これほどまでの痛苦を味わう必要があるのか。想像を絶する「墜ち方」。ここまで墜ちても回復できるのだとしたら、墜ちてみるのもありかもしれないよなあと思う。残念ながら、普通だったら、どっかで死ぬだろう。主人公・輝和、人間の機微を理解できない、この鈍感な男が、最後には頼もしく、再生してゆく様。
<家父長制(家)の崩壊>豪農の跡取り息子・輝和が、すべてを失う。本当に「すべて」を。名士としての歴史すらも、搾取と強奪の構図の上に作られたものでしかなかった。
<教祖の誕生>教祖・淑子の誕生。奇妙な共同生活。
<神を犯す>虚しい排泄の感覚。
<数多ある信仰様式>ネパール、民間信仰。