紙の本
肩透かし
2001/12/21 09:49
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:白井道也 - この投稿者のレビュー一覧を見る
“オフサイドを愛し育んできた英国の「心」を描く”。この「心」ってのが曲者で、こういう抽象的なコトバは信用できない。著者はこの本の至るところで「オフサイドの起源はわからない」「しかし、こういう問いを持つことは有用だ」と述べているに終始している。そのオフサイドという不条理なルールを生み出した英国国民のナショナリティについての言及もほとんど見受けられなかったし、基本的にこの本は、フットボールの歴史を記述したものだと思って欲しい。肩透かしです。
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シンプルなサッカーのルールの中にあって、もっとも難しいとされる「オフサイド」。その存在理由をサッカーの歴史を辿りつつ解説する。ゴールが決まった瞬間の爆発的な感情の高まり。それはこの厄介なルールが存在するおかげでもあるのだ。
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オフサイドは一日にしてならず。最近オフサイドだなっていうプレーが分かるようになってきた反面、オフサイドって何?って言われれば分からない。だもんで、サッカーの歴史の門を叩いてみた。論文の参考にもさせていただいた。
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2月7日読了。いかにも狙ってます的なタイトルに見えるが、フットボールの歴史について深く検討している読み応えのある本だった。もともと住民を挙げての祭礼だった「玉転がし」から儀式のニュアンスが失われ・抽象化し、「住民全員参加のイベント」という性格が継承され、それが「イベントの終了」を意味する得点を困難にし、得点しやすい行動を「卑怯」とみなすようなオフサイドのルールを形成し、残したということか。アメリカで考案されたバスケットボールにはオフサイドルールはないし、サッカーにオフサイドがなくても実は誰も困らないのだろうな。ディフェンダーの仕事は少なくなるかもしれないけど。
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近代スポーツ化によって、フットボールが何を得て何を失ったかがよく分かる良書。
特に、客観的なルールを制定し、階級制を排除して誰にでも楽しむことの出来るものへと変革したことで、むしろ民衆的な祈りやカーニヴァル的な騒ぐ、笑う、殴る、そして単純に身体を動かすという根源的な快楽を減衰させてしまったことは興味深いです。
スポーツマンへというより、他の学問への援用に役立つ本です。
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[要旨]
「オフサイドはなぜ反則か?」それは一生徒の素朴な問いから始まった。ゴールを目指しながらも、後ろへ後ろへとパスをつないでいくサッカーやラグビー。この不合理なルール“オフサイド”の発祥を遠い中世、英国の村祭りへとたどるとともに、このルールを愛し、育んできた英国の“こころ”を描く。「スポーツ・ルール学」を提唱する著者、渾心の作。
[目次]
序章 オフサイドとは何か(問題の所在;オフサイド・ルールの条件;オフサイドの適用 ほか);
第1章 オフサイド以前(分岐点;いろいろなフットボール;マス・フットボール ほか);
第2章 オフサイドの出現(生活感覚の変化;「校庭」の成立;「校庭のフットボール」の特徴 ほか);
終章 具体から抽象へ
不合理なルール、オフサイドのルーツをたどって中世イギリスの村祭りに行き着いた著者がそこで見たものは。
得点の多さを競い合うボール・ゲームであるはずのサッカーやラグビーに、それを制約する措置、すなわち、前方
へのパスを制限ないし禁止するルールがあり、しかも、それがゲームを特徴づけるほどの重要な役割を果たしている
サッカーやラグビーは、得点を競う競技でありながら、なぜその多さを競うことに制限を設けるのか。
フットボールを愛好した多くの人々は、なぜ不合理かつ奇妙ともいえるルールを生み出し、認め、支持してきたのか。
そのようなルールの存在は、もともと、その原型をなすフットボールが得点の多さを競うことを目的とするものではなかったからではないのか。
以上のような推論をふまえて、著者はオフサイド・ルールの成立・定着とその背景にある社会や生活、当時の人々の考え方との関係を考察し、次のような結論を導き出す
前近代のマス・フットボールは村や町の全域を競技場にして行なわれた「祭り」のメイン・イベントであり、どちらかのチームがゴールヘボールを持ち込めば、それで競技が終了する一点先取のゲームであった。この競技では勝敗を決するより「祭り」を楽しむことが重視され短時間で終わることのないよう注意が払われていたが支配者による禁止措置や制限を受け、やがて「空地」で開催されるようになり、さらに「校庭」のフットボールへと移っていった。
「校庭」のフットボールは、十八世紀中葉から十九世紀中葉にかけ、ほぼ一世紀にわたり、
それぞれのパブリックスクールで独自性を保ちつつ行なわれた。「校庭」の競技場はそれま
で以上にはっきり区画され、規模も縮小されたため、競技者や見物人を含むすべての人が常
にプレーを僻撤することができた。やがて、人々はゴールの瞬間や勝敗の帰趨に期待を寄せ
るようになり、ボールをゴールに運び込むための密集戦や突進といった組織的プレーに関心
が高まり、フットボールは、「祭り」から「競技」へと変化していく。そうしたなか、「祭
り」のフットボールと同じように長時間続けること、また得点が容易に得られず、それによ
ってフットボールの醍醐味である密集と突進が満喫できることが求められた。「「こそ泥のよ
うに」「ぶらぶら」と「意図的」に「チームを(離れた)位置」でプレー」し、得点のため
に手段を選ばない「勝利志向的な−したがって競技を早く終了させる−行為」(本書二四
二貢)は、フットボールの醍醐味を破壊する「汚い」プレーとして指弾ないし禁止されるよ
うになる。オフサイド・ルールの登場である。
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ラグビーは「紳士のする野蛮なスポーツ」であり、サッカーは「野蛮のする紳士のスポーツ」であると言われるが、前者の所以がなんとなくわかったような。一方サッカーに関してはよくわからなかった。ここでいうフットボールというのが「突進と密集」という事を前提としており、祭り的・反社会的なマス・フットボールから、空き地のフットボール、そして校庭のフットボールという変遷の中で、手を使わないサッカーという競技が派生的になぜ生まれたのか?という説明がないからだ。(エリス少年の話がデタラメというのはだいぶ認知されてきたような気はするが)
長時間享受・1点先取からパブリックスクールの富裕階級層の子息における有名校争いの勝敗至上主義への流れや、そして「男らしさ」の追求と、「男らしくない行為」であるオフサイドルールの誕生の背景はとても説得力がある。また、昔はレフリーがなく、両チームの代表(上級生や父親の地位や身分で決まる)の2人でジャッジし、少しでも臆病なプレーと判定された者はその後の学校生活がみじめになるというのには笑った。これじゃあイジメにもなりかねない。その他、対抗戦・定期戦から協会による競技会への変化は、最近まで慶応が帝京との試合を拒んでいた事実を裏付けており、ルーツ校として歴史と伝統を重んじていたんだなあと思わせる内容。
アマチュアリズムにおける日常的・物質的な利益の追求との分離、およびスポーツの非日常・非現実の高みおける「競争」と「社交」が、オープン化・プロ化によって自由競争の拡大と激化をもたらした事によって、具体から抽象、土着から普遍になった現在の状況については、時代の変化と共にフットボールが何を失い、何を得たのか?を今一度立ち止まって考る価値はある。
「スポーツルール学」という分野があるのは知らなかったが、社会・歴史・文化に関係する興味深いテーマなので少し追いかけてみたい。
それにしてもイギリスの伝統に従いたくないからといって、次々と勝手な競技をプラグマティズム的に発明してしまうアメリカという国は凄いな。オフサイドのない「アメリカン」はフットボールではないというのは名言。
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村々をフィールドにしてプレーする――フットボールの起源はそこから始まるらしい。「プレーする」というと、きちんとしたルールがあって、審判もいて...みたいなイメージだが、最初は共通のルールなどなかった。というか、フットボール自体も「スポーツ」というより宗教的性格を帯びた「お祭り」の一種だったようだ。なので、道には大勢の人々が群がり、家の窓、壁は破壊されるなど、まあやりたい放題だったと。そんなことされたら、やはり迷惑に思う人もいて、「フットボール禁止令」が出たとのこと。
最初に村々をフィールドにしていたフットボールはそこから、「空き地のフットボール」、「校庭のフットボール」へと変遷していき、その過程で細かなルールなども決めれていく。そこで、本書のタイトルにもなっている「オフサイドはなぜ反則か」というと、その理由がおもしろい。正解は本書を読んで知っていただきたいのだが、ヒントを出すと、フットボールは①「がっつーん」とぶつかる男らしいスポーツ、②祭り的要素、③「一点先取のゲーム」、と考えられていたので...勘のいい人ならもう気づいたはず。
本書は教養本をあまり読まない人も知的好奇心をくすぐられる一冊です。僕はフットボールをあまり知らないですが、「なるほど!」と納得のいくことが多かったように思えます。ただ一つマイナスポイントを挙げておくとすれば、一文が長い箇所が多いです。著者の特徴なのでしょう。ただ、全般的に読みやすい本なので、一読することをオススメします。
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タイトルに期待して読んだが、肝心の近代サッカーにおけるオフサイド部分が描かれておらず、旧史にとどまっていたのは残念。
ただ、80年台に既に「オフサイドポジションにいるだけは反則でない」との記述が見られ、自分の中の知識を改める必要あり。
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書名通り。やや内容は難しいかも。
しかし、「フットボールの変遷」を知るうえでは、個人的には面白かったと思う。
14世紀以降、フットボール禁止令がロンドンなどの都市で41回出されたこと。
元々、謝肉祭に行われる数百人から数千人規模の行事だったものが、囲い込みに対する抗議運動として利用されたこと。
その後、「空き地のフットボール」から「校庭のフットボール」へ場所を変えていったこと。
名門校によってルールが洗練されていったこと。
元が祭りの行事なので早く終わっては面白くないし、密集・突撃を重視する「男らしさ」のような価値観からオフサイド(味方から離れること)が禁止されていったこと。
当初はチームの人数に決まりがなく、何十人対何百人というような場合もあったことには驚く。
また、それなりの「粗暴性」をもっていたことなど、今まで知らなかったことを知ることができ、よかった。
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「純粋な”サッカー本”では、ないかもしれませんが、オフサイドについてフットボールの歴史をたどりながら考える、とても興味深い本だと思います。」
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読み終わりました。とても興味深い面白い本でした。
作者は筑波大や広島大で、体育教育を教授されていた方です。本書も、体育教育に深みを持たせたいという目的で書かれています。
フットボールのオフサイドを例にとり、なぜこのような「点が入りにくい」ルールを作ったのかを、中世から19世紀にいたるイギリス社会の歴史をもとにひも解く書です。
街を舞台とし、祝祭として行われていたフットボールが、空地のフットボールとなり、校庭のフットボールへと変化する中で、もともとは勝敗を二の次にし、3日も5日も続けられたフットボールが、勝利を争う競技主義のスポーツへ変化ていきます。そして、ルールの統一化が図られ、リーグへ向かっていきます。この変化はジェントルマンの社交だったスポーツが、すべての人が技を競う公平な競技になっていたことを表しています。そして、その背景が産業革命を中心とする社会の変革にあると説きます。
アメリカで作られたバレーやバスケットにはオフサイドはありません。フットボールがイギリスの歴史に真に根ざしたスポーツであることがよくわかる一冊です。
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オールブラックスが二回連続でW杯を制した日に読了。南ア戦の感動、五郎丸のルーティンで、盛り上がれるだけ盛り上がっているラグビーですが、でもルールについてはかなり謎のまま見ている人も大多数だと思います 。確かに見ているうちになんとなくわかってくるサッカーと比べ、TV解説者でさえ反則の種類を間違えたりしていました。さらにルールそのものもどんどん変わっています。そんなラグビーのルールが「なぜ」生まれて「なぜ」変わっていくのかを歴史・文化・経済から理解できる、タイムリーな読書となりました。そう、ラグビーを知ることはイギリスの近代史を知ることかもしれません。そして、そもそもスポーツって何なのかを考えさせられるかもしれません。もちろんプレイそのものも相当奥深いテーマを抱えているのですが、試合前の例えばオールブラックスのハカの存在もラグビーならではの奥深いところの表出だと思ってしまいました。
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フットボールは祭→抗議や抵抗の意志表現手段→空地→校庭→競技と発展していった。
街全体がフィールド、一点先取制、だれもが参加できる、より長く楽しむため、オフサイドは、「意図的に密集から離れてゲームを早く終わらせようとする行為」を制するものだった。
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フットボールはモブ(暴動)→空地→校庭へプレーのフィールドを変えながら洗練されていった。母国であるイギリスで、Footballと言いつつラグビー校式とアソシエーション式に分化していったのは興味深い。祭から競技へと変わってもなお、それを長引かせるための規則として、悪い振舞いであるオフサイドが成立したと言うが、数日間の競技が普通だった当時、なぜ競技を早く終わらせるようなプレーヤーが出てきたのかについては考察がされていない。日本の体育研究者が踏み込むには、あまりに奥深い問題だったのだろうか?