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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2000.11
  • 出版社: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日選書
  • サイズ:19cm/295,3p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-02-259763-2

紙の本

大正天皇 (朝日選書)

著者 原 武史 (著)

【毎日出版文化賞(第55回)】側室の子どもに生まれ愛情を受けず病気を繰り返した幼少期、全国を回った皇太子時代、明治天皇の重圧と闘いながら病状を悪化させていった天皇時代…。...

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大正天皇 (朝日選書)

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商品説明

【毎日出版文化賞(第55回)】側室の子どもに生まれ愛情を受けず病気を繰り返した幼少期、全国を回った皇太子時代、明治天皇の重圧と闘いながら病状を悪化させていった天皇時代…。明治と昭和の狭間に埋もれた悲劇の天皇像を明らかにする。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

原 武史

略歴
〈原武史〉1962年東京都生まれ。東京大学大学院博士課程中退。明治学院大学助教授。専攻は日本政治思想史。「「民都」大阪対「帝都」東京」でサントリー学芸賞受賞。

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みんなのレビュー17件

みんなの評価3.9

評価内訳

  • 星 5 (4件)
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  • 星 3 (5件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)

紙の本

「人間的な,あまりにも人間的な」

2009/06/19 10:28

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Ikuno Hiroshi - この投稿者のレビュー一覧を見る

 長い明治と昭和の狭間にあって,たった15年しか在位しなかった短命の天皇。
 統治期間である大正時代の印象はあっても,後半は裕仁皇太子による摂政下にあったためもあって,天皇個人に対するイメージは余りにも希薄だ。
 その希薄さの中に,今なお語り継がれる「遠眼鏡事件」の風説(詳しくは検索)による「脳の病」「暗愚」といった否定的な姿で立ち現われることが多いのではないだろうか。
 この本は,そんな大正天皇の一生を各種資料を駆使して丹念に描いた評伝(本格的なものとしては最初の!)である。

 明治天皇の側室の子として(正室=皇后からは子は生まれなかった)唯一生き延びた親王は,最初から病弱だった。しかも当時の皇室の伝統に従い,実母(柳原愛子)の手から離され父と会うこともなく里子として育てられる。
 病弱故に通常よりも学習は遅れ,学習院で規律だった集団生活に馴染むこともなく,個人教授によってなんとか学習を続けた少年時代。
 そのせいか,「現人神」として人間的な言葉/振舞いの少なかった父・明治天皇とは異なり,自我を抑えることなく闊達な性格を開花させた青年時代。
 九条節子との結婚により初めて家庭を持った嘉仁皇太子は,有栖川宮威仁親王という理解者を得,「地理歴史の実地見学」という名目で巡啓(旅行)を行うことで健康を取り戻す。

 この全国巡啓の頃の姿は,人間としてとても魅力に溢れている。
 歓迎に集まった民衆を観察してトラコーマ(眼病)が多いことを見抜き,その予防策の甘さを指摘する鋭さ。
 人力車での移動の際,車夫に予定とは違う道を指示して行かせるという受け入れ側の意表をつく行動(夜間,こっそりと宿舎を抜け出して散歩するということもしている)。
 各地の視察場所や伺候した知事たちに続けざまに質問を浴びせる好奇心の強さと饒舌。
 皇族として初訪問した朝鮮(以下,当時の呼称を使用)では,幼い李垠皇太子を気に入り,彼が日本に留学して来た時には朝鮮語の学習に熱を入れている。
 人間離れしたイメージの強い明治天皇/昭和天皇とはまったく異なる姿がそこにはあった。

 愛情に恵まれなかった幼少期を過ごしたためか,家庭ではひとしお子煩悩だったようだ。
 慣例により里子に出された皇子たちを数年で御所の隣の皇孫御所に引き取り,完全同居ではないものの食事を共にしたり節子妃の伴奏で歌を歌ったり,また一緒に遊んだりと,今の皇室に近い形で過ごしていたらしい。巡啓先では,三皇子のための土産物を選ぶこともよくあったという。

 しかし,このような人間的な姿は,天皇を超越的な存在として扱う近代天皇制においてはあまりにも異端なものだった。
 即位後,元老・山県有朋は,天皇に対して思ったことをすぐ口にする性格などについて苦言を呈しているし,山本権兵衛は政治的な面で不信感すら抱いている。
 環境も,自由に振る舞えた皇太子時代とはがらりと変わった。闊達な性格の裏返しとして秩序,規律といったものに馴染めなかったことは,天皇としての束縛の多い生活はかなりのストレスになったらしい。後に秩父宮が言ったように,その環境の激変が天皇の健康を蝕んでいったようだ。
 病(病名は不明だ)は次第に悪化し,遂に一人で歩くことも言葉を発することも不自由になる。記憶障害も起こったらしい。
 そんな中で印象的なのは,李垠拝謁の時,彼の記憶も失ったらしい状態でそれでも朝鮮語らしい言葉を発したという逸話だ。

 病の悪化に伴い,裕仁皇太子の摂政就任が浮上し始める。
 世論に対する地ならしとして病状公表も行われ,その中で幼少時の「脳膜炎」の後遺症によると思われる「脳病」という表現が使われるようになった。これが,大正天皇のイメージを変えていったことは疑いないだろう。そして,そのイメージは現代まで続いている。
 摂政就任に際しては,側近による「押し込め」的事態があったのではないかと筆者は推測している。これについては,更に研究が必要だろう。

 大正天皇の崩御に際しては,それまで相見えることもなかった実母の柳原愛子がずっと手を握っていたという。筆者はそのことについて,「大正天皇は,天皇としての役割を完全に終えたとき,皮肉にも初めて親子の情愛を交わすことができたといえようか。」と評している。
 崩御後,節子皇太后は一日のかなりの時間を大正天皇の御影の前で祈って過ごす生活を,25年間ずっと続けた。
 この二つのエピソードは,人間としての大正天皇の姿の一面を見せてくれるものではないだろうか。

 天皇が人間として生き生きと振る舞うことができなかった近代天皇制。
 その残滓は,美智子皇后の皇太子妃時代の苦闘,雅子皇太子妃の今の有様に未だに残っているのではないか。一部からとかく批判されがちな徳仁皇太子の振舞いは,それに対する抗いではないのか。
 大正天皇のような傷ましい犠牲は,これ以上出してはならないと思う。



 「人間的な,あまりにも人間的な」
 大正天皇の生涯は,この言葉に尽きる。それが,この初の評伝を読んでの感想である。
 この本の後に続く研究を,是非とも望む。

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紙の本

「悲劇の大正天皇」の実像に迫る画期的な評伝

2006/08/22 18:51

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ブルース - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書の主人公となる大正天皇は、明治天皇と昭和天皇という歴史上大きな足跡を残した天皇の間にあって、その治世の短さも手伝って甚だ影が薄いという印象が一般的である。しかも、その晩年は、病により公務が果たせなくなり、裕仁皇太子(後の昭和天皇)が歳若くして摂政として就任したこともあり、生来病弱で精神的に問題があったとも言われている。それは、帝国議会で開会の辞を述べた後、召書を丸めて望遠鏡のようにして議場を見ていたという所謂「望遠鏡事件」として語り継がれている。
著者は気鋭の歴史学者らしく、今まで悲劇の天皇として語られることの多かった大正天皇の実像を史料に即して実証的に論じ、正当な位置づけをしようと試みている。と同時に、大正天皇がこれほどまでに貶められて語られるようになった背景についても探っている。
著者がまず重点を置いて論じているのは、皇太子時代の大正天皇の心身ともに健康であった姿である。その記述に従えば、大正天皇は、確かに幼少期から少年期には成長も危ぶまれるほど病弱であったが、青年期に入ると健康を取り戻し、やがては皇太子としての職務も着実にこなすようになって行ったという。その現れが日本全国を巡行する巡啓で、ハードなスケジュールを精力的にこなしている。当時は、現在ほど交通網が発達してはおらず、全国をほぼ隈なく廻ることは相当な体力と忍耐力を要したと思われるが、著者ははつらつと全国巡行を続ける皇太子時代の大正天皇の姿を当時の史料を基に詳細に辿っている。ここには、自由闊達にして好奇心旺盛で行動的とも言える青年皇太子の生き生きとした様子が窺え、生涯病弱であったという巷説が事実無根であったことが明らかにされている。
本書の後半では、前半とはトーンを異にして、即位後の大正天皇の悲劇的な人生が描かれている。大正天皇は皇太子時代には健康的で活動的でもあったが、明治天皇の逝去を受けて即位大礼を挙げてからは再び病の床につくことが多くなり、それは、何かと束縛されることの多い天皇としての公的な生活に馴染めなかったこと、政治的に未成熟で恣意的な行動が周囲との軋轢を生んだことなどが要因として考えられるとしている。最初は、側近にしか分からなかった天皇の病も、伺候する政治家たちの目にもはっきりと分かるようになり、やがて大きな政治問題として浮上するようになったという。さらに悪いことには、天皇は好悪が激しく、原敬や大隈重信などの融通無碍な政治家とはうまが合ったようであるが、山県有朋などのような謹厳実直な政治家とは肌合いを異にして、激しい確執を生んでいる。
このような状況で、病により公務遂行ができないことを理由に、天皇は側近の説得に応じて玉璽(天皇決済印)を手放したと史料は伝えているが、著者は別種の史料では天皇は「主君押し込め」同様な状態で側近らに玉璽を奪われたと判読でき、真相は後者に近かったのではなかったのかと重大な推測をしている。著者は、この出来事についてはこれ以上の論評はしていないが、その抑えた論調がかえって大正天皇の晩年の悲劇を浮き彫りにして心に迫るものがある。また、著者は、大正天皇が精神的に問題があったとする風説が広く流れるようになったのは、若くして摂政となった裕仁皇太子を盛り上げるために、時の政府や宮中官僚らによって半ば意図的に情報操作された結果であるとしている。
本書は、以上のように、これまでほんど研究がされていなかった大正天皇の生涯を辿り、その光と影を初めて明らかにした第一級の学術的な歴史人物評伝として高く評価出来る。

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紙の本

結局「遠眼鏡事件」とはなんだったのか

2001/03/02 10:36

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Stella - この投稿者のレビュー一覧を見る

 “大帝”明治天皇と“名君”昭和天皇の間にはさまれ、何かと影が薄い大正天皇。「遠眼鏡事件」と呼ばれる「帝国議会開会式で持っていた勅書をくるりとまるめて遠眼鏡のように議員席を見回した」という逸話でしか語られない大正天皇。「御幼少の時御悩み遊ばされたる御脳病」による「御脳力の衰退」により成人したばかりの皇太子(昭和天皇)が摂政就任したという病弱なイメージの強い大正天皇。その「病弱で知的障碍があった大正天皇像」に異議を唱え、少なくとも青年期は壮健で、知的水準も国事行為に支障があるほど低くはなかったと訴えている。

 では、のちの昭和天皇が摂政に就任する理由になった「御脳力の衰退」とはなんだったのだろうか。幼少期に脳膜炎と思われる病気にかかっていることは確からしい。しかしそれが長い雌伏を経て壮年期に再発したのだろうか。本書に記載されている限りでは、なんとも判断しがたい。

 結局のところ、大正天皇への興味は「御脳力の衰退」と「遠眼鏡事件」の真相にしかないのだ。「遠眼鏡事件」は都市伝説に過ぎないとしているが、なぜそのような都市伝説が名だたる文筆家によって書き残されていくことになったのか、残念ながら明らかにはされていない。

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紙の本

人間として生きようとした若き天皇の悲劇。─その謎にせまる──。

2000/11/30 21:16

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:近藤富枝 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 尊いご身分にふさわしくないかずかずのエピソードのある大正天皇の実像を知りたいと思ってから長いことになる。しかし資料はまことに少く、わずかに『ベルワ日記』でその片鱗をうかがうだけであった。 大正天皇については陶芸家の故浜田庄司さんが明治以来の書のなかでの最高の方と私に賞讃されたのに驚き、以来心して天皇の書を拝見するようになった。まことにお立派な字で、この方に対する世間評を疑うようになったのはそれからである。
 本書は天皇の幼少時の御病気、皇太子時代の健康をややとりもどしてのはつらつとした日常、度重なる地方巡啓がまず克明に語られ、人間的でいささか饒舌で、知りたがりやで、純情な天皇のイメージを浮び上らせている。この時代に天皇をきびしく拘束する人たちから守ったのが有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)であった。この方は大へん立派な宮さまであると聞くが、その事績についてはあまり知られず、この時代東宮輔導であったことは意外であった。
 本書では東宮輔導としての有栖川宮の闘いと、煩悶とがとらえられ、天皇のあるべき姿への問いかけとなっているのが意外で、かつ楽味を呼ぶところである。
 そして有栖川宮の辞位、皇太子の結婚、度かさなる巡啓が資料を通して語られるうち、明治天皇が崩御され、天皇となる。再び自由を失い、その果に健康を悪化させた大正天皇の悲劇が着実に資料から語られていく。ついに歩行困難、言語少々に不明瞭という症状となり、くるべき時がくる。御長子である裕仁親王の摂政就任である。
 ここで悲痛な出来ごとが語られる。御用の印籠(いんろう)、これは可、聞、覧の御印のある函だが、その御下げを侍從長が願ったところ、天皇は快く渡されず、一度は拒まれたというのである。著者は、
 「もはや言葉の自由のきかない状況の中で、精一杯の抵抗の姿勢を見せていた」
 と推察する。
 後陽成天皇が徳川幕府の圧力で退位し、御子の後水尾天皇に同じようにいろいろ渡さずに抵抗されたことを思い出す。帝王の悲劇、そしていつもその背景にある黒い権力者の手が、近代国家をもくもらせていたのを知るのである。
 資料は主に一級資料にのみ據ったために、節子皇后とのエピソードが多くないのが惜しい。側妾を置かれなかった大正天皇なので、その辺りもくわしく知りたかった。
 皇太子時代学習院を中等科一年修了して退学されているが、私の旧師は当時同級生であった。皇太子と相撲をとり、投げとばしてしまったけれど叱られなかったと五十年後のこれは回想である。
 あまりにも語られることの少い大正天皇に対し、これは待望の書であり、続篇を著者に期待したい。 (bk1ブックナビゲーター:近藤富枝/作家 2000.12.01)

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