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紙の本
知恵が豊富なチェーホフ
2003/07/30 15:09
3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:REN - この投稿者のレビュー一覧を見る
桜の園は借金のために競売にかけられようとしている。実業家のロパーヒンは、桜の園の地主ラネーフスカヤに桜の園を別荘地として貸し出し、そのお金で借金を払うように説得するが、ラネーフスカヤはその案を理解することができない。
先日、テレビで蜷川幸雄演出の「桜の園」を観たが、ロパーヒンが説得しても、ラネーフスカヤがその申し出を理解できない様子は、養老孟司の「バカの壁」のようだった。まったく現代と同じだと思った。さすが、知恵が豊富なチェーホフ?(笑)
この戯曲の中で気に入ったセリフを紹介。
「もしもある病気に対して、医者があまりにいろいろな治療法をすすめる時は、それが不治の病いだ、ということだ。」
紙の本
最後の作品
2021/02/21 21:30
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
ラネーフスカヤ夫人という貴族が財産を失い、思い出のつまった「桜の園」を競売にかけるはめに陥るという、ロシア革命を目前に時代に翻弄される姿を描いた戯曲。悲喜劇というべきだろうか、4幕だが登場人物が多くしかも出入りもめまぐるしい。人物どうしの関係はちょっとした仄めかしと省略が多くてチェーホフによって細かく作りこまれているのがうかがえて探究心をくすぐられる。没落貴族を描くとどうしても暗くなりがちだが、登場人物たちの自由な振る舞いとアイロニー、ユーモアのある台詞の数々で湿っぽさを感じさせない。単にチェーホフの描き方の問題だけなのか貴族とその使用人の関係は身分をあまり感じさせないのが意外。読んでいるだけも集中させる内容だけれども、劇として見れば全くちがうに感動があるにちがいない。
紙の本
「滑稽さが分からない人には悲しさも分からない。両者は繋がっているのだから」——ナボコフの指摘を参考に、貴族の没落する芝居から「喜劇」的要素を探る「読み」。
2005/03/09 23:39
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
革命前夜のロシア貴族社会、遺産が男女の別に関係なくすべての子どもに分配されるという法律から、「桜の園」の妹は経済力を得てフランスに身分の異なる愛人と出奔する。あとに残された兄には経営能力がなく、彼らの暮らしを支えるはずの領地は農産物を充分に生み出せなくなり、いまや競売を待つよりほかになくなっている。
そのような状況下で帰国を余儀なくされた妹ラネーフスカヤにしてみれば、これは悲劇としか呼びようがない。当地では5月に咲くという桜を背景にしたがえれば、はらはら舞い散る花びらが哀切を誘うのは致し方ないことである。ましてやこれが桜の国・日本で上演されることがあると、貴族没落の夕べに人生の悲哀を重ねる叙情を演劇人たちが漂わせたくなるのは自然の流れとしか思えない。
しかるに脚本家本人のチェーホフをして、これは4幕の喜劇なのだという位置付け。なのに、脚本を依頼してきたモスクワ芸術座自体が悲劇として演じていたことにチェーホフは不満を抱いていたという。
「悲劇なのか喜劇なのか」——解釈をめぐり演劇界では多様な演出が試みられてきながら、同時に演劇人あこがれの芝居として愛されつづけてきたようである。初読からはや幾とせ、その間に実は舞台でこの芝居を観たことのない身で再読を試みても、やはり悲劇にしか映らない。
幸いにして、この比較的新しい訳本は、「せりふのやりとりの面白さを、どうにかしてそれらしいリズムのある日本語にうつすことはできないか」という野心を元に果たされたということ。登場人物がばらばら喋って意図するところが分かりにくかった第2幕の野外の場面などは、思惑と会話の錯綜こそがコメディのコメディたるゆえんなのかなと理解がおぼつくような展開になっている。
芝居は見ていないけれども、再読までの幾とせの間に、ロシア文学の素晴らしいアンチョコ(って、もはや死語?)は手に入れることができた。「チェーホフの関心は、その言葉が人生の真実であるかどうか、象徴ではなく一人の人間としてのその老人の性格に照らして真実であるかどうか、というところに向けられていた」(『ロシア文学講義』1992年版新装復刊303P)と高くチェーホフ作品を評価する、審美眼のかたまりのような作家ナボコフは、この作家のユーモアについて次のように分析している。
——チェーホフの本は、ユーモラスな人びとにとっては悲しい本である。すなわち、ユーモアの感覚をそなえた読者だけが、その悲しさを本当に味わうことができる。(中略)この作家にとって物事は滑稽であると同時に悲しいのだが、滑稽さが分からない人には悲しさも分からない。両者は繋がっているのだから。(前掲書307P)
読み手の読解力に階層を設けたいかにもナボコフらしい物言いと見るが、年を重ねて読み返してみると、悲劇喜劇の表裏一体は、貴族の女性ラネーフスカヤよりもむしろ、新興の資産家ロパーヒンに見受けられた。「桜の園」の競売を避けるため分譲を兄妹に勧め知恵をつける彼は、それがラネーフスカヤのために善かれと思っている。しかし、彼らの拒絶でその「善」は成され得ない。この成金ロパーヒンは明らかにラネーフスカヤを慕っており、それは彼女の出奔前からの身分違いの片恋であり、「桜の園」をめぐる彼の暗躍は「道化」のように取れる。「道化」を滑稽と取るか悲しいと取るかは同じ物事の異なる側面でしかなく、その意味において、ロパーヒンの存在こそがチェーホフの喜劇の意図を支える存在なのかと思えて仕方なかった。
紙の本
悲劇と喜劇が同居する物語
2023/11/17 08:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kisuke - この投稿者のレビュー一覧を見る
チェーホフの4大戯曲の一つ。他の作品は人生の辛さや厳しさ、哀しみが強く感じられますが、「桜の園」には人それぞれのおかしみも描かれていて、人間性がよく表現されていると思います。
領主達が商人の助言を受けいていたら、十分豊かな生活が出来たろうに、元農奴の子どもゆえに相手にされない。それに対する商人の復讐が鮮やか。
舞台も観ましたが、17歳の娘のいきいきとした姿が明日への希望を示していました。