紙の本
ルネ・ドーマル氏によるシュルレアリズムから生まれた珠玉の一冊です!
2020/05/29 09:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、20世紀の前半に活躍したフランスの詩人、作家であったルネ・ドーマル氏の作品です。彼は、シュルレアリスム運動の影響下で成長し、同人グループ「大いなる賭」を組織し、インド文学や東洋思想の深い理解の上にグルジエフにつらなる神秘的な精神修行を重ねあわせたユニークな活動を行った人物としても知られています。同書は、その彼の魔術的冒険小説であり、来るべき出あい、真の人生の探求の書であると言えます。シュルレアリスムから生まれた珠玉の名作です。同書の中で、著者は、「人間が希望を失わずに生きてゆくためには、どうしても存在しなければならない」と主張しており、この時間空間の原点ともいうべきシンボリックな山の探求の物語に読者は共鳴させられること間違いありません。同書は、「第一章 出あいの章」、「第二章 仮定の章」、「第三章 航海の章」、「第四章 到着の模様、そして貨幣の問題がはっきりと示される章」、「第五章 第一キャンプ設営の章」という構成になっています。
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まず、この本は、この物語世界は、シンボリズムによって描かれているのだけれども、それらの示唆するところを考えなくとも、文字通りの冒険譚として十分楽しめるものだと思われます。科学的な展開も色々と面白くて、文系人間の私は丸め込まれてしまいそうになります(それでも、文庫77頁の「類推の山」の場所を示す根拠などは爆笑物だったのですけれどね)。
しかしながら、その科学的な表現さえもが、やはり非常に象徴的であり、これは読者の教養や知性によって、深くも浅くも考えさせられるものなのだろうと・・・無論私はまだ表層的なものしか捉えられていないけれども。
とりわけ、「類推の山」が「不可視の山」であるということには、以前、江崎玲於奈氏の講演を聴いた際、「存在を確認できないけれど存在する分子(電子がだったかな)があるのかぁ。」(なんつーアバウトな理解じゃ)等と思ったり、動物行動学の授業で、人間には聞こえない周波数によって会話している動物の話を聞いたりしたことを思い出しました。
なんていうか、「無知の知」ということを考えさせられる箇所だなと思いました。だから、本当に「類推の山」はあるのかもしれない。
そして、とにかく、希望を持つことを思い出させてくれる、ほんとに「元気になれる」本という感じでした。私は物理的には「山」があっても登りたいとは思わない質なので、その時点でちょっと躓いてはいるのですが、それでも、真理探求というのか、自分を高みへと導くことを思い返させてくれる本であります。
結末まで書かれることなく早世してしまうのが遺憾ですが、この物語には結末がない、ということが、ある意味結末であるのかもしれませんね。精神の高みには極まるということがないと思われますから。
他方、所々にある作中話も面白く。「空虚人(うつろびと)と苦薔薇(にがばら)の物語」などはタイトルからして素敵ですよね。後ろに収録されている「覚書」にも為になるものがありました。
あと、澁澤龍彦が好きな人にはお薦めみたい。彼のお気に入りだったんだそうです。私は澁澤を読んだことがないのですが、ちょっと彼へのイメージが変わったかもです。
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人類にとって山は、天と地を結ぶ神話的な象徴として存在し続けてきた。そんな象徴としての山――つまり類推の山――の頂は不可視なほど高く、かつその入り口は人間の生活圏になければならない。
しかし、世界各国の伝説に登場する象徴的な山々は、ヒマラヤさえその頂は可視圏となってしまった現代においては、類推の山としての役割を果たし得ない。
しかしそんな現代にも類推の山、つまり地理学的にはヒマラヤより遥かに高いけど人々が麓には近づける山が、この世のどこかに存在しているはず・・・。
そんなトンデモ理論で始まる本書は、上述の理屈に賛同した理屈屋の登山家たちがグループを結成し、その山に挑む冒険譚というかたちをとる。
科学的、衒学的、詩的な記述が満載ながらも、どこか全体にファンタジックで神話的な色彩を帯びた本書は、その膨大な情報量にも拘らずなぜか軽快に読み進められる楽しさが特徴で、何とも言えない魅力を放っている。
(トンデモ理論の産物と思われた類推の山が、案外あっさり実在のものとして発見されてしまうのが可笑しい)
そんな魅力的な本書であるが、残念ながら著者の絶筆となり未完である。
本当にこれからますます面白くなってきそうな展開で途切れるので実に惜しい。
調べてみたら著者のもう一つの小説『大いなる酒宴』が今年翻訳出版されている。
これは買わざるを得ないか。
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これは未完の物語だったのだろうか。うーん、少なくても多くのSF作家たちに影響を与えたと思われる。
つか、まんまな話が転がってるもんなぁ。
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希望の湧く、象徴の世界の冒険譚、の断片。
何故かこの本のことを思うと、目尻に少しだけ涙が灯る。
健気な前向きさが、この本にはある。
たむらしげるのアニメーションでこれが観られたらと夢想する。
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解説では、ブルトンの「至高点」を象徴したのがこの類推の山だとしている。しかし一方で、ドーマルはブルトンの活動から距離を置いていたのだともいう。はたして、それでも共通の場所、というものが存在したということだろうか。
超感覚的な共通の場所、というと、ユングの元型に思いが及ぶ。ドーマルは、若い頃は幼年期へ憧憬をもち、そこに人類共通の場所があるものと想っただろうか。しかし成熟した大人になり、新しい出会いがあり、高次の知性を持った人類の夢を想うようになった。だとすると、類推の山は、未来に向けた夢を象徴していそうだ。一方でユングの元型は、努力によっていずれ到達するようなものではない。時間や空間に縛られていない。だからきっと、両者は似て非なるものだ。
けれど、連想してしまう両者には、希望、という共通項があるように思う。人類すべて、そこへ通じる道の、扉が開かれているということは、とても重要なことだと思う。
何はともあれ、風通しのいい美しい作品だと思う。贅肉をそぎ落とした、伝説的な物語だ。いくつかのタイプに分けられた人類の代表のような人びとが、知性によって、類推される山が、そこにあるから、冒険の旅に出る。これ以上の理由など、恐らくないのだ。そこに新大陸があるから、深海があるから、大宇宙があるから、探検する。その果てに行き着くのは所詮、まだまだ遠い先だろうから、この未完の物語の先は、わたしたち自身が踏査しつづけること、そこにこそ本作の意義があるのだ、きっと。
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その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうる・・・天と地を結ぶ不可視の山「類推の山」を「私」とソゴル氏は実在していると固く信じている、いや知っている。故に必ずある。・・・そんなことがあるのだろうか?そんなでたらめで破天荒で奇妙に楽天的な、真実を目指す魔術的冒険小説「類推の山」は、不思議に説得力があり、読者の胸にその明るさが切なく迫る。物語の中心人物ソゴル氏は気むずかしくも少年の潔癖さと鉄の理性を持つ万能人。彼が卑下するアトリエがすっごく楽しい!お邪魔するには登山風に窓から入らなければならず、家の中には草がしげり、そこには様々な人類の英知がメモにぶら下げられている。私も散策したい。また彼が類推の山のある島で一皮脱げる場面がとても透明で、たむらしげるの画で思い浮かんだ。この物語航海に出て苦労するものの、類推の山のある島には(登場人物の労苦は勘定に入れず物語としての意味において)意外にすんなり行き当たる。しかしその登山の道は進めば進むほど頂上への日程は数年単位で延びていき果てがない。しかし彼等は一歩一歩頂上へと登っているのだ。作者の死により未完の小説であるが、頂上があると心から信じること、それが一番大事なのだと思わせてくれる。私に頂上は見えない。なのにきっと彼等は辿り着くだろうとでたらめな引力で思わせてくれる。何よりそのことが嬉しい、愉快で美しい物語だ。
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面白かった!
作家が文学的想像上の山を書き、もう忘れかけていたころに、詭弁家が連絡を取ってきて、「類推の山を信じる者がふたりもいる」
この人があまりに上手なので、ふわふわと熱にうかされたようになってしまう。
ただし家に帰れば冷静に。
こんなことがあったよと妻に話すと、妻「わたしが三人目よ」!
たちまち12人集まり、仮定を積み重ねながら山の実在を語り、あろうことか8人が船で出発!
簡単に見つかってしまう!!
「七人の侍」やRPGのような仲間集めの楽しさ。
詭弁自体の面白さ。
レーモン・ルーセル「ロクスソルス」といいマンディアルグ「さかしま」といい、「ものづくし小説」の味わいも少しある。
ほかに連想できる作品多数。
ホドロフスキー「ホーリーマウンテン」の原作だって!?
ヴェルヌ「地底旅行」からの影響は?
澁澤龍彦「高丘親王航海記」のもちろん源泉として。
ミハル・アイヴァス「黄金時代」とか。
宮崎駿「天空の城ラピュタ」とか。
これだけでもうきうきするのに、すべてが神秘家の「象徴的な自伝」になっているという、美味しさ!
生まれた時からポストモダンな人間には実感しづらいが、過去の人間は時代時代で取り換えつつも常に「背骨」を持っていた。
長いあいだ宗教。→科学。合理性。→世界大戦を経て、無意識。宗教というより神秘主義への回帰。→社会主義、共産主義。→反動としてニューエイジ思想。
以上すべてに全面的に浸かりきることは、もう、ないと思うが、それぞれからくみ上げてパッチワークして人生観や世界観を作っているのが、現代人。
個人的には本作の神秘主義は、幾分かマンガチックに思えたが、いったん山を降りて後身者に知識を伝えるという人間のあり方は、よいものだと思う。
楽しく読めて、「象徴的自伝」から「人類の象徴」をくみ取れる、うーむ、美味しい、美味しいぞ!
以下、脱線。
巌谷國士「シュルレアリスムとは何か」いわく、現実を飛び越えてシュールな境地へ、ではなく、現実を強固に直視しすぎて「超つよい」と同じ使い方で「超現実」の片鱗がほの見えてくる。
澁澤龍彦のいう「幻想小説にはもっと幾何学的精神を!」とはつまり、構成のくっきりした。論理や道筋のはっきりした、ということか。
曖昧模糊とした夢幻郷に遊ぶのではない。
現実や論理や構成を重視すればこそ沸き起こる幻想味だ。
それが「非ユークリッド的」な。(本書の前書き)
ユークリッド幾何学な作品から、非ユークリッド幾何学的な読み応え。
連想。のちに島田荘司が打ち出す「本格ミステリ」(幻想的な謎を論理的に解決)の逆矢印のニュアンスか?
「論理→幻想」と「幻想的謎→論理」。
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世界中の神話には様々な象徴としての山が登場するけれども、
崇高だが必ず近づき得る、どこかに存在するはずの、この世の中心たる山を探そう!
想像の世界に聳える山に、本当に登るのだ!!
……と、意気投合した「山が好き」な人々が盛り上がる、
形而上的登山小説(笑)
登る前に、まず問題の山を探す必要があって、船で航海ってところが、
バカバカしくてイイ。
タイトルは硬いが、中身はクスクス笑える愉快な法螺話。
でも、著者が病死したため未完(涙)
遺稿の中から発見されたという覚書は、
小説を書き進めるためのメモであると同時に「登山論」にもなっていて興味深い。
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新宿紀伊国屋「ほんのまくら」フェアで購入。
「これからお話しする一部始終の発端は、一通の封筒の上の見知らぬ筆跡であった。」
へえ、こういう話だったのか、と思った。
おそらく普段なら決して出会うことのないような観念的な物語ではあったけど、ちょくちょく面白いフレーズが挟まれる。
でも、読みながらなぜか眠くなってしまうこともしきり。
「慣れ」が足りなかったのかも知れないな。
非ユークリッド的にして、象徴的に真実を物語る、登山冒険小説。
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一つの存在と別の存在を結び付けるのは、物理の世界ではどうか知りませんが、言語の世界でこれほど容易なことはありません。アナロジー(類推)とは言葉のセカイでは古参の技法だからです。時に、ある登山家が「登山と人生は似ている」と言ったとしますと、ぼくはこの一節をくだらないと思うでしょう。登山と肩を並べられた人生様に多少の同情を感ずるからです。ですが、このフレーズは稚拙かもしれませんが、登山と人生の間にかならすしも類似性を見出せないわけではありません。アナロジーというものには、言語が言語として意味を成すための最終防衛ラインとして、多くの誤謬や陳腐さの存在を覆い隠そうとする機能があると言っていいようです。
今作中に散見されるアナロジー(類推)は、あえて上述したような言語の寛容さに身を預けている具合です。便宜上雑に名前を付けますが、このような類推を「アナロジックアナロジー」と呼ぶことにしましょう。接頭辞のana-は上昇という意味でポジティブさを、また他方では穴(ana)だらけの理論(logique)を指します。そのような形容詞に相応しい類推です。ろいうのも、ポジティブであることと穴だらけの理論とは仲良しだからです。大衆が美や若さの神話を信じるように、説明の難しい原初の衝動に対する漠とした憧憬を抱くときを思い浮かべてください。アナロジックアナロジーとは、ありきたりな人間の感動の内に多く見いだせる種類の、期待と盲目に満ちた人生と何かを結びつける粗末な類推のことと考えてくれてかまいません。
そして今作では、そのような漠とした憧憬への衝動の挿話や、人が希望とともに類推の山を踏査していく様まで、アナロジックアナロジーをテンポ良く配することで華麗に描いてみせています。登山に向かった登場人物全員がソゴル氏の「アナロジックアナロジー」を過信し、誰一人その論理的誤謬を指摘せず盲目に信じるに至りますし、その言葉に含まれた希望(あるいは希望的観測と言い換えてもいいですが)にすがりつつ、しかもその希望的観測が必ず実現していくという具合で、深刻な現実に対する逆説を派手に弄するように物語は展開していきます。あたかも「信じる者は救われる」という金言の「信じる」ことと「救われる」ことの間に立ちふさがる決定的な言語的無縁隔絶乖離を一笑に付すかのようなアナロジックアナロジーです。
人々が真理への頂を登っていくその様を一歩一歩目に見える形で描き、誰もが希望を信じ希望の存在を実地で確認できるような、夢のように美しく脆い、少年の心をくすぐる幻想的な登山の物語、それが類推の山です。一読の価値はあります。
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20世紀フランスの作家・詩人ルネ・ドーマル(1908-1944)の遺作となる未完の小説、1952年出版。解説によると、ドーマルは少年期には薬物体験等をしており、その頃から「彼岸への超越」「幼年期への回帰」「神秘的合一」などへの志向があったようだ。一時期ブルトンらのシュルレアリスムと関わるが常に一線を画しており、最後は決別したという。
物語は、「私」が或る雑誌に寄稿した神話研究に端を発する。その記事の中では、神話的伝承に於ける〈山〉の象徴的意味が論じられている。〈山〉は、〈天〉と〈地〉を結ぶ象徴であるとして、〈類推の山〉と名付けられる。それはあくまで「文学上の空想」であったが、〈類推の山〉の実在を確信していると云う者から手紙が来る。手紙の主ソゴルは、「問題をすでに解かれているものと仮定し、そこから論理的に出てくるすべての結果を推論する」という「数学的方法」で、〈類推の山〉がどこにあるのか・そこへ如何にして到達するのかを"論証"していく。この尤もらしい無茶苦茶さは『空想科学読本』の類に通じる面白さがあるが、もちろん詭弁は詭弁である。そもそも、仮定された〈類推の山〉の実在が証明されていないのだから。しかし「私」は、「・・・、こうした計略が真理のために用いられるとき、それでもなお嘘と呼ぶことができるだろうか?」と居直ってみせる。
虚無の裡に喪失してしまった自己と生活の本来的な意味を、〈類推の山〉という"至高点"(ブルトン)に於いて取り戻さんとする(「・・・、私は私で「ほかの何か」に渇えていた・・・」「私たちはめいめいの古い人格を脱ぎ捨てはじめていたのだ。・・・。めいめいの変装の下から、・・・、すでに自分のほんとうの顔をのぞかせつつあった」「父母を探しもとめている少年、・・・、だれの真似もしないありのままの自分になるための援助とを――探しもとめているひとりの少年・・・」)、安直で・ナイーヴで・アイロニズム無き、肯定性・楽天性にただただ呆れる。それは、神秘思想・東洋思想・肉体鍛錬に耽るドーマルの思想的な浅薄さと並行ではないか。ひいては、ダダからの退行としてのシュルレアリスムの反動性と並行ではないか。本来性としての実存は、不可避的に自己否定に到らずに在り得ない無際限の否定運動の、その到達不可能性としての無限遠点たる以外に、存立余地は無いだろう。無にまで削ぎ落とされた否定と矛盾の相に於いてのみその存立が不可能にも可能な。本作もシュルレアリスムも否定性の不可能な極点には到り得ないという点で、どこまでも中途半端なのである。そこに根を下ろせば存在意味を提供してくれる到達すべき「何か」は、肯定的に措定し実体化した途端ただのハリボテへ堕する、端的に云って欺瞞以上では在り得ない。
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残念ながら中絶したシュルレアリスムの寓話。
本編の成立過程が解る文章が『後記』『初版への序』として収録。
この寓話的、或いは神話的な世界には妙に惹かれるものがある……。
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2008年11月26日~27日。
もどかしい。やはり未完で終わっているのがもどかしいのだ。非常に面白い内容だっただけに、やはり最後まで読みたかった。永遠に無理な注文なのだが。
確かに作者の最期と重ね合わせることも出来るだろうが、やはり作品としては未完なんだよなぁ。悔しいけれど。
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訳者のX投稿より興味を持ち、読んでみた。大人の冒険小説という感じ。先を読みたい気持ちと、読み込むに相応しい精神状態を己に求める欲求との間で、妙に時間が掛かってしまった。正直、感覚的に理解できない部分もありながら、素直に「物語」として読んでしまったが、まぁ正解はないのだろう。未完であるのが残念ながら、私たちはまだこの先を受け取る準備が出来ていないのだろうかとも思う。不思議な物語。