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商品説明
学問をはじめ、今日の知的状況に携わるものは、人種主義、自民族中心主義、国民主義、人間主義に無自覚でいることはできえない。学問の政治性を自覚しつつ、「日本」の歴史−地政的配置を分節する。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
「死産」を「死産」として受けとめること、この困難
2004/02/03 21:07
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投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本における酒井直樹のデビュー作となった本書は、冒頭から学問の政治性についての議論が展開される。つまり、以下に展開される、原理的ともいえるねばり強い議論が、単に「日本近代思想史」の一コマたらんとするものではなく、その枠組みすらも問い返すほどのラディカルさで(いわゆる大文字の政治とも無関係ではないものとして)「近代」を内破する試みであることが示されているのだ。
酒井は、非対称的な関係(西洋/非西洋、話し手/聞き手)の間にもたれる様々な交渉が、決して真空で成立するものではなく、そこには可視/不可視の機制が働いていることを指摘し、そのメカニズムを解き明かしていく。その際、重要な鍵概念として用いられるものこそ「地政学」──酒井の用語でいうならば「歴史─地政的配置」であり、そこから均質化され一元論的に語られてきた「歴史」が、改めて再審に付されていくことになる。
なかでも本書において重要な意義を担うのは、後に『過去の声』でその全貌が明らかにされる、「死産される日本人・日本語」という問題である。ここで「死産」ということばが用いられるのは、ある時点におけるある機制の制作=産出と、それに伴う遠近法的倒錯に関する問題である。「日本語」なるものの成立を探る酒井は、多言語的・雑種的言語状況が同一性を持つに至るドラスティックな転換点を一八世紀に見出し、その様相を分析するのだが、その際に採られた操作は以下のようなものとして論じられる。
一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された。しかも、日本語と日本民族の存在は、古代には存在しても現在には存在しないもの、現在においてはすでに喪失されたもの、として仮設されなければならなかった。つまり、日本語の誕生は、日本語の死産としてのみ可能であったのである。(P.187)
そして、「日本語の誕生は、ある一般的な言説の変換の帰結であった」と結論づけられる酒井が強調するのは、こうした「日本語」の成立以後国学が盛んになり、古代に至るまで「日本(と呼ばれる空間)」に以前から「日本語」なる概念があったという認識が「実定性」をもっていく、その危険性である。つまり、失われたものとしての起源を、ある時点において、歴史的過去に投影し、遡及的に起源的な同一性が創造=想像された場合問題なのは、この「死産」がひとたび成立し制度として流通していくならば、過去の歴史の歴史性が剥がれ、その問題性そのものが隠蔽されてしまう点にこそある。素朴に問うならば、平安時代の言語は、「日本語」だろうか? 今考えるなら余りに自明なこの質問は、しかし平安時代に現在と同じ様な布置で(つまり、日本と名指される空間において、その地域に住む日本人が、均質な共通語として「日本語」を使うという状況の総体)「日本語」が存在したとは到底考えられないことに気づいたとき、突如として我々の自明の認識に揺さぶりをかけるものへと変貌するだろう。
こうしてみてくるならば、時として「思想史」と括られてしまう酒井の議論が徹底して拘っていたのは、「近代日本」という、とてつもなく大きな機制であったことがみえてくる。そして、酒井が議論の賭金としてその「政治性」に自覚的であったこと、つまりは歴史を語る「現在の位置」に自覚的な研究者であったことに想到するだろう。こうした地点において、読者たるわれわれもまた、彼岸の火事としてこの書を読むことはできないはずである。