紙の本
中勘助の『銀の匙』を思い浮かべてしまう題名ですが、全然違います。あしからず。
2011/01/30 00:08
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶにゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
車谷長吉全集全三巻が上梓されたというのをやや遅ればせながら知ったのは昨年の秋。この反時代的毒虫もいよいよ自分の全集を出版するまでに至ったのかと、なんだか感慨深げな心情にとらわれた自分に驚きもした。この作家から遠ざかって久しい年月が過ぎている。嫌いになったわけではない。かたくなに自分を追いつめ、鋭利な刃物で人を突き刺すというよりは鈍器で相手を殴り倒すような案配の作家の文章は、生命の琴線に触れる味わいがあり、僕の心に深く染みた。文学にとって大切なのは、語られた内容ではなく、語るための言葉であり、言葉を生かすために産み出された文体なのだと、この作家の文章に触れるたびに思ったものだ。
しかし、多く人は、文学に対して言葉そのものではなく、言葉の指し示す意味、その意味で構築される内容をこそ重要視する。それはそれで間違っていないであろうし、むしろそれが普通の受けとめ方なのだろう。昨今の映画やテレビドラマなどが、オリジナル脚本ではなく小説や漫画など表現形式を異にする作品に原作を持つものが多いのは、映画を作る側もそして観る側も、語られた内容、構築されたストーリーしか小説作品に求めていないからだ。だから、小説を原作にした映画は往々にして、つまらない。映画の存在意義を、映画自身が壊しているかのようである。もちろん、それは意図した破壊ではなく、ガン細胞が身体を浸食していくように、知らず知らずに自身が蝕まれていく消極的破壊である。
車谷はそんな消極的破壊を拒絶した。彼は私小説作家となって「わたくし」に対する積極的破壊を遂行する。文学を文学として、文学でなければできない表現の手段として、彼は内容より言葉を選んだ。文体を選んだ。作家にとって文体とは思想であり、生きざまである。だが、一個人の秘すべきことや恥の部分を暴いてしまう「私小説」は、作家以外の当事者にとっては忌み嫌うべき文学である。巷に散乱するゴシップと文学の違いは、表現者が文体を持っているかどうかにあると僕は考えているが、自分や身内の恥ずべき部分を人前に晒されてしまった当人にあっては、文学とゴシップのあいだに、何らへだたりを見つけることはないのである。それもまた当然なことなので、文学などクソ食らえ、と怒り出すほうがまともな反応であろう。
身内に激怒された最初の作品集が、この『鹽壺の匙』である。今回再読してみて、改めてまた、そしてひさしぶりに、文学らしい文学に触れたような気がしてこころが騒いだ。このところ、若い作家たちのミステリーばかり読んでいたもので、きっと、こころが、なにか別なものをを渇望していたのだろう。
作品集の「あとがき」の一部を引用する。
「詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私小説をひさぐことは、いわば女が春をひさぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じ続けてきた。併しにも拘らず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。」
ここに、この作家の覚悟が現れている。
例え、世の中を混乱に陥れ周りの人間を傷つけるようなことがあろうとも、
自分は書きつづけるのだ、と。
反時代的毒虫として、
悪の華を、
ひそやかに咲かせながら。
紙の本
私小説のこわさ
2002/06/30 15:19
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:大島なえ - この投稿者のレビュー一覧を見る
『塩壷の匙』は、車谷長吉の名前が大きく知られた最初の小説と云って良いと思う。自ら、その二十年間の小説を書いてきたことの遺稿と呼んだ。もちろん、まだ生きている。
表題作をはじめ何篇かの小説が収められた本書は、まさに車谷氏のそれまでの人生そのものの
ように思えて仕方がない。その殆どが暴露的とも思われる家族の、ひた隠しにしてきた秘密の
ことが描かれる。例えば、若くして首吊り自殺をした叔父の、ゴム草履をはいたままの足の先が
因業な曽祖父の、すぐ背中に見えていること。
今や、私小説をかける最後の書き手となりつつある作者の原点とも遺書ともとれる一冊だろう。
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家庭崩壊とな、昨今言われてるけれども昔の方がひどかったじゃない?
ちう感じ。これすてきです。いいです。うつとりです。
悪くモノを考える方やひきづられる方はお読みになるのをご注意ください。
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中上健次を彷彿とさせる、主に身内を題材にした小説。
凄まじい。
漢字の多用が多少読みにくいが、内容はそれを補って尚余りある濃密さ。
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表題作は二十一歳で自殺した若い叔父の話を中心に、幼少の頃暮らした田舎の家やそこで暮らす肉親の来歴を綴ったもの。といっても叔父の死がメインテーマかというとそういう感じでもなく、叔父以外の人々についてもほとんど同じだけの執着心を持って書かれている。「私」の語り(「暴く」という言い方をされているが本当にそんな容赦のなさがある)からは、「私」や叔父を含む一族に関して、そもそも「語る」という事そのものに関して、業とか修羅とかいう言葉が連想された。
金貸しの祖母や曽祖父の間で明らかに異質であった叔父に対して、「私」は皆と同じ様に異質な者として扱う事も何らかの似通う性質を持つ者としてシンパシーをこめる事もしない、奇妙な無関係さの中に自身を置いているのが語りから感じられた。「私」にここまで語らせる事が、それだけの違和感を「私」もまた感じている事を意味しているのかもしれないが。といってまったく無関心なわけでもなく、自身を業の深い者のうちに含める事を回避しているわけでもない。上手く言えないが。そこが面白く思えた。
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なんだか背筋をピンとさせられるような一冊。
この作品集の中にある「萬蔵の場合」を映像化したいものだ。
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冒頭からの数編、とくに「萬蔵の場合」読み難し。私小説の性格がおおきく出てしまい、おのれに肯定的すぎる姿勢がいけない。好かない。
おれはモテる
おれは某大学を出た秀才だ
おれが小説をひさぐ理由は…
なんて、俗っぽいエゴを感じさせる書き方は、態とか態とでないかは、わからないが、「世捨て」へと走らせたのはこのエゴに他ならないんじゃないかと邪推させてしまう。
「萬蔵の場合」では、おれが恋した女は特別でなきゃ、といった体で、櫻子の魅力がさまざまに語られるが、それが端からしたら、薄ら寒い。
おのれについて殆ど語らない2編「吃りの父が-」「塩壷の匙」は、★4つ。
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物語らしさが強かった「なんまんだ絵」と「白桃」は良かった。だが、その他の「私」小説は登場人物に1人として清々しさは感じられず、強欲だったり、嫉妬心にとらわれていたり、気が狂っていたりと、いくら読み進めても、鬱々とする内容が続く。大抵の小説なら、何らかの救いが見えたり、あるいはさらに悪へと落ちていったりするが、それもなく、果てしなく重苦しいものが続いていくように感じる。
これほどうっ屈とした幼少期を過ごす人がいるのか、と驚く反面、それでも、描かれている黒々としたものは、自分にもあるとしっかり自覚でき、なぜか静かな心持ちになって読み終えた。
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自分にとって小説を書くことは救いであり、同時に一つの悪である──この人自身のあとがきが、この小説集を端的にまとめている。
読めるのだから、確かに私も持っている語彙で語られているはずなのだ。同じ言葉を持っているのだから、世界のある部分を共有しているはずなのだ。それなのに何故こんなにも、普段物陰に隠れて見えなかった世界を、読まなければシールドの向こうの曖昧な輪郭しか知らなかった世界を、まざまざと見せつけられる気がするのだろう。たとえて言うなら、斜位の瞳、両眼視しているときは綺麗にずらされて焦点が合っている、そこから片眼を隠した時にずれる分ほどわずかな、空間、そこに熱い息を押し殺して這い蹲っているもの。その世界。
訥々と語り続ける「私」はどこまでも「私」であり、「私」以外たり得ない。責任を負う、というのとは違う、打算や倫理とも別次元にある、そののっぴきならなさがそのまま生きることだ。そしてそれが良いとも、正しいとも、「私」には言えない。竜巻の中にある者に、天は見えない。
地面にずるずると軀を引きずっていくような、自らに刻みつけるようなこんな文章を、よくも書き続けられるものだと思う。「生前の遺稿」とはむべなるかな。
こんな世界がこの世にはあるのだということを、摩擦のない読書では知り得ない感覚を、教えてくれた。ラスト二篇の「吃りの父が歌った軍歌」と「盬壺の匙」がことに好き。
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車谷長吉氏の初期作品を集めた短編集で有るが、読後感の重厚性は氏の作品群の中でも「赤目四十八滝心中未遂」と双璧をなしている。
この重厚感の原因を見事に解析しているのは、巻末に有る吉本隆明氏の評論であり、作品と評論が一体となってこの書物を完成していると感じた。
是非とも読んで下さい。久々の毒の有る私小説を読んで、爽快な気分が長く残りました。
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古本で購入。
作者自ら「生前の遺稿」と呼ぶ6編の作品を収録した短編集。
「救済の装置であると同時に、一つの悪である」
私小説を
「書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来」
ながらも書かずにいられなかった、己を捨てられたものと思い続けたきた作者の心の淵を覗く気分。
肉親に歪みやきたなさを見た幼子の失望、どうしようもなさ、そういうのが詰まってるようで痛い。
「世に在ることはさみしいな」
この言葉につい共感を覚えてしまった。
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2013.10.30 読了
久しぶりに私小説らしい私小説。
文章が美しい。
シーンシーンは重くて湿り気のある空気が充満しているんだけど、すっ、すっと入っていけるし読み進められる、その圧倒的な自然感。とてもよかった。
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短編集。『赤目』ほどの激烈な印象はなく、どこか(良くも悪くも)時代遅れの、一つ一つの的確な描写が静かに狂っている雰囲気を伝える。それはそれで好みなのでいい。『赤目』のアヤちゃんを思わせる女性が出てくる「萬蔵の場合」が好きだった。この手の妖艶な不思議系女子(?)の話は引き込まれた。それとは別の、掌編集「愚か者」の中の「トランジスターのお婆ァ」がすごい。
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独特な世界に浸っていくだけ。
独特のことば選び、文の置き方。
最初ごく短い短編が続き、リズムを取るのに難義するものの「萬蔵の場合」という作品ですっかり心とらわれました。
映画を見ているように、瓔子の部屋が浮かびます。描写にはないけど、部屋の引き戸はこうで、照らされる照明はこの明るさで部屋の隅は暗くて、というようにそのアパートが見えてくるような力を感じました。
そこからはこの独特な世界に浸っていくだけ。
静かな、そして暗い影を常にたたえた、どこかあたたかみのあることばたちに伴われ、あてもなく東京を、そして田舎をさすらう。
とてもゆたかな時間を過ごすことができました。
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車谷長吉の短編集
「なんまんだあ絵」
「白桃」
「愚か者」
「萬蔵の場合」
「吃りの父が歌った軍歌」
「鹽壺の匙」
非常に読み易い。文章のリズムがいい、車谷が持つ独自のリズムと文体をからだと思う。
闇の高利貸しだった祖母、陰気な癇癪持ちで、没落した家を背負わされた父は、発狂した。銀の匙を堅く銜えた塩壷を、執拗に打砕いていた叔父は、首を縊った。そして私は、所詮叛逆でしかないと知りつつ、私小説という名の悪事を生きようと思った。
「赤目四十八瀧心中未遂」も読みたい。