「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
さて、日本一の詩人の小説は。
2010/05/15 06:46
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
朔太郎と猫といえば、もちろん『青猫』という日本文学史上五指に入るような詩集のタイトルがありますが、(そもそも猫は朔太郎に霊感を与える動物のようですが)『月に吠える』の「猫」の詩が僕にはとても印象的です。有名な詩なんでちょっと抜き出してみますね。
猫
まつくろけの猫が二匹
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
……この家の主人は病気ですって、あんたが病気なんでしょうが、って初めて読んだときは思わずつっこみを入れてしまいました。
特に『月に吠える』の詩はほとんどがそうですが、我々鑑賞者としては、そのままに読んでそのままに「すごがる」(って表現は、違反ですかね。ひたすらすごいナーと思い続けるって事ですが)しかないように、最近僕は思っています。
もう少し若かった頃は、この凄さの秘密は一体どこにあるのかと、少しはあれこれ詩の解説文章なんかを読んでみましたが、(当たり前なのかどうかは知りませんが)結局言葉の置き換え以上に納得できたものはなかったです。
そういうことで言いますと、詩の鑑賞を文字に表すというのは、絵画(例えば抽象画でも)とか音楽の鑑賞を文字に表すよりもっと難しいように思います。
文字で描かれていない芸術の方が、返って文字媒体にした時に少しは掬い取れる物があるような気がします。
文字媒体の芸術は、別の文字に置き換えたところで、その本物の表現より良くなりっこありません(良くなるんならその本物の芸術の出来が悪いんですよね)。
そこで僕は数年前より、すごい詩を読んでは阿呆のように「すごいなーすごいなー」だけ言ってきました。「白痴読み」ですね。
さて本短篇集は三つのパートから成り立っています。
一部・小説、二部・散文詩あるいはアフォリズム、三部・随想、と、こういう構成です。
こうして各パートの作品にとりあえず「レッテル」を張ってしまいましたが、そのように考えたらそんな気もする以上の意味は、実はありません。
そもそも僕は「散文詩」というものがよくわかりません。
そんなこと言っちゃうと「小説」と「詩」だって、その国境線はよくわからなくなってきます。
(朔太郎は『詩の原理』の中で、「小説は文学に於ける詩の逆説である」と言っているそうですが、無知・不勉強で何のことかよくわかりません。)
ただ本書の中では「散文詩」的な第二部に面白い話が多かったと僕は思いました。
「自殺の恐ろしさ」自殺の恐ろしさとは、死へ向かってのその決行から、死の完成までの間の、ごく短いタイムラグの間に取り返しのつかない己の行動への後悔が出現することが恐ろしいのであるという、いかにも朔太郎的なオリジナリティと穿った発想が面白かったです。
「詩人の死ぬや悲し」芥川とニーチェのエピソードが悲しくもどこか懐かしさを伴って哀切。詩人の、持って生まれた才能に対する存在論的な不幸を描いて余りあります。
「虫」これこそ詩人による詩人自身の内面描写。「鉄筋コンクリート」という言葉の「謎」に取り憑かれた詩人を巧まぬユーモアを交えて描き出します。そして言葉の秘密を知った詩人の快哉。詩と美と言葉とそして狂気の、綱渡りのような緊迫感が実にスリリングで、読後、スポーツ観戦のような爽やかさが感じられます。
とまぁ、細切れに書いてみました。
第一部の「猫町」を中心とする小説は、芥川と宮沢賢治と梶井基次郎とそして江戸川乱歩を足して割ったような作品でしたが、小説としてみると、もう一歩展開に「キック」が足りないように思いました。
だって筆者は小説家ではなく、しかし日本一の詩人なんですものね。
ということで、私事ながら、詩の批評はやはりなかなかできるものではないなという感想に、もうしばらく落ち着きそうであります。
紙の本
それは理想郷なのかもしれない
2001/06/10 01:30
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:呑如来 - この投稿者のレビュー一覧を見る
都会に生き、都会を愛した詩人、萩原朔太郎の散文集である。幾分不安神経症気味でもあるその世界観は、疲弊した神経にこそ限りなく魅惑的に映る。表題作における、人間の姿をした猫が暮らす町、というイメージは怖いというより魅力的である。
というよりアニメにおいて、登場人物がみな人間の姿をした犬である『名探偵ホームズ』や、登場人物がすべて人間の姿をした猫である『銀河鉄道の夜』を違和感なく受け入れることのできる我々は、そんな町に迷い込んでみたいと夢想しもするかもしれない。
また彼の好む「のすたるぢや」は散文でもその効果を発揮している。「自殺の恐ろしさ」や「詩人の死ぬや哀し」の死を巡る分析の鋭さは萩原朔太郎ならではというべきか。
そして白眉は「群衆の中に居て」であろう。都会暮らしの味気なさを嘆き、“素朴で大らかな田舎”という幻想にどっぷりつかっている人々が多いのは現代でも同じだが、そんな中あえて都会讃歌を唄う朔太郎の清々しさは、現実肯定の姿勢に見られる清々しさと同一である。
都会は私の恋人。群集は私の家郷。
そんな彼の書く「秋の漫歩」と「老年と人生」はしみじみと心に染みる。まさに捨て作のない一冊だ。