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紙の本
言わずと知れたヒッチコック映画の原作。ミステリとサスペンスにふさわしい磁場としての屋敷や庭園、あたり一帯の様子が丹念に描かれ、絵画のようにそこに現出する。ヴィンテージの味わい。
2007/04/22 14:07
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
記憶のなかに残る夢で、2回だけ空を飛んだことがある。1回目は、階段をとんとん駆け上がるようにしてふうわり空に舞い上がった。それはそれは気分の良い体験であった。
2回目の夢で、すでに私は鈍(にび)色の空の下、殺伐とした荒れ野の上を飛翔していた。自分が肉体なき存在であることを理解していた。まもなく、高度を下げた私の目に入ってくる対象物があった。それは、どうやら英国のmanor houseと呼ばれる貴族の館。もはや在りし日の姿はなく、土台や柱、一部の壁を残した屋敷跡という感じの場所であった。そこに近づくと、もはや魂しかない自分がぴゅうと音を立てて吸い込まれるのを感じた。
眠りに入る前に何か英国の映画を見たり、小説を読んだりしたわけではない。どのような記憶の残滓が見せた夢なのか、魂が決められた場所へ戻って行くような感覚の残る不思議な夢であった。それから数年経って、ある書店でやはりぴゅうと吸い寄せられるように、ある写真集に目を惹き付けられた。Weidenfeld&Nicolsonという版元で出された『English Manor Houses』という本で、英国を代表する城館の写真がふんだんに掲載されている。
今、その写真集を手に取り、『レベッカ』の舞台となるマンダレイを思わせる建物はないかと探すのだが、いずれもマンダレイのように脈を打つ生きた屋敷には見えない。どれもが長い時の流れのなかで、ひっそり自分の居場所をわきまえ、静かな営みのなかに取り残されてきたように見える。
ヒッチコック監督作品として、映画史に燦然と輝く『レベッカ』は、マンダレイという屋敷に嫁いだ若い花嫁が物語る話である。彼女の名がレベッカなのではない。名もなき「わたし」はかなり年上の紳士と連れ添うことになるのだが、レベッカはその紳士の先妻の名なのである。
嫁いだ花嫁にしてみれば、これは一種のシンデレラ・ストーリーである。なぜならば、身寄りがなく、小うるさい老婦人の身の回りの世話を焼いたり話し相手になったりすることをなりわいとしていた身分の高くない娘が、避暑地で堂々とした英国紳士に見初められて求婚されるからだ。紳士は立ち居振舞いが立派で若い娘を圧倒するだけではない。娘が子供の時分、祭りの日に村の店で買った絵はがきに描かれていた美しい城館の当主だったのだ。
ジェイン・オースティンかハーレクインロマンスか、少女漫画か——
物思いにふけるのが得意な娘時代に愛読する作品にもれなく書かれていたように、憧れたる存在は、オーラや背景を伴って、彼女たちの夢想を増幅させる。そこに現れた素敵な男性は、単体だけでは憧れの存在として不十分である。彼がかもし出すオーラが、何世代にもわたる先祖によって育まれてきた文化や伝統、礼儀や資産によって支えられるものでなくてはならない。憧れの人は、姿形のうるわしさや性格のさわやかさ、身につけたさまざまな能力の際立ちぶりだけでなく、血が洗練されたものでなくてはならない。
紳士その人に惹かれる気持ちが、紳士の出自の象徴である美しい屋敷に惹かれる気持ちによって増幅される。その微妙なニュアンスが丹念に書かれているのが上巻である。その一方で、マンダレイという屋敷に、先妻のレベッカが醸成したどことなく妖しげな雰囲気が立ち込める様子を感じ取らせる。憧れの場所での暮らしが喜びであるはずが、徐々に「怯え」へと変わって行く。
ここではまだ、この小説がなぜミステリと呼ばれるのかがはっきりしない。「屋敷」そのものが主人公のように書かれており、その描写に魂が吸い取られてしまえばよいという趣きになっている。この慎重な段取りがあるからこそ、盛り沢山の下巻の展開が活きてくるように思える。