紙の本
私たちの知らないこと
2012/02/10 01:46
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投稿者:ギンギラギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
一体、あの日から何が起こっているのか。
意外と私たちは知らないことに気付いた。
たとえば、津田大介氏の現地での取材活動を通して書かれた記事は、既存マスメディアではなかなか扱えないことが取り上げられ、端的に「知らないこと」を気付かせてくれる。
たとえば、猪瀬・村上・東対談は、震災・原発事故がどのような社会問題に繋がっていくのかを気付かせてくれる。
たとえば、藤村龍至氏の記事は、復興に目を向け、都市計画という観点から、どういう考え方があるかを気付かせてくれる。
この本に明確な答えはない。強い主張もない。ただ、知らないことに気付かせてくれる。
しかし唯一、「知ってしまった以上、考えるしかないんだぜ」と、主張されている気がします。
そして、そう思わせてくれる本です。
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震災後、Twitterなどからの情報の波に飲まれそうになる中、息つぎし、これまでのことを省みる機会を与えてくれた救命浮輪のような1冊だった。私の「喪の作業」は、たぶんまだ終わっていない。
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半年経て読むことが物凄く意味深い、現在進行形であることをまざまざと突きつけられた。3・11を真正面から受け止めず前に進もうとしていることによる落とし穴はすぐそこにある気がしてならない。
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テーマが切実なものであるためか、前号より大幅に理解しやすい内容になっている。
他のレビューでも散々言及されているが、猪瀬直樹+村上隆との鼎談は必読。
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いろいろと考えたこと。
もう半年が過ぎようとしている。
いや、あるいはまだ半年しか経っていないというべきなのだろうか。
時間というものの感覚は人それぞれ違う。
ぼく個人でもどちらが正しいのか未だに分からないでいる。
3月11日。
ぼくは、東京で被災した。
そして、のちに地元の関西に引越しをしたことで、その間にある「時差」に驚いた。
その感覚は今でも残っている。
震災から、怒涛のような情報を浴びていた自分にとって関西の時間はゆっくり流れているように感じられた。
そのなかでぼくは4月の大阪の思想地図イベントへと向かった。そこで語られた「喪」の儀式ということにぼくは強い共感を覚えた。
ぼくらは、時間をもう一度共有しなくてはいけない。
それは、喪われた時間を急いで埋めていくことではなく、立ち止まって共有することの大切さである。
だが喪われた時間。それは一体どれくらいの時間なのだろう。
これから先ぼくたちが生きている間には取り返しの付かないような途方も無い時間に思える。
そして、ぼくたちは喪失を経験している。今も。
少し本の内容とは関係ないことを書いてみる。
希望とはなんだろうか?
なでしこジャパンがワールドカップを優勝したことで、日本中は希望に沸いた。
それは確かに希望なのかもしれない。
だが、ぼくたちは希望の影で何かを失っていることについても考えなくてはいけない。
Jヴィレッジ。
福島第一原発からちょうど20キロ圏内の外側に位置する日本で初のナショナルトレーニングセンター。
それは日本サッカーの未来を象徴する施設だった。
だが、今は原発事故の対応拠点になっている。
マスメディアでは、ほとんど報じられていないが、『サッカー批評』(issue 51)という雑誌に載っている写真では、ぼくは涙を流さずにいられなかった。
駐車場のスペースのために芝生の上に敷き詰められた砂利。
ピッチをコンクリートで固めたヘリポート。
それらはなでしこという希望とは全く対称的な存在であった。
だが、それは現実だ。それはサッカーの喪失の部分だ。
元々、Jヴィレッジは94年7月に東京電力から福島県に対して出された3つの地域振興策の一つだった。そして、そのなかで唯一実現したものがJヴィレッジだった(開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』147〜8頁)。だからこそ、Jヴィレッジは今、原発への最前線基地となっているのだ。
東京電力は必ずJヴィレッジを元に戻すという約束をしている。
だが、しかし、今まで何年もかけて創り上げられてきた象徴としてのJヴィレッジは果たしていつになれば元に戻るのだろうか。
思想地図β2の帯に書かれている喪失と希望とは、その二つが常に表裏一体であるという意味だとぼくは感じた。
喪失の経験は、必ず希望への原動力になるだろう。
そして、同時にぼくたちは希望を考えるときにその影で失われているものがあることについて考えな��てはいけない。
そうしたことを考えながら読みました。
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ところどころ、難しかったり、ピンと来なかったりする部分もあったが、おおよそ興味深く読むことができた。特に、「巻頭言」(東浩紀氏)、「震災と言葉」(和合亮一氏、東浩紀氏)、「震災と文化」(竹熊健太郎氏)のあたりは、自分の勉強してきたこととも近く、共感できた。
3/11以後、日本の「連帯」が強く叫ばれ、たくさんの「希望」を集めようと様々な人が奮闘していたはずだ。それは、もちろん望ましいかたち。けれど、現実はそうではなかった。「希望」を生みだすには、地震・津波・原発によって受けた被害の「差」は人それぞれあまりにも大きく、それによって一人一人に生じた心情の「差」はさらに著しい。
震災からしばらくして、僕はこんなことを考えた。
「すごくたいへんだけど、がんばろう。」では、きっとまだ不十分なんだ。「がんばりたいけど、すごくたいへんだ。」が、被災地には確かにあるはずなんだ。一度の逆接くらいでは、まだまだ「希望」を語れない。「希望」を語ろうとしてもなお立ちはだかる「絶望」をきちんと受け入れてから、「希望」を語らなければいけない。
「がんばりたいけど、すごくたいへんだ。それでも…」
こんな「それでも…」を、僕らはどうやって言えばいいんだろう?
答えが出ない。せめて考えることだけは、止めないようにしよう。
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「震災以降」、言葉や思想はいったい何をなし得たのか、そしてなし得るのか――この問いを軸として編まれた、批評家・東浩紀による新しい言論誌「思想地図β」シリーズの2冊目。
震災に対する本格的な論考集を読むのははじめてであるが、おそらくこのような形式のものはほかにはないであろう。
というのも、一般的な言論誌においては、震災をうけての意見を評論家・専門家に「うかがう」というオムニバス形式をとるが、この本においては震災をうけて東さんが抱いた問いを「ぶつけ」て、論者・対談相手たちはそれに「こたえる」という形式がとられているように思われる。
それゆえ、個々の論考・対談録の主張は一見「ばらばら」でも、最終的には「震災以降の言葉や思想」そして「震災以前の『言葉や思想』に代わる連帯とは」という問いにすべてがリンクしており、「『考えること』が力を取り戻さんこと」を願う東さんの狙い通りに、それらの問い-答えを追う東さんの軌跡(しかも、その軌跡は巧みな編集のおかげでとてもきれいな形で現前するのだが)が、われわれに「もういちど」「考えること」を要請してくる。
堅苦しい「思想」に関する前提知識はまったく必要ない。純粋に「震災以降」の日本を「もういちど」「考えたい」人は読んでみてほしいと思う。
ただし、この本は「震災以降」の日本にどう生きればよいかといった、確固たる指針の類を示してくれているわけではない。むしろ、この本が教えてくれるのは、「震災以降」について「考える」という沈黙の時間(≒「喪」の作業)こそが「震災以降」の本来的なスタートであり、ひいては「震災以降」「ばらばらになってしまった」わたしたちが「新しい連帯」を紐解く最初の作業なのだということである。
以下、個々の論考・対談録について、気になった点を取り上げる。
巻頭言は、随所で聞かれるように圧巻である。「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」――という、誰もが心のどこかで思っているけれど口に出してはいけないような、そんな事実に踏み込んでいるところが、多くの人の心を惹きつけてやまないのかもしれない。
(ちなみに、この点に関してはわたしも以前に触れたことがあったので、興味がある方は2つ前の椹木野衣「日本・現代・美術」のレビューを参照していただければ。。。非常に恐縮ですが。。。)
和合さんの詩を読んだのは、はじめてであった。巻末のほうに掲載されている対談を読むと理解できるが、「情報言語」と「文学言語」との境界から発しているギリギリの言葉ゆえの痛切さが、これほどまでに訴えてくるのだろう。ひりひりとした感覚が伝わってきて、とてもよかった。
藤村さんの復興計画は、豊富な図に裏打ちされて、読んでてとても夢を感じる。「リスク」の分散という視点で日本の産業や建築を考えることは現実的に必要であると思う。
津田さんのルポは、非常に細やかな取材に基づいており、メディアに携わる自身の立場から被災地の状況をきちっと汲み取っていて、とても興味深い。復興はコミュニティとソーシャルメディアの連関の試金石となるのだろう。
震災と社会の項に含まれる3つ���対談は、東さんの問いや考えが最も直球に反映されている。
とくにわたしが共鳴する点は、「被災地」そして「日本」の復興において、日本の文化なり歴史なりをもう一度呼び出さなくてはならない(そのための「言葉」や「思想」ということか)というところ。どうしても「右」っぽい…と思ってしまうわたしもいるが、そのような対立軸をリセットして考えなくてはいけないなと思った。
政治・文化に関する佐々木さんと竹熊さんの論考は、今わたしが取り組んでいることにかなり密接に関わっており、とても興味深く読ませてもらったし、今後読み込むことになると思う。
いずれも、日本が「新しい国」として生まれ変わるためには、という命題に絡んでいる。政治経済面に関しては情報社会化・グローバル化に対応した政府と社会構造を、文化面に関してもそのような事態に対応した構図が描かれていた。
科学についての八代さんの論考と中川さんへのインタビューは、原発事故に対してソーシャルメディアが担った/担っている役割とも関連していて面白い。
「災害言論インデックス」は「震災後の仮想空間俯瞰図」といった趣で、災害時においてもインターネットがいかに欠かせないものとなっているかが分かる。テレビ・新聞といった既存メディアからどれだけの情報を得ただろうかと考えると、その重要性は一目瞭然である。
各論考・対談録は、個々の密度が高く正確に把握できていない部分もあり、以上のレビューはほんの一面的で粗末なものであるが、すこしでも興味を抱いていただければ幸いである。
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結局のところ、私たちはあの震災をどう捉えればいいのだろう。確かに地震と津波は多くの命を奪い、思い出を流し去った。福島第一原発の事故は周辺地域に静かな、しかし大きな被害を残し、政治の混乱もあり日本というブランドに傷をつけた。でも自分の住んでいる地域に被害など無く、依然として日常が続いている。それが東浩紀が巻頭言で語った「僕たちはばらばらになってしまった」ということの意味なのだろう。これからどうなるのか、どうするべきなのか、答えを探すことの出来る本だった。
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巻頭言「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」
その通りだと思った。
以下は私の気持ち。
被災地のひとたちは、それぞれの県や地域単位で心はつながっているけど、物理的にはばらばらになってしまった。
非被災地のひとたちは、「日本はひとつ」と感じているかもしれないが、実際のベクトルはばらばらである。
むしろ、もともとばらばらだったものが露呈しただけ。
この、被災地人と非被災地人との間のギャップが日々の生活を送りながらも、私の中では未だに埋まらない。
必ずしも被災地対非被災地という二分法が絶対的だとは思わないけれども。
でも、現にいま自分の中で、震災以来まるでのどにひっかかった魚の小骨のような何かをうまく言葉にできず、常に視界に靄がかかっているように感じられるのは事実だ。
この感覚を共有できる人とできない人との間の溝は確実にあると思う。
そしてその溝は、震災の有無にかかわらず、ずっと前から私たち自身の心と心の間に隠されていたはずだ。
とても時間をかけて読んだ。
絶対に急いでは読まなかった。
福島では時間がやっと動き出したばかりだ。
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■藤村龍至氏の復興計画β。トップダウンでもなくボトムアップでもなく、国土、都市、建築のあらゆるスケールにおいて絵を描いてイメージを提示しなければならない。しかもそのイメージは単発なアイディアで終わってはダメで、高齢化社会、原発問題、経済問題あらゆる問題をも意識しながら継続的に論理的に発展させ続けれるものでなくてはならない。と。本当に超複雑で絡み合った問題であるからこそ、建築をやっている人が建築ばかりを勉強していたらだめだと思う。震災のことも原発のことも情報のこともあらゆる社会問題に目を向けて勉強し議論しなくちゃ。もっと本当に本読まなきゃ。社会出たら本当にそんな時間なくなっちゃうぞ。とインターンいってて思う。
■震災と政治。佐々木俊尚氏の寄稿だが、あらゆるものがプラットフォーム化していく今、これからの世界についてわかりやすく書いてある。ものすごくしっくりキタ。
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東浩紀氏の巻頭言を最後まで読んだが、Webで試し読みした時に感じた違和感は、正直言って解消されなかった。が、東浩紀氏が何を言いたいかは少し理解できた。
[続き]
http://wildhawkfield.blogspot.com/2011/09/vol2.html
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あの日を境にバラバラになってしまった僕たちが、立ち上がり、再び結びつくには、誰かではなく僕らが考え、踏み出すべきだ。
東浩紀の巻頭言、和合亮一の礫、津田大介のルポ...。様々な視点から語られる「震災以後」。我々に急速に拡がる「麻痺」、ソーシャルメディアそしてローカルコミュニティの可能性、そして「言葉」のチカラ。
難しかったけど、考えながら読めました。また読もう。出会えてよかった。ありがとう。
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vol.2はまるごと震災特集。
批評や思想の側から震災に対して何ができるのか、というのは大事な課題でしょう。そういう意味で、震災から半年でこうしたものが出るのは意義があるように思います。定価(利益ではなく!)の3分の1を寄付にまわすというのも思い切っています。
内容は玉石混交。佐々木俊尚氏はあいかわらず書き飛ばしてんなあという印象の一方で、ネット上の言論を集計した災害言論アーカイブスのような面白い試みもあって。筆者によって論じている対象も範囲も違うからしかたがないけど。
最も考えさせられたのが、津田大介氏の論考でのローカルコミュニティに関する言及。宮台真司の共同体的な自治の機能不全という指摘から、ローカルコミュニティが緊急時に迅速な対応ができる可能性を説く。そうしたコミュニティに強い権限を与えることで、行政に頼らない素早い復興を実現しようという。
面白いとは思う。だが一方で、そのコミュニティってのは最終的には町内会のようなものであって、それは村社会そのもの。であれば、村社会の弊害が緊急時という特殊性も手伝って発現しかねない。それはそれで、多くの人に犠牲を強いることになる。そこについては津田氏はほとんど語っていない。
そもそも、現代日本は、そうした村社会からの脱却をずっと続けてきたんじゃなかったのだろうか。ここにきて再び村社会を見直すというのが現実的なのかどうか、それがよい解なのかはもっと検討する必要がある。
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冒頭に掲載された和合亮一さんの詩を読み、自分も震災を体験したかのような錯覚に陥った。震災・原発に対する怒りや悲しみ、やるせなさというものが内からこみ上げてきた。
東浩紀との鼎談で和合さんは「一番重要なのは「川」で溺れて震災を経験する。それは直接経験じゃない、間接経験、想像しながら被災を経験して、日本社会のみんなで、川で溺れながら考えていかないと同じことが繰り返される」と述べている。少なくとも僕においては、その試みは成功していたと言えるだろう。
溺れる経験を共有するために、ぜひ読んでほしい詩です。
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twitterで東さんを知り、Google+でとりあえず東さん関連をフォローすることでコンテクチュアズの活動を知り、なんか楽しそうという漠然とした理由で友の会会員になったら付いてきた本書。
思想誌なんてもちろん初めてだし、難しい本なんてほとんど読んだことがないから正直不安だったけど、twitterを通じて活動内容を知ってる著者が多数いたことに加え、震災特別号ってことで震災が大テーマになっており、誰にでもわかりやすく読めるよう工夫されている印象があります。
全く別のバックグラウンドを持つ人達が、それぞれの「震災」を語る。自分一人じゃ絶対に気付けない視点が必ず得られると思います。これぞ本の役割だなあと思った一冊でした。会員になって良かった!