紙の本
目からうろこ
2022/01/09 16:44
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
「アナキズム」と聞くと、なんだか不穏なイメージがある。それは日本語の「無政府主義」という言葉の影響が大きいと思う。
この本の筆者に言わせれば、アナキズムは、国家に囲まれた自分たちの生について立ち止まって考えてみる、ひとつの態度のようなものだ、という。
支配のない状態を指す「アナーキー」を求めるのがアナキズムだとしたら、私がこれまで思っていたイメージは、アナキストと言われる人たちが、その実現のために引き起こす抵抗や革命に伴う暴力への嫌悪だろう。
とはいえ、国家や制度、権力がなくなったら野放図になるのでは、収拾がつかなくなるのでは…
といった疑問にも、筆者は本書の中で、うまく答えてくれている。
そしてこう述べる。「想像すればするほど、ぼくらの「あたりまえ」が問われはじめる」と。
「くらしのアナキズムは、目の前の苦しい現実をいかに改善していくか、その改善を促す力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちの中にあるという自覚にねざしている」
という言葉にはグッとくる。
当たり前を疑ってみる、そこから始めてみよう。
アナキズムを色眼鏡で見るのではなく、一つの思想として、身近にしてくれる一冊だ。
紙の本
「アナキズム」の目指すもの
2021/12/31 17:02
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
アナーキー、モナーキー、オリガーキー。英単語に含まれるarchyはギリシャ語を語源とする政体という意味を持つ。だから元来anarchismは無政府主義と機械的に訳されてきた。私がアナキズムという言葉からに真っ先に思い浮かぶのは、大正期の活動家の大杉栄だ。ただし本書には彼への言及はない。次に思いつくのは鶴見俊輔か。こちらは僅かに言及がある。ハーバード大学留学中に日米が開戦した際、クロポトキンの思想に親しんでいた彼は「敵性外国人のアナキスト」と認定され米連邦警察に逮捕された。政府転覆を目指す危険人物。アナキズムという言葉から連想される言葉はまことに物騒だ。日本の帝国主義を批判する彼は寧ろ米国にとって好ましい外国人とでも認められそうなのに、「自由の国アメリカ」ですらそうしなかった。
本書でも紹介される鶴見のアナキズムの定義、「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」の中には物騒なものはない。が、「強制なしに」という理想状態から外れたときの「抵抗」の側面に焦点が結ばれてしまうところにアナキズムという言葉の歴史的な悲劇性は現れる。本書では「アナキズム=無政府主義」ではない、とすることにより、国家という政体が存在していなかった長い歴史の時空で醸成されてきた庶民の知恵のような自治統治手段の中にアナキズムの本質を発見している。これは人類学者の視点ならではのものかもしれない。だから、「贈与論」のモース、Occupy Wall Street運動を主導した人として或いは「ブルシット・ジョブ」でも著名なグレーバー、「ゾミア」のスコット、「忘れられた日本人」の宮本常一、「山人論」柳田國男等の色々な人類学者・民俗学者による、まつろわぬ庶民の知恵に対する見立てが多数紹介される。特にアナキズム人類学を標榜し実践も行ったグレーバーの影響は大きい。彼らが発見した中でとても重要なのが、多数決に依らない根気強い説得と熟議を積み重ねる「話し合い」の営みの技法だ。
物質文明はこの路線のまま行き着くところまで行くのだろうか?そのよりどころとなる近代国家は資本の集中と科学技術の巨大化への進展という両輪の中で、快適な暮らしを庶民に提供してくれるありがたい仕組みに見える。しかしその快適さを信じ込み、個々の庶民を源泉とする民主的な権力の国家への過度の委譲に何の疑問も持たずにいると、暮らしの中に存在し継承されてきたアナキズムの知恵はどんどん失われていってしまう。一方で、国家権力が膨張したからといってその統治機構の質が高度化しているかと問えば、そうでもない。富裕層の欲望こそ社会発展の原動力、と無批判に認める新自由主義が加速させた格差社会、国際紛争や環境破壊、地球温暖化ガスの大気中濃度上昇に伴う気候変動問題、今次のコロナ禍における政府の対応のポンコツ振り等みても、国頼みの社会の脆弱性が露わになっている今、大きな価値観の転換は待ったなしの状況である。アナキズムに目覚めた庶民がやるべきことはなにか。政府に抗議し、あとは国が何かやってくれるのを腕組みして待つだけのものではないはずだ。コモンズ、地域コミュニティ、名前は何でもよい、身近なところから相互扶助のネットワークを「取り戻す」ことだ。
鶴見は戦時下、結局日米交換船で帰国した。その際、獄中でまとめた論文により哲学教授ラルフ・バートン・ペリーをはじめとする教授会によって飛び級による卒業が認められている。国家総力戦体制に突入するアメリカにあって、個々の人々のアナキズム的良心は紛れもなく作用した。鶴見は救われたのである。
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秩序を保つためには「国家」がなければならない。現代社会に生きている自分たちにとって国家は自明のものだし、国家がなければ困ると考えている。
でもそれは本当なのだろうか。国に頼らずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができる、それがアナキズムなのだ、と著者は言う。
そして、モースの『贈与論』、デヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』、ジェームズ・スコットの『反穀物の人類史』『ゾミア』等の人類学的知見、宮本常一、きだみのるの日本社会に関する民俗誌などを参照しながら、生活者のできることに目を向ける「くらしのアナキズム」を考えていく。
大きな災害があれば、人はできる範囲で助け合おうとする。「市場」(しじょう)は資本主義の原理で動くが、「市場」(いちば)は非日常空間だったt
「アナキズム」というと反国家というイメージが強かったが、くらしのアナキズムであれば、誰でもがある程度のことはできるかもしれない、それを実感できた。
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政府の転覆を謀るような破壊的な「無政府主義」ではない。国家のなかにありながら、民主主義をとりもどすための「アナキズム」を提案する。
「未開」とされてきた人びとの営みに注目する人類学の視点から考えることで国家の自明性を疑う。初期国家の成り立ちからして、「国家は、人びとから富と労力を吸いとる機械として誕生」しており、歴史的にみれば「国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だった」とする。そして過去には「非国家空間=ゾミア」のような、人びとを飲みこむ国家を逃れた共同体が存在した例を示す。
パンデミックも含む現代の日本の状況に目を移し、災害時の人びとの助けあいが国や行政による対応を上回ることなどを挙げ、国家の本質はその発生時と変わりがないとする。政治と経済が国家と資本主義に委ねられることが当たり前になり、自発的な問題解決能力が失われた現在の状況を憂う。そして、本来は身近なものであるはずの「政治」「経済」が何であるかを問い直したうえで、それらをとりもどすべきだと訴える。
文化人類学の観点から、西洋由来の国家的な政治体制と思われがちな「民主主義」が、実は国家成立以前から世界各地でみられた普遍的な「民衆の知恵」であるという指摘が新鮮だ。現代エチオピアと日本社会との対比や、過去においては海賊たちまでもが民主的だったとする具体的な事例なども興味深い。同時に、多くの人が民主主義の象徴とみなしているであろう「多数決」を、コミュニティを破壊しやすい非民主的な方法だとする。この点では、大小を問わず現在の多くの争いや分断の問題の根源を突きつけられた思いがする。また、現在の日本の政権にたいする批判的な記述も目立つ。
本書では、鶴見俊輔、ジェームズ・スコット、柳田国男、花森安治、オードリー・タン、ミシェル・フーコー、クロード・レヴィ=ストロース、フェルナン・ブローデル、宮本常一などの著作や発言が多数引用されている。そんななか本書にもっとも大きな影響を与えているのは昨年亡くなったデヴィッド・グレーバーであり、著者自身がそのことを強調している。余談だが本書で言及されていないところで、序盤にある椎葉村や柳田国男などについての記述は、『遊動論 柳田国男と山人』に書かれている内容がほぼ同じだったように記憶している。
著者のいう民主主義・政治・経済を取りもどすということは、すなわち主体的な暮らしと生き方を取りもどすことだと理解した。つまり現代においてそれだけ人びとの生から主体性が大きく損なわれているということになる。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』で指摘された無意味な仕事の拡大もこれにつながり、資本主義下で常態化しつつある砂をかむような労働のあり方も回復すべきもののひとつとして付け加えられるだろう。全体に学びや驚きが多く、引用されているデヴィッド・グレーバーやジェームズ・スコットの著書にも関心をもつことができた。
「人に迷惑をかけてはいけない」や「自己責任」とは対称的な「不完全性の肯定」については、再び広く認識されるべき、人が暮らしていくうえでの基本的な姿勢だと強く感じる。
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ここでいうアナキズムは決して無政府主義ではない
多数決による強制的民主主義や新自由主義的資本主義に風穴を開けるのは、個人とか小さな共同体の繋がりだ
国家のような大きすぎる共同体にこの議論を当てはめるのは難しいとも感じるが、個人としてこういう心持ちでいることは大事だとも思うのだ
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アナキズムは無政府主義じゃないって言うので、どういう本なんだろうと思って読んでみた本。
要するに国家を当てにしないという自助・共助的なあり方を目指す(ちょっと皮肉だ、著者的には政府の言うこととは違うんですということらしいけど…)という話で、地域の共同体でのつながりを取り戻すことで自己決定する政治と経済をやっていこうという感じ。共同体のつながりの復活っていうのは良く取りざたされるけど、その達成への道筋についてはやっぱり弱いように思う。
国家はこれこれこういう成り立ちなので搾取と抑圧を行うものだし、災害や疫病では思う様には動かないということで、国家は「図体がでかいだけで、無能で無力である」。虐げられる「生活者」vs 権力と暴力を独占する国家という構図を展開する。
私自身は災害やコロナ禍で国家が全く無能だとは思わないし、日常のインフラ整備や治安維持など含めてある程度必要な役割を果たしていると思うのだが、そこは個人の感想か。
政治をドラマとして消費することに終始して政治を政治家任せにしないで、生活が政治の延長上にあることを自覚するべきという著者の意見はすごく賛成できる。
でも、国家と政治家を「生活者」とは断絶した存在のように扱い、対立をあおるのはあまり好きじゃない。
未開社会の首長が自分の財産を根こそぎ共同体のために使い、奉仕することを強いられるのを美談っぽく書いていることも若干違和感があったが、「病気が理由でその職を投げだせば、同情が集まって支持率が上がる」などと書くあたり、現代日本の政治家も国家で働くたくさんの人々もサンドバックではなくて同じ共同体の「生活者」でもあるっていう認識がなさそうなんだよな。
近所のお店の主人が病気で店辞めたら「病気で仕事を投げ出した」なんて書かないだろうに。例えそのせいですごく不便になるのでも、嫌いな人間だとしても。
規模は全然違うけど国家だって共同体の人間が運営する共同体のための問題解決システムであって(著者自身国家は暮らしのための道具にすぎないと書いている)、アナキズムが無政府状態を目指すことをやめて国家と共存せざるを得ないのなら、国家を敵視するのではなくて著者の言うアナキズム的あり方に取り込む方が正攻法ではと思う。
政治が遠い遠いと言っても、最近は国会議員や自分の市の市議会議員の人なんかもSNSを活用している。メディアを通さない形で直に自分の活動を報告したり市民と交流したりする様子を見て、すごいなと思っていた。自分の興味のあるトピックについて活動している政治家を探して応援したりとかもこの時代だからネットでできるし。本来の市民の代表ってこういう形で育つものなんだと感じる。
この本で主張される、多数決は民主政治じゃない・意志決定までに皆を納得させなきゃいけないっていうのは国家規模だと難しいけど、別に今までも根回しや議論、反論への配慮は一応あって多数決だけが全てだったわけではないだろう。
国の政治というシステムを構成しているのは敵ではなくて、対話のできる、人格のある共同体の仲間で、私たちが責任を持つ(その手段は選挙だけではない)代表だということを認識するのであれば、「政治の現場である暮らしのなかの関係性や場を耕しておくこと」を活発化できるのではないか。
その気になればできることはまだある気がする。
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『くらしのアナキズム』
アナキズムのイメージを変える本。アナキズムは世界史の教科書では、反乱分子をして描かれることが多く、危険思想として紹介される。しかしながら、現代的にはそのエッセンスの再評価が進んでしかるべきであろう。自己責任論の増加により、福祉国家構想がとん挫しつつある現代において、これまで以上に国家に期待をして、なおかつ寄生しようとするのは限界があると感じる。そうした中で、自生的であり、相互扶助的なコミュニティの再建は急務であろう。くらしのアナキズムで紹介されているアフリカの事例などでは、一刀両断することなく、物事のナカを取ったり、話を収める長老が出てくる。最近は、民主主義が多数決と混同されて久しいが、本来的な民主的な手続きとは、組織がより長い間存続できるように、誰にも花を持たせ、誰にも我慢してもらうことであろう。アナキズムは国家のような絶対者がいない中でも、人々が共生する技法を教えてくれる。これは、自己利益のために国家からの徴税を免れようとするリバタリアニズムとは一線を画するし、より建設的である。アナキズムに学ぶところは大きい。
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こういう共同体を復活させよう!という考え方はいろんな本に書いてあるが、心構えばかりで結局現代日本における具体的例などが書かれていないな…というのが率直な感想。
それからやっぱり共同体って素晴らしいのだろうなと思わされる一方、単身マンション住まいで敷地内で男性とすれ違うのもなんかやだなぁ、と思ってしまうような現代の状況を鑑みると、再び共同体というものを暮らしに打ち立てるのは難しい気もする。知る機会がない、知らない人(特に一人暮らしの女性にとっては男性)は怖い、近所付き合いめんどくさい、一人でいるのに慣れているから楽、というさまざまなハードルを、理想だけで乗り越えていくのは難しいと思う。
ここまで個別化された現代人は、本当に共同体を心地よいと思えるのか。
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言いたいことは良くわかる、というのはこういう議論は数十年前から(つまり私の若い頃から)論じられてきたもので、特に目新しい要素は(私には)ない。
けれど、こういうテーマをわかりやすく書いた本が、現在の日本で一万部以上売れているというのは、とりあえず喜ばしい限りである。
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多数決ありきの現代民主主義。
多数決を取る前に出来ることがある。
対話を通じて、全会一致を図ること。
時間をかけて、関係や場を「耕す」こと。
「茶飲みに行く家の数が
へってしまうかあねえもの」
我々はただ、茶飲み友達を減らしたくない
だけなのだ。
国家に甘え、国家に主権を全て渡しては
いけない。
我々のくらしを我々のもとに、引き戻す。
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■人類学
>国家は、人びとから富と労力を吸いとる機械として誕生した。当然、人びとからしてみれば、そこからいかに逃れて生きるかが生存を左右する問題だった。
>つまり、まとまった人民がいて国ができたわけではない。国が周辺の人びとを強制的にかきあつめることで国家が生まれた。国が存続するには、その安定的な人口からきちんと税を徴収する必要がある。人口集中や土地台帳が国づくりの基礎だった。
★人びとを決められた区画・土地に縛り付けるための水田稲作の推奨 移動耕作の禁止
>東南アジアの国家の盛衰史は、国家が絶えず流出する人口を戦争による捕虜獲得で補う歴史だった。
>ぼくらが学校で学ぶ歴史は国家の中心から描かれた「国史」だ。だから、文明化した国家の中心が先進的な優れた場所で、その価値観になじまない周辺の僻地を遅れていて、そこに住む人びとは「野蛮人」として描かれる。それは、東京にある大学や企業こそがすばらしくて、地方は不便で遅れているといったイメージとも重なる。
>山は、つねに国家に抗う「まつろわぬ民」のすみかだったのだ。
>社会主義の理想を実現した奇跡的なユートピア
>国家から距離をおいた人びとは、自分たちの社会が国家のように階層的で抑圧的な場所にならないよう、慎重に平等な社会構造を維持しようとした。山の民は、国家空間にとりこまれないために、あるいは自分たちの内側から国家が生まれないように、あえて平地とは真逆の「国家に抗する社会」をつくりだしてきたのだ。
「ゾミア」の歴史は、ぼくらの物語の一部でもある。人類はどこから来て、どこに向かうのか。国家なきアナキズムを生きた人びとの営みは、いまもその想像力のひとつの源泉でありつづけている。
■生活者
>いまの日本でも、国家は隅々まで均質に社会を覆っているわけではない。まだらに、でこぼこに存在している。ときどき動かなくなる。きっとぼくらのすぐそばにも、そんな国家とは無縁の小さなスキマがたくさん残っている。アナキズムの問いかけは、そんなだれにとっても身近なスキマのもつ意味を可視化してくれる。
>生活保護などの社会保障の制度をつくるのは、たしかに政治家の役割だ。それは一般市民にできることではない。でも、制度ができたからといって、ぼくらが対処すべき問題はすぐにはなくならない。
>政治家は、所詮、法律をつくって、予算をつけるくらいしかできない。その政策や法律を実のあるものとして現実化できるのは、日々の暮らしを営んでいる一人ひとりだ。介護現場で高齢者をケアするのも、震災後の復興でがれきを片づけるのも、虐待に苦しむ子供に手をさしのべるのも、政治家ではない。そう、政治は、人びとの暮らしのなかにある。
>(オードリー)タンは、「保守的である」ことは進歩の名のもとにこれまでの文化を犠牲にすることなく、多様な伝統的価値を大切にすることであり、「アナキズム」を「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」と定義している。
>タンが「安全な居場所」を重視している点も見逃せない。革命という言葉の響きにくらべたら、地味でかっこよくもない。でも生活者のアナキズムを考えるとき、たぶんそれ以上に大切なことはない。革命ですべてがひっくり返されるとき、多くの生活がその激変のなかで犠牲にされる。たとえ、その変革が必要であったとしても、一人ひとりの暮らしを犠牲にする変化は持続可能でもなければ、望ましいものでもない。だからこそ、既存の国家の体制をうまく利用する。国家のなかにアナキズムの空間をすこしずつ広げていく。そういう意味での「保守的であること」が「くらしのアナキズム」には必要になる。そしてそれは、スコットがいうように、自由を脅かす支配的な権力や強制力をもつのが国家だけではないからでもある。
>フーコーは、なかでも家族はその他のものと異なる形態をもつがゆえに権力の大規模な「作戦」の支点となると述べている。家族は異性愛にもとづく婚姻制度に支えられている。そこでは当然、婚姻関係を法的に承認したりしなかったりするというかたちで、国家の法の次元が性的欲望の装置に運びこまれている。
>権力による強制は国家という制度だけにみられるわけではないこと。むしろ国家権力への抵抗が国家という制度を内側から支えている側面もある。そして国家体制への抵抗に力点をおきすぎると、より身近な場で抑圧的な権力関係が生じていて、そこに自分もとりこまれている現実から目をそらしかねないこと。こうした危険性を意識することは、アナキズムをたんに国家や政府の否定にとどまらず、あらゆる権力的なものと向き合う方法を考える視点へと拡張させるはずだ。
>セルトーは、人びとの日常性の細部には、監視の編み目のなかにとらわれながらも、その構造の働き方をそらし、ついには反規律の網の目を形成していくような策略と手続きが潜んでいると言う。そこで描き出される民衆の「知恵」や「戦術」は、人類学がずっと目を向けてきた名もなき人びとの実践でもある。
■国家なき社会の政治リーダー
>首長は「明確に定められた権限も、公けに認められた権威も、支えとしてもっていない」
>公けの仕事の負担そのものが報酬
>「主権在民」「公僕」
>集団としてのまとまりの維持機能
>「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだ
>クラストルは、歴史上、「過剰な生産」が生まれたのは、社会が支配者と被支配者に分かれたからだという。支配者は働かず、もっぱら被支配者が生み出す余剰生産物に依存して暮らす。つまり、その支配者の生活を支えるために、人びとは自分たちの必要をこえて働くことを強制されてきたのだ。 ぼくらが必要以上に働こうとするのは、必要をこえて働くことを強いられてきた歴史や隷従の欲望が隠れているからかもしれない。クラストルは、「本質的に平等社会である未開社会では、人間は自らの活動の主人、その活動による生産物の流通の主人なのだ」と書いている。
>現代に生きるぼくらからすれば、国家なき社会や「未開社会」とされる人びとの生活は「貧しい」ようにみえる。でもそれは、あえて蓄積につながる無用な過剰生産を拒否してきたからでもある。そこには「労働を必要の充足に調和させる意志」があり、過剰な労働を強制し、その余剰を一部の者の所有物にする暴力としての国家を拒否し続ける意志があった。それはまさに国家に抗する戦いの歴史だったのだ。
>グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。
■市場のアナキズム
>商業独占から生まれた大商業会社は、国家が付与した特権によって遠隔地交易を独占し、資本を蓄積させた。そこには、近代国家にとって宿命ともいえる財政難をその商業会社からの徴税で解消しようとする国家の思惑もあった。市場の自由と平等、そして自治は、こうして国家と商業資本との結託のすえに失われていったのだ。
>市場(いちば)が小規模な「商い」と「安定した日々の仕事の場」だとしたら、資本主義は大きな資本をもとにリスクをとれる者だけが膨大な利潤を手にできる「投機」の場である。
無縁の人びと、非日常
>権力に抵抗する暴力は、ときに弱い立場の人にも向けられる。降りかかる暴力にどう対処し、内側からわき起こる暴力をいかに抑圧するのか。アナキズムにとっての難問は、身近な足元に埋まっている。
>国家のお墨つきをえた暴力はたががはずれたかのように抑圧がきかなくなる。一揆での被差別民への暴力も、平時にはありえない焼き討ちなどの暴力が黙認される混乱状況で起きた。
>国家は暴力を抑止するどころか、むしろ暴力を公認し、人びとの生活を絶え間ない暴力の連鎖に巻きこんできたのではないか。そんな問いが、アナキズムの国会への懐疑の根底にはある。
■熊本地震
>ぼくらはつねに匿名のシステムに依存して生きている。そのシステムが壊れたとき、たよりになるのは、それぞれがつながってきた顔のみえる社会関係だけだ。その関係から切り離されて孤立すれば、生存すら脅かされてしまう。
>住宅を塀で囲み、他人の目を避ける。ぼくらはそうして自分たちだけの心地よい空間を手に入れた。それが人とすれちがう機会を減らし、近所づきあいを奪ってきた。心地よさの獲得と同時に、大切なものを喪失したことに、ぼくらは気づいていない。
>畑でとれる野菜も、お互いの存在も、つねになにかが"もれでて"いて、それらが"すくわれて"いく。
■自立と共生のメソッド
>他者と感情的に交わる回路
八百屋、スーパーのレジ
> 都会では、壁一枚で隔てられただけで、互いに名前も知らず、あいさつを交わすこともない。問題が起きれば、行政や警察が対応し、近くの人が手をさしのべることは期待されていない。そんなライフスタイルは、ぼくらを自由にした。他人から干渉されることも、人間関係に煩わされることもなく、好きな時間に好きなことをして暮らせる自由を。でもその自由は、なにどともなく生きられるときだけの束の間の自由だ。
人はときに病気になる。家族がいつまでも一緒にいられるわけではない。地震などの自然災害も起きる。おそらく人生のなかで、ひとりでは解決できない問題をかかえることのほうがふつうで、健康で自由を謳歌できる時間のほうがまれだ。でも、いまの日本の都市生活は、そのまれな状況を前提に営まれているようにみえる。
> いつの日か、だれもが固有の人間関係の網の��から切り離され、代替可能で貨幣に換算可能な労働力になるとき、そしてその労働力としての市場価値にしか、みずからの誇りをみいだせなくなったとき、「人間の経済」から「商業の経済」への移行が完了するのかもしれない。
奴隷、貨幣交換、モノ化
どれだけ手に入れたか⇔どれだけ与えたか
「所有するとは与えること」
>無縁の市場(いちば)に生まれる有縁のつながり
>自分たちで問題をともに対処する無数の小さな拠点
個人商店 宛先のある経済 応援消費
> ぼくらは過去の多くの「法律違反者」たちから恩恵を受けている。それをあたりまえのものとして生まれ育つと、そんな逸脱者の存在は意識しにくい。逸脱者たちを国が力で抑圧し、ねじ伏せようとしてきた歴史はすぐに忘却される。なんとなく、いまの豊かで恵まれた状況は、それこそ国がつくってくれたものだと勘違いしてしまう。
今この瞬間も、よりよい状態を生み出すための逸脱がこの社会をじわじわと動かしている。
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同じ著者の「うしろめたさの人類学」もそうだったが、新しい目が自分の中に増えたような、自分の場所が少し空間上動いたような気がする。
優しい言葉で書かれているので、すごく理解した気になるけれど、まだ自分の中できちんと消化できたわけではない。言葉にもまだできない。でも確実に何かが変わった気がする。
抜き書きも途中でできなくなってしまったので最初の方だけ。
"「公けの仕事の負担そのものが報酬」。そう思えない人には、そもそもリーダーの資格はないのだ。" 85ページ
"リーダーは自分の利益のために動くものではない。共同体のために働き、分け与えるべきだ。" 87ページ
"レヴィ=ストロースは、「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだといった。それはあきらかに民主主義の理念そのものだ。本来なら、国民が納得できる言葉をもたず、同意をえるどころか、発言するたびに失望させるような者に政治家の資格などない。" 93ページ
"ぼくらが必要以上に働こうとするのは、必要をこえて働くことを強いられてきた歴史や隷従の欲望が隠れているからかもしれない。" 96ページ
"国家の根底には、一部の者のために多くの者が働くことを強制する力がある。それがあたりまえになると、労働を拒否して余暇を楽しむよりも、蓄積をしようとする欲望が膨らんでいく。それをうながしてきた力こそが、国家の「拘束する威力、強制の能力、政治権力なのだ。" 96ページ
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この本で書かれる「アナキズム」は決して過激でも暴力的でもなく、我々が日々の生活で容易に実践できるものだ。特段目新しいものでもなく、述べられる事柄も曲解されて読まれることもきっとあるはず。民主主義について理解した気になってここまできた身には、現在の政治や社会状況は自らのこれまでの無知・無関心からこうさせてしまったと思ってしまうのだが、生活者もアナキストとして意識して暮らし、身の回りに目を向けて関わっていくこと、それを広く伝えていくことから始めて、国家に隷属しない、もっとものを言っていい立場であることを意識して顔を上げたい、と思いながら読んだ。
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くらしのアナキズム 松村圭一郎 ミシマ社
ここで言うアナキズムは
無政府主義という意味ではなく
鶴見俊輔によると
権力による強制なしに互いに助け合って
生きていくことを理想とする思想だと言う
つまり相互扶助・切磋琢磨・自律共生関係
互いに与え・受け取り・返すと言う
三つの循環を満たすことで調和を目指す関係を
アナキズムによる集いと呼ぶ
出合いの構造からみる社会には
群れと集いの二種類があり
利害による群れ
地域による群れ
行動による群れ
血による群れ
情=家族による集い
愛=友による集いの五種類がある
「群れ性」の結束力は強いが
利害関係が崩れれば
可愛さ余って憎さ百倍となり
傷つけ合うことにもなる
「集い性」の粘着力は薄いが
違いを乗り越えて補い合うことができる
結果重視の唯物主義と違い
プロセス重視で人と人がゆるく
有機的に対等につながるアナキズム社会は
法という無機的な縦社会の権力構造と違い
集い性が高いのだと言えるだろう
平等社会は善人の善人によるユートピアではない
むしろ我欲という業を抱えた
不完全な存在だからこその仕組みなのだ
民主主義の根底には同意というコンセンサスがあり
多数決による勝敗民主主義とは相容れない
全会一致主義は封建的・作為的・少数派圧殺というよりも
あえて多数決をしない部落の暮らし第一主義なのだ
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「自分の生活に対する自分の決定権を取り戻そう」というアナキズム論。
資本主義•新自由主義が浸透する中で私たちが失ってきたものは何か?私たちは本当に進歩しているのか?民主主義的実践とは何か?
人類学的な見地からこれらの問いを、生活に引き寄せて記述する本書は、私たちが「取り戻さなければならない」ものが何なのかを教えてくれる。身近な生活こそ革命の基盤なのである。
この本に記されたことに、目新しい記述は正直なく、「その通り、そうだよね、」と思うことが多かったので、類似のテーマに親しみのある人にとっては目新しいものではないかもしれない。ただ、「アナキズム」というワードに拒否感のある人が手に取ると、革新的なイメージを呼び起こすのではないだろうか。