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- カテゴリ:一般
- 発売日:2012/02/18
- 出版社: 荒蝦夷
- サイズ:19cm/216p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-904863-18-3
紙の本
仙台ぐらし (叢書東北の声)
著者 伊坂 幸太郎 (著)
タクシーが多すぎる、見知らぬ知人が多すぎる、ずうずうしい猫が多すぎる…。仙台在住の作家・伊坂幸太郎が日々の暮らしを綴る。『仙台学』掲載を中心に書籍化。書き下ろし短編「ブッ...
仙台ぐらし (叢書東北の声)
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商品説明
タクシーが多すぎる、見知らぬ知人が多すぎる、ずうずうしい猫が多すぎる…。仙台在住の作家・伊坂幸太郎が日々の暮らしを綴る。『仙台学』掲載を中心に書籍化。書き下ろし短編「ブックモビール」も収録。【「TRC MARC」の商品解説】
『仙台学』vol.1~10(2005~2010年)の連載エッセイを全面改稿。加えて、単発エッセイ1編、震災後のエッセイ「史上最大の復興」「震災のこと」、宮城県沿岸で移動図書館のボランティアをする青年を主人公とした書下ろし短編「ブックモビール a bookmobile」を収録。【商品解説】
著者紹介
伊坂 幸太郎
- 略歴
- 〈伊坂幸太郎〉1971年千葉県生まれ。東北大学法学部卒業。「アヒルと鴨のコインロッカー」で吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
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紙の本
私達は何も言えない。どんな言葉を投げかけても上滑りする気がして。
2012/02/20 19:32
43人中、43人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:チヒロ - この投稿者のレビュー一覧を見る
あの震災のあと、私達は仙台在住の伊坂さんは大丈夫だったかといろいろ気にしてはいたのですが、
無事とは聞いてもその後、彼からの発信は途絶えたままでした。
それを、地震前の地元での毎日を、彼がいうところの「少しだけフィクションを加えた」ノンフィクション風なものとともに、
地震の瞬間、どこでどうしていたか、それからどうやって今日まで暮らしてきたかが、
「何を書けばいいのかわからない」とまで思わせた心の痛手など、
真面目に向き合ってあらわされています。
震災前の、平穏な日々の話として、とても自分は心配症だと語る。
頻繁に起こる地震にあらゆる妄想が働いて、
「いつか大きな宮城県沖地震がくる」という不安を口にするくだりは、
あまりにも早く現実になった今としてはちょっと鳥肌が立ちそうになります。
そして彼の執筆活動の習慣である、仙台の町のファミレスやカフェで原稿を書いていたまさにその時起こった地震。
幸い自宅や家族に大きな被害は無かったけれど、その後の街の大変な様相に
言葉をまとめることができなかったと語る。
この本の前半の、軽妙で心配症でそそっかしい彼と仙台の街の関わりが温かく面白く書かれている分、
後半の心がまとまらない様子は、どれだけ大地震が根こそぎ人々から持って行ってしまったのか、
やっぱり体験した人でないと解らないし語れないことなんだと思い知らされました。
紙の本
ブルーハーツの歌詞に倣うわけではないけれど、「この地震でへこたれるために、今まで生きてきたわけではないのだ」と自分自身に言い聞かせている(P144-145)/あまり無理せず、遠回りをしてもいいから、史上最大の復興を進んでいくんだ(P159)
2012/03/28 18:14
19人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
文字組のゆったりした200ページほどの本で、サクサクと読みやすい。半ばぐらいまでは、売れっ子作家の日々の生活が軽妙に書かれたエッセイ。いちおうは、エッセイ。エッセイに見せかけた作り話を意図して書き始められたものらしいけれども……。
仙台は、そこそこに文化や品もの、施設の整った便利な街であり、人混みをはじめとする都市問題があまり気にならない住みよさげな街である。その土地で、仕事場代わりにしているカフェをどう渡り歩きつつ執筆してきたか、タクシーの運転士さんたち(伊坂さんは「運転手」と書いていて、それでいいのだと思う)からどのような世間話を聞き出したか、実際の読者や、作家が読者だと早とちりした人たちと、どういうやりとりをしたかなどが、情景が目に浮かぶように分かりやすく、ほのぼのしたタッチで書かれている。ストレスない読書で、とてもなごませられる感じ。
しかし、半ばを過ぎたあたりから、「ああ、こういう調子は悪くないんだけれど、こういうのに付き合うために買った本じゃないんだよね」などと考え出してしまう。つまり被災地となってしまった仙台というところに注目して買って読み始めた本なのだから、ということだ。
住環境の良さそうな地方都市なら他にもないわけではなく、大地震の続いた日々から1年が経ってしまい、「今の仙台」は明らかに「昔の仙台」とは違う、私の中では……。そうなった今、「昔の仙台の話ばかり長くても、求めているものが違うのよ」と思えてしまう。
勝手なもので、被災地には「被災地らしさ」を求める仕組みが、被害の外にいた人間の意識の中にはできてしまったのだ。「何て粗末な思考回路」と、情けなくも心外な発見に驚く。
実は、半ば過ぎまでのエッセイは、「タクシーが多すぎる」「見知らぬ知人が多すぎる」「消えるお店が多すぎる」というように「○○が多すぎる」というユーモラスな見出しがつけられた雑誌向けの連載だったということ。そもそも評判が良かったエッセイをまとめて出すはずだった『仙台ぐらし』――もし、そのように出されていたのなら、伊坂幸太郎作品を一つも読んでいない私のような場違い者が、こうして『仙台ぐらし』を読む機会もなかったはずで、それが本の運命として良かったのか、良くないことだったのか。
それはさて置き、伊坂氏の「くらし」の日々には、「震災後」という大きな要素が否応なく入り込んでしまった。家族の身を案じ、余震に怯え、電気やガス、水道といったインフラの復旧まで不便をがまんし、復興のために尽力する知人たちと励まし合い、といった要素だ。
「被災地に住んでいる作家だから」「震災を経験した文化人なのだから」ということで、媒体で企画を担当する人たちがそれに注目しないわけはなかったろう。震災がらみのエッセイが乞われ、いくつか書かれた。ありていに言ってしまえば、「3・11」の前と後のエッセイということになる。ただ、震災の影響について、作家は、こと細かに説明しやしない。
ところが、140ページぐらいまで書かれた「サクサクした軽妙なエッセイ」が、20ページ足らず分、集められた震災後のエッセイによって、一変してしまう。がらり違う印象のものに化けてしまった。さまざまな媒体が依頼したものだから字数に差があるのは当然だが、字数だけのせいではなく震災後の文章は、どこか寡黙、どこか簡素だ。
震災前のものだって決して饒舌だったり無駄な表現があったりするわけではないのに、「どうしても、これだけは書いて残しておかなくては……」「残すことが、復興という再創造の前にきちんと行われるべきだ」というような強い思いが、エッセンスとして伝わってくる。そのエッセンスの20ページがよりしっかり認識されるためにこそ、前段のサクサクした文章がなくてはならなかったかのようだ。
『仙台ぐらし』の出版物としての非凡さは、エッセイのあとに、さらに短編小説が収められている点である。よく見れば、帯に「書き下ろし短編」とあったのだが、エッセイを読み終えたところで出てきた小説に遭遇し、「何という本だろう」と驚いた。そして、読んでみて、被災地を回る移動図書館車両に乗り組むボランティアたちのことを書いた小説なのに、ちょっと聞けば不謹慎にも思われる意外な要素が組み合わされた内容で、再び驚かされる。
エンタメと言ってしまえば、その言い方の軽さに恐縮してしまうが、この場所で何という堂々のエンターテイメントなのだろう!
多くの犠牲者が出て、家族や仕事、家を失った人が大勢出て、これから何十年も悩み続けていかなくてはならない放射能の被害もいまだ拡大していく状況の中、「小説や文学にいったい何ができるのか」というテーゼが、物書く人の内面には常にあったことだろう。
『仙台ぐらし』の背後に隠された不断の葛藤と、葛藤の中から慎重に選び取られた言葉で縫った文章との間の果てしなく長い距離。そこに何かを感じ取るため、できるだけ多くの人がこの本を手に取ることを願う。
紙の本
仙台で読みたい
2022/11/18 17:37
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る
あの日、震災の只中にいた伊坂氏の気持ち・状況も書かれた一冊。
りきみのない文体から心細さが伝わってきた。
仙台のカフェで執筆している事が多いという伊坂氏。
いつか仙台のカフェで氏とばったり出会うのが夢。