紙の本
「見えないメカニズム」の可視化
2011/12/05 11:15
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
そもそもは福島県浜通りで生まれ育った作者の修士論文だったそうだが、ひねくりまわしたジャーゴンだらけのいわゆる論文スタイルではない書き方、物言いに共感を覚えた。読み出してすぐ、やるじゃんと感心した。3.11と偶然にもリンクしてしまい、セールスにもプラス効果があったとは思う。でなければ、ぼくも手にすることはなかったかもしれない。
副題である「原子力ムラはなぜ生まれたのか」。貧しい村に「原子力ムラ」を形成したのは、「中央」(国と電力会社)の思惑と「地方」(県と村)の思惑が一致したからなのだが、作者は「原子力ムラ」をフィールドワークしたり、インタビューを試みる。
「中央」と「地方」の関係を「内的なコロナイゼーション」という。植民地化。それをもう少し時間軸を拡大してみる。浜通りにフォーカスしてみれば、石炭(常磐炭鉱)*があった。そして明治以降の国の政策の線上に「原子力ムラ」があることがわかる。
「原子力ムラ」で地元の人々が従事して原発でこさえた電力を都会へ送る。ゴムやコーヒー豆の代わりに。その見返りに中央は、補助金やら、雇用やら、Jビレッジやらを供与する。ま、「出稼ぎしなくてすむようになった」、「新しい店ができ、村に活気が出た」「村の財政も豊かになった」など。
「戦後成長」に取り残されたくなかった。だから、貧しい村、地方に地域利権、地域利益誘導するには、多少のリスクには目をつぶるしかなかったのか。だが、それは圧倒的な不均衡、不公平ではないのだろうか。
「だども、そんなこと、してもしょーがなかっぺよ」と地元民は思うだろう。「ないとおまんま、食い上げになるし」とも。
3.11以前はそうだったろう。だが、いまはどうだ。それこそ犯されたまま、泣き寝入り状態のままという感じだ。
歴代の福島県知事と中央との関係を詳細に記しているが、郡山市といわき市が新産業都市に指定されたのも当然関係がある。覚えている。そのことを。小学生だったが、何か誇らしいものを感じていたが、この本を読むと、それとて言いなりになっている「地方」への「中央」からのご褒美だったようだ。
読んでいて「中央」と「地方」の関係は信田さよ子の著作で知った「共依存」にも似てるなと思ったら、あとで作者は信田のことにも触れていた。あとは、回復が望めないのに「胃瘻(いろう)」でただ延命処置をされている老人にも似ているとふと思った。福島原発から30km圏内が未来永劫だめだといっているわけではないが、素人考えでも来年戻るとかは早計だと思う。
先日、母の葬儀で郡山へ帰省したが、もがれずにたわわに実った柿の木を方々で見た。放射能のせいかどうは知らないが。
この本は、武田徹いうところの「社会の深層に潜む「見えないメカニズム」の可視化」を見事に具現化したものだ。複雑な心持ちのまま、まとまらないまま、了とする。
よく「東北のチベット」とか表現される。正しくは表現された。かもしれないが。原発銀座は、かつて「福島のチベット」と呼ばれていたそうだが、チベットに対して失礼じゃなかろうか。
*常磐湯本温泉(いまはいわき湯本温泉というのか)など掘れば温泉が出る地域で、炭鉱操業時には頭痛のタネだったが、この厄介な豊富な温泉が、後の常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)となる。
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本書は、3:11以前のフクシマをフィールド調査した新進の社会学者のフクシマ論(修論)である。本書は今世間で言われる、悪名高き原子力ムラは<>でくくり、本当の意味での原子力にかかわってきた村を「原子力ムラ」と呼んで区別する。筆者の観点はこの「原子力ムラ」が戦後如何にして形成されてきたかを中央と地方の視点からとらえようとしたもので、元の福島県知事佐藤栄作久氏をはじめ原子力ムラの人々の声をフィールド調査で浮き彫りにしようとする。社会学者は現状の声を反映しようとするものかもしれないが、筆者の以下の態度に、ぼくはちょっといらだちを感じる。つまり、筆者は、今<原子力ムラ>の不合理や不条理を暴露したり、放射線や自然エネルギーに関する知識・情報を収集しては周りに披露しようとする者、また、そこかしこに救国のヒーローをでっち上げて感傷にひたろうとする者、あるいは地元住民を哀れんだり、自業自得だとうそぶくものたちに冷たい視線を向ける点である。これではまるで、脱原発をまるで集団ヒステリーだというのと変わらないではないか。もちろん、筆者が、原子力ムラの人たちがなにを考えているかに耳を傾けろというのは正しい。しかし、それはかれらの立場をそのまま支持することにはならない。おそらく、3:11が起こらなければ、本書は一定の価値をもっただろう。しかし、3:11が起きた以上、筆者の言うように本書が「3:11を経ても意義を失うことがない議論がそこにある」と言えるかどうかはあやしい。3:11が起きても原子力ムラの人たちは、それでも原発は必要だというだろうか。恐ろしいけれど、いっしょにやっていきたいと言うだろうか。すでに故郷を追われた人たちにもう一度聞いてもらいたい。
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「長幼の序」という言葉が、一気に流行語である。国と地方の関係には一定の秩序があり、地方は年長者のように国を敬わなければならないという関係性が、はからずも映像を通して明るみになったことによるものだ。
この件に限らず、今回の震災は、東北地方に被災地が多いこともあり、「中央と地方」という点にフォーカスがあたりやすい。原発の問題についても同様だ。「上と下」、「主と従」というような関係性の中、はたしてどのように原発は形成されてきたのか?本書は福島県の原子力をテーマに、「中央と地方」の関係から考察した一冊である。
◆本書の目次
第Ⅰ部 前提
序章 原子力ムラを考える前提
第一章 原子力ムラに接近する方法
第Ⅱ部 分析
第二章 原子力ムラの現在
第三章 原子力ムラの前史
第四章 原子力ムラの成立
第Ⅲ部 考察
第五章 戦後成長はいかに達成されたのか
第六章 戦後成長が必要としたもの
終章 結論
補章 福島からフクシマへ
本書の著者は、一言で言えば”持っている”。福島県いわき市で生まれ育ち、2006年から福島原発の研究を始め、まだ大学院生だ。結果的に本書は、おそらく3.11以前の福島原発に書かれた最後の学術論文によるものであるだろう。震災後に書き始めたのでは間に合うことのない圧倒的な取材量が、絶対的なリアリティを生み出している。そして、「中央と地方」という視点で本書を書き終えた直後に、今回の復興相によるオフレコ発言である。これを”持っている”と言わずして、何と言うべきか。
一般的には、「中央と地方」という二項対立で片づけられやすい問題である。つまり、中央の事情により、地方が屈服し原発を立てざるを得なかったという構図に落とし込むことが、最もたやすい。しかし、そこに「原子力ムラ」という概念を設定し、中央、地方、原子力ムラの三者間の関係性で分析しているところが、本書のユニークな点である。一口に地方とはいえ、決して一枚岩ではないということだ。
本書で明らかにされている地方の服従の様相は、非常に複雑なものである。それは、ムラもまた、原子力を欲していたという事実なのだ。背景にあるのは、成長の中で露呈してくる農業という産業の衰退、深まる出稼ぎ、若者の流出と過疎、高齢化、そしてムラの文化の崩壊。そのような状況の中、いつの日か原発への推進/反対というコードは、愛郷/非愛郷いうコードへ転換する。愛郷を貫くための物や金という物理的条件の前には、原発への賛否は大きな意味を持たなくなってしまうのである。
このような社会的なテーマへ考察する際のアプローチには、マクロアプローチ、メゾアプローチ、ミクロアプローチといくつかあるそうなのだが、本書の場合は、ミクロアプローチだ。著者は、フィールドワークや地域調査に基づく「虫の目」で、徹底的に地方に密着している。それでいて決して地方と同化することのない、芯の強さを持っているのが印象的だ。
また、もう一点興味深いのが、メディアとしての原子力という視点である。国とムラの双方が互いに原子力を通じて��鳴していたもの、それはともに原子力に大きな夢を見ていたということである。国の夢は世界有数の原子力技術の確立、自国内での資源確保、ムラの夢は子や孫のための愛郷の実現。つまり、原子力は、国とムラの双方にとって、近代の先端を描きだすコミュニケーションのメディアとして機能してきたということなのだ。
国とムラとの幻想は消え、もはや勝者はいない。そして、この問題はフクシマに限らないのだ。八ッ場ダム、沖縄、六ヶ所村や巻町の問題・・・
我々が見つめなければならないのは、新たな幻想ではない。リアリティなのだ。
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これが修論のレベルかと思うと、脱帽する。3.11後にも残り続けるだろう「フクシマ」の実態を、もどかしさを抱きながらも冷静な分析を行っている。
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中央と地方の問題。原発問題はエネルギーと経済というファクターだけではない、シビアな現実としての「植民地」としての地方の姿が描かれている。これからの日本が進む道を選択しなければならない今一読しておくべき著作。
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本書の中では、原発は社会構造を読み取るための一つの象徴あるいはツールでしかない。
クールでとても興味深い本だった。
今回のことがなければ読むこともなかっただろうけど。
それにしても、社会はよりによって原発を選んでしまったのだ。
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二項対立を排した重層的な視座で「地方からみた都市と地方」を描いており、目を開かされた。使う言葉の一つ一つを丁寧に選んでいる姿勢にも好感。地域の歴史を、地域の視点から見つめた記録はとても大切だ。島根でも取り組みたい。
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2011の日本国民必読書。
戦後日本の成長神話と服従のメカニズム。
反原発、脱原発を語る前に是非読むべき。
原発立地の首長に推進派が再選される構図がよくわかる。
根底に臨床心理学的視点があって、すごく読みやすかった。
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「フクシマになるな」と出身地のことをかくも語る著者の言葉は重い。
原発本のなかでも一等必読だと思われる。
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福島県出身の著者が、原発事故直前に修士論文として提出したものがベースとなっている。故に事故後ではなく事故前の話、それも相当前からの話。著者は社会学者であり、原発の技術の話でも政治の話でもなく、社会の中の原子力発電のポジション、「電力」とは別の「原発依存」を描いた話。
著者がいう「原子力ムラ」は、飯田哲也がいう原子力産業に関連するコミュニティを指すのではなく、原発立地自治体そのものを指している。原子力マネーが転がり込んでくる(引っ張り込んでくる)と、ムラはかくも変わっていくのかと。
脱原発の声を聞くにつけ、各地の原子力ムラでは、栄えてきた歴史の逆をたどることになるのか、という恐怖につつまれているのだろうか。
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学生らしい素直な文体で福島と原子力発電所をめぐる問題を浮き彫りにしていくその姿勢に感服しました。問題提起のアプローチも的確で色々と参考になります。
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2011年の1月14日に著者の修士論文として東京大学大学院に提出されたのが本書だ。その時点では「『原発』といってもなかなか伝わらない。興味も持たれない」テーマでしか無かった。
しかし、その2ヶ月後の3月11日、東日本大震災が起こり、福島県の原発がある町を研究対象とした本書は一気に注目をあびることになった。まさにそれは著者が巻末で書いているように、夕闇の中、誰もいないと思ってグラウンドを周回していて、グラウンドの証明がパッと点いたら、満場の観客の視線を一身に浴びていた、という状態だった。
しかしながら、一方で、著者は自分の研究の視点(それはいわゆる「地域の活性化」と呼ばれるような中央と地域の駆け引きを、単なる二項対立という観点ではなく、一種の共生のようなものとして捉え、その成立過程を丹念に追う)とは異なり、マスメディアも反マスコミの識者も、旧来のステレオタイプな視点しか持ち得ないという事を知って、焦燥感、危機感までを感じているようにも見える。
今年のBestに入れたい一冊。
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「原子力ムラ」は原発を「抱擁」しながら生きてきた。それがフクシマだった。そう捉える事でしか、原発との「共存共栄」という、一見摩訶不思議な論理に迫ることは出来ない。
本書は、元々修士論文として書かれたものを急遽出版したという背景がある。処女作にして、かくも広範な読者を獲得した開沼氏の視座の確かさ、ブレイクスルーにまずは★五つを献上したい気分。
しかし、論文ゆえの固さ、ナイーブさは、読者にもある種の緊張、覚悟を迫ってくる。「『脱原発のうねり』もまた何かをとらえつつ、他方で何かを見落としている…(中略)…ただ純粋にそれ(=原発:レビュアー注)を止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない」とは何か。読者がいわゆる「中央」の立場に安住することを良しとしない視座の厳しさは、ちょっと万人向けでは無いし、想定読者層が今ひとつ絞り切れていないとも思うので、★一つ減。
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『We』で「遊びをせんとや生まれけむ」を書いてもらっている西川さんが『フクシマ論』を読んでいると聞いて、図書館の本を調べたらほとんど予約もついてなくて、年末にまわってきた。編み物の手を動かしながら、ゆっくりゆっくり読んだ。
この本は「原子力ムラ」をテーマに、「中央と地方」と「日本の戦後成長」の関係を論じた修士論文がもとになっている。「原子力ムラ」といっても、"原子力を推進してきた中央の原子力行政や御用学者"といった、この数ヶ月の間によく言及されるようになったムラのほうではなく、「原発及び関連施設を抱える地域」を指す。
そして「加害/被害」「支配/被支配」といった二項対立ではなく、そういった捉え方をアタリマエだと発想する常識や世界観そのものを問い直そうとしている。別のことばで言えば、「服従の主体があってはじめて支配という客体が成り立つという、一見常識と矛盾するような支配のあり方、服従が自発的になされるようなあり方」を考えようとしている。そのときに参照されているのは、ポストコロニアルスタディーズだという。たとえばスピヴァクのような。
戦後成長が地方やムラをどう変えたか、それがひじょうによく見えるケースとして福島の「原子力ムラ」を対象とした論文は、去年の1月14日に提出された。3/15の修了を待つばかりだったという論文は、奇しくも「3.11以前の福島原発について書かれた恐らく最後の学術論文」となった(この「福島原発」という言い方は3.11後にあらわれたもので、地元では「第一原発」「第二原発」あるいは「1F」「2F」と、二つの原発を区別してよぶのが通例だったという)。
▼…3.11後の現在においても、少なからぬ原子力ムラの人々は原発が止まることを望んでいない。それは彼らが、権力者の陰謀のもと洗脳されて操られているからでも、カネに目がくらみ、あるいは長年の原発利権によって懐柔されているからでもない。なぜそうあるのか。(p.15)
原子力ムラは、危険なものを押しつけられたとか、札束で顔をはたかれたといった客体ではなく、能動的に原発を求めた主体だと著者は書いていく。その"自発的、自動的な服従"とでもいうべきあり方を解明するために、「原子力ムラの現在」「原子力ムラの前史」「原子力ムラの成立」が描かれる。
石炭の増産に励み、食糧や兵士、労働力の供給先として、戦時中に動員されていったムラ。戦後も、その動員は続き、電力や農産物の供給地となりながら、貧困から抜け出たいという欲望を常に持っていたムラ。戦後の成長が加速するなかで、中央から地方への分配を求め、地方はますます中央への自発的な働きかけを強めていった。開発計画の誘致が地元の政財界やメディアをあげておこなわれ、そのなかで原発誘致がもちあがる。
▼雇用先ができて出稼ぎはなくなり、わらぶき屋根の家は瓦屋根になり、それまでの農村のままではありえなかった喫茶店飲み屋、下宿屋などが大量に出来て、ムラは大いに活気づいた。…原発と一緒に来たのはカネももちろんだったが、それ以上に重要だったのは成長する都会のヒトとモノだった。原発は都会の表象を自らのなかに取り込��装置となっていった。(p.356)
原子力は、「原発が来ればここも都会になる、もっと豊かになれる」という「近代の先端」を示すメディアだった、と著者は言う。そして、そのメディアが示していた「夢」のようなものは、そもそもはじめから幻想だったことが、しだいに明らかになってきている。「そのような幻想があったがゆえに、戦後の成長は達成された」と、つまりは、権力や抑圧の渦巻くなかで、欲望をかきたてられ、それを手にしようと苦闘した人びとが、戦後成長の原動力であったと著者は主張する。
この本には、原発と生きてきたムラの人たちから著者が聞き取った声がさまざま引かれている。そのインフォーマントは「できるだけ普通の生活者を選び、政治家、原発関係者、原発労働者、反原発アクティビスト等、原発に対する立場や関係がはっきりしている人々は除いた」(p.98)という。
原子力を抱えるムラへ実際に行った著者が感じたのは、ある種の宗教的と言ってもいいような「幸福」なあり様で、それは単純に「危険なものを押しつけられて可哀相」とか「地域の発展のために仕方ない」と捉えることができないものだった。
加害/被害の二項対立では見えなくなってしまうもの、被害者がむしろ加害者に協力する共犯関係のような「自発的な服従」がどうつくられてきたかを、この本の著者は見ようとしてきた。
そして3.11後に書いた補章で、「原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実がある」(p.372)と著者は書く。
ここは、ずいぶんと批判され、誤解されるところだろうと思いながら読んだ。なぜ、そうなっているのか。そこに、原発稼働からでももう40年になる時間があるのだと思った。40年、私がここまで生きてきた年月とほとんど同じだけの時間。「あんたの人生をなかったことにしろ」といかないのはよくわかるし、「それで食っている仕事」を、そう簡単におしまいにできへんよなあと自分自身に照らして思う。原発を止めたそのあとに、原子力ムラの「40年」を転換するどんな暮らしがありうるのかということもぐるぐると考えていた。
*出版を急いだためか、本文には目についただけでも誤字脱字余り字などが頻出して、そこはちょっと残念であった。
(1/15了)
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震災前から地道にフィールドワークを行なっていただけあって文献や関係者の証言によって基盤がしっかりと固められてる。
原発は危険だからすぐ止めなきゃ!いや現実的に考えろ原発無しには既に立ち行かない!のやりとりの前に考えなきゃいけない事があるだろうと。戦後から連綿と続く経済・エネルギー政策がいかにして現在の「原子力ムラ」と<原子力ムラ>を作り上げたのか。今後の道筋を考える上でもまず振り返ってみる事が重要。
本書は近代地方史としての優れた思索も含んでいる。