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紙の本
文学研究という不幸 (ベスト新書)
著者 小谷野 敦 (著)
もはや大学は、幕末の幕府のようなものだ。純文学や文学研究は、今後はほかに仕事を持つ人の趣味、余技としてしか存在しえなくなるだろう…。文学を愛してやまない学者が、文学部に自...
文学研究という不幸 (ベスト新書)
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商品説明
もはや大学は、幕末の幕府のようなものだ。純文学や文学研究は、今後はほかに仕事を持つ人の趣味、余技としてしか存在しえなくなるだろう…。文学を愛してやまない学者が、文学部に自ら引導を渡す。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
小谷野 敦
- 略歴
- 〈小谷野敦〉1962年茨城県生まれ。東京大学大学院比較文化専攻博士課程修了、学術博士。比較文学者、作家。禁煙ファシズムと戦う会代表。著書に「私小説のすすめ」「「こころ」は本当に名作か」など。
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文学部という不幸
2010/02/15 21:12
16人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の趣旨は明快だ。その要旨は「あとがき」に凝縮されている。
「大学を離れて1年ほどたって、子母沢寛の「勝海舟」を読んでいたら、もはや(日本の)大学は、幕末の幕府のようなものだ、と気づいた。ペリー来航から15年で幕府は瓦解し、それどころか武士の特権すらなくなっていく。今や大学の人文系学部とか、人文系の学者などというのは、この幕府とか武士のようなもので、おそらく5年から10年経てば、まず弱小私立や地方国立大あたりから、文学部がメディア学部に名前を変えるなどという美方策ではなくて、本当に大学は倒産し、残ったところでも、もう文学研究の人など要りません、ということになり、文学研究の本など出なくなるだろう。(略)もうこれは、泣こうが喚こうが、(人」文学研究がいかに大切か力説しようが、社会が(人文学研究を)必要としていないのだから仕方がない。(略)純文学や文学研究は、今後は、ほかに仕事を持つ人(弁護士、医者、会社経営者、会計士など)の趣味、余技としてしか存在しえなくなるだろう)
文学研究者は食えない。なぜなら文学研究を日本社会はもちろん世界の社会が、これを必要としなくなっているからだ。そもそも「文学」の研究とは何ぞや。漱石、鴎外、ドストエフスキー、デュマらの研究なら既に出尽くしている。なら村上春樹や村上龍なら研究対象になるのか。ならないのである。研究しようにも、もはや研究するものがないのが、今の文学者を取り巻く現実なのだ。だから仕事の無い文学博士はすることがない。することが無いのに定年まで大学にいるわけだから、仕方なく語学教師として時間を潰すしかない。日本の大学生の言語レベルが低いのは、そもそも教えるのは語学教育の専門家ではなく、「文学者崩れ」「文学者の失業対策」として文学者に丸投げしていることに本当の原因がある。私はこういう大学の語学教育の腐った現実に見切りをつけ、アテネフランセの英語講座に通った。アテネではミシガンメソッドという、元々インディアンに英語を効率的に教えることから発達した英語教育法を採用していて、ここで私の英語力は飛躍的に伸びた。米国でも語学教育は、おそらく語学教育の専門家が担当しているのではないか。少なくとも語学教育の専門外の文学者が英語だのフランス語だのドイツ語だのロシア語だの担当しているのは先進国では日本だけなのではないのか。
本書は「私怨」から書かれているという。何を小谷野敦氏は恨んでいるのか。それはもちろん、カナダに留学し、愛する母校東京大学大学院で学術博士号を取ったにも関わらず、東京大学大学院はもちろん日本中の大学院から袖にされ、いまだにどこの人文系学部にも就職できず不遇を囲っていることへの恨みである。しかも見ると海外留学はもちろん、博士号ももっていない有象無象が世渡り上手なだけで有名国立大学の教授職に収まり、ほぼ定年退職までそこに居座る権利とやらを確保している。こんな理不尽が許されようか。許されるはずがないと言うのが小谷野氏の言い分である。その恨み辛みは『東大駒場学派物語』で東大の内部について一応溜飲を下げたつもりである。しかし、まだ足りないというわけで、本書は東大駒場以外の大学大学院で、特に文学部教授でありながら博士号をもっていないくせにのうのうとしている連中を対象に溜飲を下げようと試みたものである。なかには研究室で女性の大学院生相手に強姦まがいの行為をして平然としている輩や、セクハラを常習としている輩など、話を聞くだに「フトドキモノ」と私まで怒りたくなるような人々もいる。そういえば最近、大澤真幸がセクハラ事件を起こして京都大学教授の座を棒に振り、奥さんとも離婚したっけ(笑
ただ多くは、残念ながら小谷野氏の独り相撲で終わっている感がなくもない。そもそも文学を研究すること自体が「絶滅危惧種」であることに私も異論はないわけだが、だとすると益々文学部研究業界は狭い閉鎖的な空間となり、その内実を、それが例え事実であろうとも、こういう形で暴露することは、小谷野氏の文学研究会における立場を、もう救いようのないまで不利なものとするに違いないと想像するからだ。
私が愛する高田理惠子オネエサマも小谷野氏はクソミソに言う。確かに高田さんは屈折しているのだと思う。そしてその屈折が桃山学院大学という関西の田舎の三流私大(全共闘の時代、関西の全共闘には明確な学歴による序列が出来ていて、後方の敵弾が飛んでこない安全圏で大本営作戦司令部で作戦を立案するのが京都大学で、最前線で警察機動隊と直接対決するのが桃山学院大と決まっていたそうな。桃山学院大はピンク大学という蔑称で呼ばれ、機動隊が近づいてくると「ピンク大、前へ」と京都大学生から号令が飛んだそうな(泣)の経営学部のドイツ語教師と言う悲哀が高田オネエサマを屈折させているのも事実なんであろう。でもそれをこうもあからさまに指摘していいものだろうか。
面白い指摘も、相変わらず多い。芥川龍之介が自殺した理由に「長編がかけない」「書く分量が少ない」から生活できなかったからだとか、亀井勝一郎が売れたのは。ベストセラーになりやすい青春論、恋愛論を盛んに書いたからだとか、そのせいで死んだ途端、誰も読み手がいなくなったとか。小森陽一が共産党幹部の息子で、共産党シンパの教授の強い引きで東大にもぐりこんだが、東大に入った途端、小森が政治運動ばかりやるようになって文学研究を放り出したので「やっぱり小森を東大に呼んだのは失敗だった」とか。外務省から追放された佐藤優が自分に不利な記事が雑誌その他に載ろうとすると裏から不当な圧力をかけて妨害しているんだとか。
他人の悪口しか言わないように見える小谷野氏が鹿島茂については「学問的基礎はしっかりした人だ」と評価しているのは意外だった。
旧制一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」の最初の三行が「栄華の巷」にかかっているとは本書を読むまで知らなかった。私はてっきりエリート学生が高台の桜の木の下で酒を煽ってドンちゃん騒ぎしつつ栄華の巷を低くみているのかと思っていた。
そして最初の話題に戻るのだが、文学部は一流大学にのみ残せばよいと小谷野氏は言う。理由は「一流の頭脳は一流大学にしかないから」。ひどくごもっともです。にもかかわらず、1990年の大学改革以降、まるで英米相手に戦争を挑むような無謀さで三流、四流、五流の大学にまで「文学研究科」なる大学院を設置したのは狂気の沙汰だと指摘する。納得。
知らなかったのは100ページに掲げられた文学部の大学別序列で、なんと法政大学と国学院大学が、明治や青学、立教、中央より上に位置しているのだ。これは知りませんでした。
まあ、いずれにせよ、いいか、よく聞け!文学部なんてくだらない存在は、今の日本社会には必要ねえんだよ。こんな不良債権学部は一刻も早く全廃して、そこに巣くう無駄飯食いは全員解雇して、ういたカネを善用すると、そういおうきおとでよろしいんじゃござんせんか(大爆笑