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出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語
2012/07/19 15:15
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
時は1951年から2年。舞台はアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークのブルックリン。主人公は、エニスコーシーで母と姉と三人で暮らすアイリーシュ・レイシー。英国からの参戦要請を拒否し、第二次世界大戦に参戦しなかったアイルランドは、戦勝国の好景気から見放され景気も雇用もぱっとしなかった。いくら簿記の成績がよくても、売り子ではなく事務職員として働きたいと願う若い娘の働き場所はなかった。ちょうどアメリカから帰国していた神父の口利きでアイリーシュはブルックリンで働くことになる。
ブルックリンにはアイリッシュ・コミュニティーがあり、神父の紹介で下宿先を見つけたアイリーシュは昼は百貨店の売り子として働き、夜は簿記の学校に通うことになった。異国の小さな同郷人の共同体の中での軋轢や階級意識に翻弄されたり、ホームシックに落ち込んだりしながらも、次第に新しい環境になじんでゆく主人公には、やがてトニーという恋人もでき、封切りしたばかりの『雨に歌えば』を見たり、コニー・アイランドに海水浴に出かけたりと、アメリカ生活を謳歌するようになる。
ところが、思いもかけぬ出来事が起こり、アイリーシュは一時帰国することに。トニーのたっての願いを聞き入れ、秘密に結婚式を挙げたアイリーシュは船上の人となる。用が終わればすぐに取って返すことになっていたアイリーシュを待っていたのは、故郷の人びとの思いもかけぬ歓迎だった。アメリカナイズされ、自信に満ち溢れたヒロインは、器量よしの姉に劣らぬ美人になっていたのだ。以前ダンスパーティーで無視されたジムは今ではパブの経営者になっていた。彼からの求愛に心揺れるアイリーシュだったが、かつて働いていた店の主人に呼び出された彼女は、そこで今まで秘されていた事実を知らされる。
働き者で、向学心に溢れ、周囲の人びとへの気遣いを怠らない主人公は、直属上司や下宿屋の主人に気に入られ贔屓される。好意の贈与は当然その見返りを要求している。自分はどう振る舞えばいいのだろう。内省的で自分の行為を振り返らずにいられない主人公の心理描写が卓抜で、読者はどうなることやらとはらはらどきどきしながら彼女の優柔不断ぶりにつき合わされる。コルム・トビーンという作家は初めてだが、美しい姉を持つ、年頃の利発な娘の心理を実に鮮やかに活写している。
今一点。第二次世界大戦後のアイルランドの田舎町とニューヨークのブルックリンという二つの対称的な世界を描き分けることで、生き生きした時代の雰囲気がよく伝わってくる。離婚の文字を頭に浮かべた主人公がリズ・テーラーを思い出したり、ドジャースがまだブルックリンの人びとの誇りだったりした時代のアメリカ。百貨店で黒人がナイロンストッキングを買う事に好奇な目が注がれていた時代、ダンスフロアに「ジャッキー・ロビンソンの歌」が流れていた時代のアメリカだ。
年若い娘ならではの矜持や懼れ、自分をしっかり持っているようでいながら、流れに任せて自分を見失いがちな稚さがよく書けている。みなにちやほやされてすっかりのぼせ上がっていたアイリーシュが、母親も含めた田舎の蜘蛛の糸のように張り巡らされた情報網に絡めとられて身動きできなくなってゆく様子が、周囲の人間が善意であるだけに恐ろしく感じられ、かつての雇い主の悪意の奔出がかえって救いのように感じられてくる皮肉さなどほとんど秀逸とさえ言っていい。近頃目にした小説の中でいちばん面白く読めた。原書の惹句にいわく「出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語」である。
紙の本
今年いちばん
2016/10/24 21:48
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投稿者:さもさも - この投稿者のレビュー一覧を見る
アイルランドの田舎町に育ったアイリーシュは、働くためにアメリカはブルックリンに移り住む。未知の町で若い人生を謳歌する彼女がとある事情で帰郷したとき、そこに待っていたのは…
彼女と母親のやりとりが胸をえぐる。今年いちばんの本かもしれない。
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時は1951年から2年。舞台はアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークのブルックリン。主人公は、エニスコーシーで母と姉と三人で暮らすアイリーシュ・レイシー。英国からの参戦要請を拒否し、第二次世界大戦に参戦しなかったアイルランドは、戦勝国の好景気から見放され景気も雇用もぱっとしなかった。いくら簿記の成績がよくても、売り子ではなく事務職員として働きたいと願う若い娘の働き場所はなかった。ちょうどアメリカから帰国していた神父の口利きでアイリーシュはブルックリンで働くことになる。
ブルックリンにはアイリッシュ・コミュニティーがあり、神父の紹介で下宿先を見つけたアイリーシュは昼は百貨店の売り子として働き、夜は簿記の学校に通うことになった。異国の小さな同郷人の共同体の中での軋轢や階級意識に翻弄されたり、ホームシックに落ち込んだりしながらも、次第に新しい環境になじんでゆく主人公には、やがてトニーという恋人もでき、封切りしたばかりの『雨に歌えば』を見たり、コニー・アイランドに海水浴に出かけたりと、アメリカ生活を謳歌するようになる。
ところが、思いもかけぬ出来事が起こり、アイリーシュは一時帰国することに。トニーのたっての願いを聞き入れ、秘密に結婚式を挙げたアイリーシュは船上の人となる。用が終わればすぐに取って返すことになっていたアイリーシュを待っていたのは、故郷の人びとの思いもかけぬ歓迎だった。アメリカナイズされ、自信に満ち溢れたヒロインは、器量よしの姉に劣らぬ美人になっていたのだ。以前ダンスパーティーで無視されたジムは今ではパブの経営者になっていた。彼からの求愛に心揺れるアイリーシュだったが、かつて働いていた店の主人に呼び出された彼女は、そこで今まで秘されていた事実を知らされる。
働き者で、向学心に溢れ、周囲の人びとへの気遣いを怠らない主人公は、直属上司や下宿屋の主人に気に入られ贔屓される。好意の贈与は当然その見返りを要求している。自分はどう振る舞えばいいのだろう。内省的で自分の行為を振り返らずにいられない主人公の心理描写が卓抜で、読者はどうなることやらとはらはらどきどきしながら彼女の優柔不断ぶりにつき合わされる。コルム・トビーンという作家は初めてだが、美しい姉を持つ、年頃の利発な娘の心理を実に鮮やかに活写している。
今一点。第二次世界大戦後のアイルランドの田舎町とニューヨークのブルックリンという二つの対称的な世界を描き分けることで、生き生きした時代の雰囲気がよく伝わってくる。離婚の文字を頭に浮かべた主人公がリズ・テーラーを思い出したり、ドジャースがまだブルックリンの人びとの誇りだったりした時代のアメリカ。百貨店で黒人がナイロンストッキングを買う事に好奇な目が注がれていた時代、ダンスフロアに「ジャッキー・ロビンソンの歌」が流れていた時代のアメリカだ。
年若い娘ならではの矜持や懼れ、自分をしっかり持っているようでいながら、流れに任せて自分を見失いがちな稚さがよく書けている。みなにちやほやされてすっかりのぼせ上がっていたアイリーシュが、母親も含めた田舎の蜘蛛の糸のように張り巡らされた情報網に絡め���られて身動きできなくなってゆく様子が、周囲の人間が善意であるだけに恐ろしく感じられ、かつての雇い主の悪意の奔出がかえって救いのように感じられてくる皮肉さなどほとんど秀逸とさえ言っていい。近頃目にした小説の中でいちばん面白く読めた。原書の惹句にいわく「出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語」である。
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訳のせいなのか、それともアイルランド人と日本人に似ているところがあるのか、日本の女のコのお話のようなのだ。はっきり言えなくて、流されちゃうところなんかもね。
船酔いで吐いちゃうシーンなんか、生き生きとしてコミカルな印象。
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いい作品だった。
情景の丁寧な描写は、
映画的というか視覚的にイメージが膨らみ、
ちょっとノスタルジックな気分を感じた。
日常の細やかな心情描写もリアルで、
心理的な二項対立的葛藤の、
脱構築の過程の物語ととらえても、
面白いかもしれない。
(自分でもわけのわからん事を言っていると思う・・・笑。)
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1950年代にアイルランドからNYに渡った女性の数年を描いた小説なのだけど、もうめちゃくちゃ上手い!!描写がとにかく丁寧。
主人公を送り出す家族の思いや、異国に来てホームシックになったり、仕事や勉強するうち世の中のことを知ったり、恋愛をしてドキドキしたり、実家に帰って母親をうっとうしく思ったり、田舎から都会に出て一人暮らしをしたことのある人なら「そうだった、そうだった」と懐かしく切なくなること請け合い。
ストーリーも面白いけど、とにかくその書き方におおいに魅了されました。
これからこの作家は大いに注目しようと決めました。
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アイルランドからアメリカのブルックリンへ。田舎の家族から離れ、ひとり街へ旅立つ。きっかけがあり、帰郷。離れがたくなりつつあったが、最後はブルックリンの街へ…
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この本好き!2つの国と2人の男性の間で感情が揺れる、主人公アイリーシュの気持ちが抑えた表現から伝わってきたし、抑えた表現からは宗教だったり、社会的な雰囲気への静かな批判も込められてるような気がした。
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1950年代のアイルランドとブルックリンを舞台にした小説。田舎から華やかな都会に出てきた女性が、様々なものに出会ったり恋に落ちたりしていく様子が描かれている。ロマンス部分が女性にはたまらない。それ以外もしっかり骨太。
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シンプルな生活の素直な感情。 シンプルに見えるけど違うか。アイルランドからアメリカへ渡っても、その生活に浮つくこともなく。
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人が成長するということは、喜びが大きい分、かなしみや苦しみも受け入れていかなくてはならないということ。さまざまな場面で決断をしていかなければならないということ。この小説の舞台が1950年代であろうが、アイルランド人がブルックリンで生きていようが、人生を一歩一歩、ひたむきに、正直に、時には泣きながら歩いていく主人公のアイリーシュに大きな共感を覚える。
この先も、アイリーシュはいつまでも私の心のなかに生き続ける。彼女はいまごろ何を想っているだろうか。こんなときアイリーシュならどうするだろうか、とふと思い出すことだろう。
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こんな地味な小説(悪口ではありませんよ)をよく映画化したな。アイルランド系とイタリア系って全然違うように見えても、カトリックという共通項があるから、意外とくっつきやすいのかな。ローズが何故アイリーシュのアメリカ行きに熱心だったか、わかった。自分が元気なうちに妹に自由と可能性を与えたかったんだね。これからのアイリーシュの結婚生活に波乱が待つ予感が…。いずれ姦通小説のヒロインになりそう。ブルックリンにいればトニーがよく見え、アイルランドにいればジムに魅力を感じる。環境で人の心が変わる。アイリーシュが自分で自分の心を見極められるようになるには、まだまだ経験が必要だろう。これからが試練だな。
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なんでこの本をチェックしていたのか忘れたが、チェックしていた当時の俺を褒めたい。とても良い小説だった。
20世紀中盤、不景気で閉塞感のあるアイルランドに生きる若い娘が、アメリカブルックリンに職を得て生活する事になり、ようやくその生活にも慣れ仕事に勉強に充実した毎日を過ごす。そして恋人もできたころにひょんなことから帰省することになる。アメリカ世界で自らも知らない間に洗練された娘は、帰省した地元で人気ものとなり、かつてつれない態度をとられた男前に惚れられる、娘はアメリカに戻るのか?アイルランドに骨を埋めるのか?
というのがあらすじ、なんとも地味な小説なのだが、情景や心理描写が丁寧に書き込まれており、それを読むのが実に楽しいのである。
誠実だが優柔不断なところがある主人公アイリーシュ、彼女の生きる1950年代の閉塞したアイルランドと進取にとんだブルックリン(といってもまだまだ閉塞的ではあるのだが)の情景と、彼女の気持ちが鮮やかに描写されている。非日常的なドラマチックなことなんてほとんど起きてないはずなのに、活字を追う目が離れないのである。
原作の帯には「出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語」とあったというが、まさにそういう小説。出会えてよかった。
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なんて、なんて素晴らしい小説なんだろう。他の人の人生を歩ける小説が大好きです。アイリーシュがエニスコーシーからブルックリンへ行き、百貨店で働きながら大人になっていく過程(ここは簡単な言葉では語り尽くせないところ)も、マンハッタンの本屋に法学の本を買いにいってホロコーストのことを言われるところも、ローズが亡くなってアイルランドへ里帰りするところも、トニーのことをもう愛していないと気づくところも全部全部好き。こんなに好きな作家には久々に出会ったかもと思う。『ノーラ・ウェブスター』も良かったし、コルム・トビーンの作品を全部読みたいです。あとどう考えても翻訳が素晴らしいです。栩木伸明さんの翻訳している本を読んでいきたい。映画も良いって聞いたのでDVDを買いました! 楽しみ!!
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年末年始に向けてコルム・トビーン「ブルックリン」を。アイルランドの片田舎エニスコーシーに母と姉(父親はそこにいるのか今のところわからず)と住む娘が、町の(高級)食料品で働き出す、ところから物語開始。やがてタイトルにあるようにブルックリンに移住するみたいだけど。
(2019 11/26)
二度と戻ることのない、場所。
今のところ(昨日まで)、アイリーシュがアメリカ渡る直前のところまで。p37のアイリーシュの思考の流れは細かくて読みどころの一つ。
そして、この部屋、姉、それからこの光景全部を額縁に入れて覚えておかなくてはいけない、と考えはじめている自分に気づいた。
(p37)
考えているのに、最初は気づいていない、というこの一見矛盾しているような状態。その次の段落のアイリーシュの食卓を盛り上げようとする考えと、母や姉のその受け止め方がずれていることに気づいたアイリーシュの思考を追う読者もまた、一つの脆い壁みたいなのが崩れていくような、そんな印象。
続いて、p44から45のアメリカに渡る準備が誰か他の人のだったらいいのに、というところは、偶然に同じ日に読んだ、同じページ数の「地球にちりばめられて」の石像の場面と共通するものがある。
アイリーシュは、こうした物思いが次から次ヘと来ては去るのに身を任せてはいたものの、心が本物の不安や恐怖のほうへ雪崩れていきそうになると踏ん張った。この世界とさよならしなくてはならない、とか、なじんだこの場所で普通の一日を過ごすことは二度とない、とか、これからの人生は不慣れなものと戦い続けていくしかないとかいう思いに向かって雪崩れていく心を、なんとかして食い止めようとしたのだ。
(p45)
こういう食い止めようとする人間心理の発現は実は誰にでもあって、それへの対処法が人それぞれ違っている、というようにも考えられる。自分の場合は何かに過剰に自分を移入するのを避ける、とか、立ち止まらずに次々いろいろな場所、物を見ていくようにして窒息感を避ける、とか。英米系の小説家はこうした描写がオースティン以来細かくて巧みな印象があるが、トビーンもその系列に連なるものなのだろう。
(2019 12/06)
第一部読み終わり。最後はニューヨークへの船から降りる直前に、相客ジョージーナがアイリーシュに化粧をするところ。
こんなふうに化粧できるなら、知らないひとたちー一度は会うけど二度は会わないだろうひとたちーがいる中へ出かけていくのもずっと楽になりそうだ。でも、おしゃれが緊張を解いてくれるのは確かだけれど、別の種類の緊張をかきたてることもあるんじゃないかな。だってこんなふうに毎日盛装してブルックリンの町を歩いたら、本当とは違うわたしをわたしだと思われてしまうかも知れないからーアイリーシュはそんなことを考えていた。
(p71ー72)
本当のわたし・・・って本当にいるの?
ま、それはともかく、ここの文章、これ以降の物語の展開にも関わってきそうな感じ。事あるたびに参照しにいくような。
(2019 12/15)
第二部開始
他方、勤���を終えて帰宅し、夕食を食べてベットに入り、一日のできごとを場面ごとに総ざらえしてみると、今日こそ人生で一番長い日だったのではないかと思えてくる。いろんなできごとの細部がことごとく心に住みついている。無理矢理他のことを考えようとしたり、心を白紙に保とうとしても、その日あったことが勝手に心に溢れてくる。一日分のできごとをじゅうぶん反芻した後完全にしまい込んでしまうためには、もう一日たっぷりかかる、と彼女は思う。下手をすると夜一睡もできなかったり、夢の中で昼間の一瞬がさっとよぎったり、いろんな色や人混みが洪水になった意味のわからない一瞬がよぎったりする。そんなときは、何もかもがすごい速さで狂奔していくのだった。
(p81ー82)
結構長めの引用。
移民船、ブルックリンの下宿と同居人、人混みの交差点と一呼吸置いて歩き出すアイリーシュ…と細かな世相を描き出すところがこの作品の読みどころ、かつ歴史把握にも役立つ。
(2019 12/19)
第2部はアイルランド移民の溜まり場の教会での、炊き出しと老歌手の歌。クリスマスにちょうど重なって。
第3部はアイリーシュの部屋の引っ越しから始まる。半地下のこのアパート内では一番よい部屋へ。提案したのは家主のミセス・キーホーからだった。
ミセス・キーホーは突っ立ったままアイリーシュを見つめていた。自慢げなその目にはやさしさと悲しみも湛えられていた。アイリーシュはふと、この部屋のしつらえはミセス・キーホーの旦那さんがいなくなる前に整えられたに違いないと思った。
(p133)
不意に挿入されるアイリーシュの推理。どうしてそんなことを思えるのかが不思議なまま読み進めると、次のページには「世の中への根深い恨み」とか「その怨念を元あったところへ注意深くしまい直そうとしている気配」特に、アイリーシュがミセス・キーホーに読み取ったのが、なんかミセス・キーホーの過去の何かに辿ると出てくるような、そんな感じ。
でも、なんか引っ越しの話はまた別の理由があるみたいで…
(2019 12/26)
移民世相様々集積小説
アイリーシュは、老人が彼女に帰ってもらいたがっているのを感じた。彼女にはもはや、閉じてしまった老人の心を開くことはできなかった。
(p163)
ホロコーストを初めて知ったアイリーシュと、それを伝える書店の老主人。1950年代の設定だから、それから10年くらいしか経っていないわけで…
次の週、バルトリッチ百貨店からブルックリン・カレッジへ向かう道を歩いていたとき、アイリーシュは、いつも楽しみにしていたことを忘れている自分に気がついた。彼女は、故郷のさまざまなイメージをとりとめもなく思い浮かべるのが大好きだった。ところが今心に浮かぶのは、先週出会った男に迎えにきてもらい、ホールへ行ってダンスを楽しみ、帰りは家まで送ってもらうという、金曜の夜のイメージばかりである。彼女はどうやら、故郷への思いを心から閉め出すようになってしまっているらしい。近頃では、故郷のイメージが心に湧き出すのは、手紙を書いたり受け取ったりするときと、故郷の夢を見た後目覚めたときぐらいのものだ。さすがに夢の中には、父親や���親やローズや、フライアリー通りの家の部屋べやや、故郷の町のいろんな通りがあらわれた。
(p178ーp179)
アイリーシュは次に書く手紙ではローズに教えてやろうと思い定めたートニーはそういう人間ではありません。エニスコーシーと違って、ブルックリンでは人間の品性や気質を職業では測れないのです、と。
(p190)
この小説、移民を中心とした世相を知る手がかりとしてもなかなか面白いのだが、今日のところでは、アイリーシュがトニーの家に食事に呼ばれるところ。アイルランドとイタリアというどちらも移民の代表格みたいな民族の微妙な違い。アイリーシュはパスタをフォークだけで食べられるよう前もって下宿で練習している…ということはイタリアではそうなのか…なんだ、自分はイタリア流であったのか。一方、トニー兄弟(父母の代からブルックリンに移住してきたイタリア系)の末っ子フランクは、いきなり「僕たちアイルランド人嫌いなんだよ」と叫んで家族を困惑させる。なんでも兄(トニーの弟)モーリーがアイルランド人達に殴られたというのがその理由なんだけど、「赤毛で足が太いヤツらばかりだったよ」と民族ステレオタイプそのものの発言のフランクに対し、当のモーリーは「でも、皆赤毛で足が太いわけでもなかったろう?」と反論する…否定するのは、そっちかよ(笑)
(2019 12/29)
今年はエクスリブリス読み終え完了
というわけで、「ブルックリン」今読み終えた。昨日読んだところでローズが突然死し(本人は既に自分の運命を知っていて、だからその前に妹を送り出させたかったようだ)、一旦アイルランドに戻る。その時にトニーはアイリーシュに「行く前に結婚してくれ」と頼む。
第4部では、アイルランドの田舎町に戻ったアイリーシュがだんだんブルックリンやトニーのことを夢だと思っていく中で、母親とジム(第1部ではあまり好かれていなかったけれど、ここでは慎重に自制した好青年として描かれている)辺りでの様々に絡み合った策略?で、トニーを忘れジムと一緒になりそうになる。が、この小説冒頭に出てきた食料品店のミス・ケリーが実はミセス・キーホーと親戚でトニーとの結婚を知らせてきたということを知らされ、急いでニューヨークへ戻る。帰りに寄ったジムの家にそのことをメモした紙を挟んで…それを知ったジムとアイリーシュの母親との対話を想像するアイリーシュ…
そんなことを考えながらアイリーシュは、自分の顔に微笑みに似たものが浮かぶのを感じた。彼女は目を閉じて、それ以上想像が広がらないようにした。
(p335)
この文章で作品全体が閉じられるわけだが、微笑みに似たものとはなんだろう。今までのいろんな心理描写では描写の巧みさ繊細さには感心したものの、そういう心理状態そのものには素直にうなずけるものが多かった。でもここは…ひょっとしたら、ここの主語はアイリーシュではなくて作者トビーンなのでは?もしくはアイリーシュが自分の物語を少し距離を置いて物語作者がするように感じることができた、ということかも。
ちょっと前に戻ってもう一文。ローズの墓参りに来た場面。
死んでしまったひとびとが町はずれのこの場所に集まっている。ここにいるひとびとのことを生きている人間たちが覚えているのは、ほんのしばらくの間に過ぎない。季節がひとつ、またひとつと移っていくにつれて、記憶はしだいに薄れていくのだ。
(p323)
春が来て、夏が来て、秋が過ぎ、冬になる。こうした回帰していく季節をアイリーシュが思い浮かべるところが前にもあった。この小説の隠れ主題は時間とか季節では。あ、そうそうあと主題といえばニューヨーク、アイルランド双方に出てくる海の描写も。
この小説、映画化もされていて、ブクログからの情報によると映画と小説とでは結末を変えてある、とのこと。では映画の方はブルックリンには帰らず、アイルランドでジムと結婚するのかな。それとも…
(2019 12/31)
作者トビーンについて補足ほか
海の描写の例。第4部から。
小道の行き止まりまでたどりついて崖っぷちから下の海を見渡すと、とても穏やかでほとんど波が立っていない。水際に近い浜の砂は黒ずんだ黄色に見える。海鳥の群れが列をなして海のすぐ上を飛んでいく。海面にうねりはなく、低い寄せ波がほとんど音もなく砂浜に砕けている。水平線と空の境目あたりにぼんやりした靄がかかっているが、青い空には雲ひとつない。
(p296)
この小説の大きな構造ーアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークブルックリンとの、合わせ鏡的な対照構造ーによって、このアイルランドの海の描写も第3部のコニーアイランドの浜辺と向き合っている。そしてジムに婚約してほしいと告白されたこともトニーとの対比。作者は簡潔な対比構造で作品を極端に言えば戯画化しているようにも思えるのだが。
ブクログの誰かがしてたように、アイリーシュのその後でも空想してみようか。そうね、アイリーシュがトニーと一緒になって、それからずっと仲睦まじく暮らしましたとさ…とはやっぱりならないでしょうね。いろんな人に出会って、修羅場もいくつか。今回だって、結果的にみれば、ミス・ケリーに指摘されなければ事態は泥沼化してたことだろうし(アイリーシュはミス・ケリーに感謝しなければね)。でも、ジム含めた4人の写真を捨てずに荷物に入れてるところをみると、まあ、また(以下略)。
でも、そういうなんか流されてながらも、その時その時を観察し楽しみながら健気?に生きてくアイリーシュを、作者もおそらく読者も非難はしないでしょう。そしてアイリーシュ自身も。なんだか、アイリーシュの歳重ねておばあさんになったところを想像してみると、最初は口固いけど、誰かに聞かせる為にゆっくりしかしとめどなく、ひとつひとつ想い出をかみしめながら語っている姿が浮かんでくる。もしかしたら、こういう時のために、ジムとの写真を捨てていかなかったのでは。
…(にしても、個人的になんか自分の境遇と似たとこが多い小説だったな、家から出る、帰ってくる、姉の死、一人の母親…ホームシックは自分はなかったけれど)
で、ようやくトビーンについて。ここまで来てなんとなくわかるけど、彼はやはりこのエニスコーシー生まれ。他の作品でもこの町を登場させている。英文学やアメリカ現代詩をおさめたあと、バルセロナで英語教師をしてたり、アルゼンチンでジャーナリストしてたり。その所縁か、小説第1作はスペインが舞台。前にも書いた和訳のある第2作「ヒース燃ゆ」(伊藤範子訳、松籟社)ダブリン高裁判事が退職を控えて人生を振り返る作品、第3作はブエノスアイレスの同性愛者社会、第4作はエイズにかかった若者のエニスコーシー帰郷の物語、第5作がヘンリー・ジェイムズの晩年を描いたものでいろいろな賞をもらった出世作。で、第6作がこの「ブルックリン」。ここまで見てわかる通り、トビーン自身同性愛者。ノンフィクションものの著作も多く同性愛者芸術論なんてのもあるけど、個人的に興味をひくのが南北アイルランド国境徒歩紀行というもの。
(2020 01/01)