紙の本
16世紀にフランスで刊行され、世を震撼させた書です!
2020/04/10 10:58
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、16世紀にフランスで著され、支配者と被支配者の社会関係に潜む本質的な構造を明らかにしたことで世間を震撼させた一冊です。同書において著者は、いつの世にも圧政がはびこり、人々が隷従に甘んじているのはなぜか?という問いに対して、「圧政は、支配者のおこぼれに与るとりまき連中が支え、民衆の自発的な隷従によって完成する」という明快な分析と主張を行いました。そして、この思想は現代社会にも大きな影響を及ぼすことになりました。同書は、まさに当時としては驚愕の思考だったことが伺い知れます。
投稿元:
レビューを見る
「自発的隷従論」とはいかにもピンと来るタイトルだ。王権は民衆が隷従するからこそ成立する。人々は自ら好んで、権力に支配されることを欲する。
これはなんと、16世紀の、当時16歳だか18歳だかの若造(もしくは小僧)が書いた本である。あまり学問的でもない筆致だが、鋭いところを突いていることは確かだ。
著者ラ・ボエシの考えでは、人間は「自由」であることが自然である。この「自然」とは、どうやら、「理性」と等価であるところのものだ。なのに、人々はわざわざ「圧制者」の支配に自らを縛り付けるのであり、それは「習慣」によってつくりだされた「悪徳」である。
圧制者を陥落させるためには、人々がそれを支えなければいい。ラ・ボエシはこのような論調で、人間の「自由」を希求している。決して革命・反乱をすすめているわけではない。
「自由な人間」を強力に目指すという意味で、これは先駆的な書物と言えるのだろう。だが、やはり論が粗く、緻密な論理には欠けている。
「支配されることを自ら望む」という点では、確かに人間にはそのようなところがある。子どもたちの小グループにあっても、ジャイアンのような「強者」がいれば、周りの子どもたちはその権力を認め、(ある程度)従おうとし始める。ニホンザルのボスなどもそのようにして「支えられて」いるに違いない。
このようにして権力が成立するのは、人や猿が秩序ゲシュタルトを志向し、群れを意味ある「かたち=組織」として維持しようとする本質があるからだと思う。秩序ゲシュタルトが共同体にいったん形成されれば、それは外敵に対して、あるいは内部の逸脱者に対して強力な暴力を及ぼすことができるから、秩序内の個体は安全に暮らすことが出来る。
ただし国家規模にまで共同体が巨大化すると、支配者は人々の目に見えない遠くに隠れてしまい、社会組織の各器官は機械化し、硬直するから、個人と共同体の紐帯はどんどん壊れてゆく。すると暴虐な「圧制者」の出現が可能となる。
現実的には、ラ・ボエシが言うように「人々が支持しなくなれば圧制者の権力は消える」と簡単には行かないだろう。「人々(被支配者)」と支配者とのあいだには、強靱な夥しい機械組織が横たわっているのだから。
ラ・ボエシの本文は非常に短いものなので、巻末にシモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論が併収されている。
特にヴェイユの文章の末尾が印象的だった。
「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である。・・・同胞同士の闘争は、相互理解の不足に起因するものでもないし、思いやりの不在によって生じるものでもない。それはものごとの自然によって生じるのであり、根絶は不可能である。・・・自由を愛するすべての人にとって望ましいのは、そうおした闘争が消失することではなく、その暴力の程度がある限界のなかにとどまっているということなのである。」(P189)
このヴェイユの文章のおかげで、本書の読後感はとても深いものになった。
投稿元:
レビューを見る
とても色々なことを考えさせられる刺激的な本だった。読むことができて大変良かったと思う。
この本はとても素朴な疑問から出発している。なぜ何百人、何万人もの民衆が、数の上では圧倒的に有利なのにも関わらず、たった1人の圧政者に従うのか。
著者はその疑問を考察していき、本来自由なはずの人間が習慣の力によって堕落し、自ら自発的に服従を求めるようになるのだと述べている。
なるほど、と思う。
思うに、この『自発的隷従論』が説く帰結の一つは「権力は存在しない」ということではないだろうか。
国家の権力なるものは暴力だとか社会契約といったものに起因するのではなく、ただ人間が生まれながらにして(あるいは習慣として)持つ「服従したい」という欲望によって生じる。
この本でボエシ(執筆当時まだ10代だったそうだが)が主張していることは権力から社会秩序を考えるのではなく、服従を求める人間の欲望が社会秩序を作る、という発想につながるのではないか。
だから権力にはいかなる実体的な内実も無く、ただ人々が服従することをやめるだけで「土台を失った巨像のように、みずからの重みによって崩落し、破滅」(P.24)するのだ。
そうすると、人間の「服従を求める欲望」はどこからくるのか、というような疑問も湧いてきて、西谷修がこの本のあとがきで、人間が言語を使うということ(言語というルールに従うこと)にその原因があるのでは、というような事を述べているのも面白い。
本の内容から派生して、色々なことを考えさせられた。
いい本。
投稿元:
レビューを見る
16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない」というのに!
ラ・ボエシによれば、まず、自然状態ではあらゆる人間は自由であるとする。個々人の知性や体力はもちろん平等ではない。だが、そうであるからこそ、お互いを「友愛」の精神にて連帯・扶助し合わなければならないはずで、本来、他者を隷従させる欲望は持っていないはずである。にもかかわらず、人は「ことばが名づけるのを拒むような悪徳」=自発的隷従を選択してしまうのだという。
「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。」
そして、ラ・ボエシが考えた自発的隷従の第一の原因は「習慣」なのだという。長い間そう信じ込まされることにより、隷従は自然なものだと考えてしまうということだ。
次に圧政者側の詐術も指摘する。その支配を持続させるために圧政者が提供するものとして、「遊戯」「饗応」「称号」「自己演出」「宗教心の利用」を挙げる。「圧政者どもは、おのれの地位を確固たるものとするために、民衆を服従の、ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を崇拝するにいたらせるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。」
最後に、圧政者のおこぼれにあずかる数人の家臣の存在を指摘する。数人の家臣はさらに十人ほどの手下を優遇し、さらにその手下は・・・というように利益のうま味に群がる末広がりな「小圧政者」の群れがこうした支配構造を支えるのだとしている。
しかし、こうした圧政者どもは絶えず身の危険に怯え、他者との友愛関係も持てない孤独な存在であり、小圧政者にしても絶えず上の顔色を窺い気持ちを忖度していかねばならない境遇であり続けるため、全く幸福ではないと切り捨てている。
ラ・ボエシはこのように「自発的隷従」が発生する理由を鋭く洞察するのであるが、解説のスタンスとは逆に、自発的隷従への軽蔑と圧政者(支配者)への強烈な嫌悪感を露わにした煽動的な小論になっているように思われ、実際、支配者側からは過激思想として扱われ続けてきたような気がする。「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の��だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
ただ、牧歌的にせよ、大いに傾聴するべき提言ではあるのだが、事例が古代ローマやギリシアなどの事例に(たぶん)意図的に限定していることといい、特に自らが属し、後に役人ともなったフランス王国と国王へのおもねりの文章については、これは同一著作内の文章か!?と見まごうほどの掌返しぶりであり(笑)、いかにラ・ボエシの論旨が楽観し過ぎであり、現実に適用しづらいものであるかを身を持って示しているのではないだろうか。(笑)
だが、こうした時代的制約を踏まえてもなお、本書が展開する素朴ではあるが人間の「自由」を追求する考察は、今後もなお引き継がれていくべきであろう。
本著作にはその真意を巡る評論や本歌取りの論文が多く存在するとのことで、本書でも懇切な解説やあとがきとともに、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論も併録されている。
シモーヌ・ヴェイユの『服従と自由についての省察』は、服従するものがそれを覆そうと一致団結する姿を見ながらも、その瞬間は長続きするものではなく、また、人間の精神は信じられないくらい曲がりやすく他人の影響を受けやすいとした上で、人間の生における高貴な部分(思考、愛)は社会秩序にとっては有害なものであるから、社会秩序はそれを絶えず排除しようとするが故に本質的に悪であるが、全体善を否定することもできないので、あえて言うなら自由を愛する人々は闘争の火だけは消さないようにとの希望を込める静かだが熱のこもった評論になっている。
ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』は、「災難」とは「国家の誕生」のことであり、そのような「歴史」を誕生させてしまったがために「区別」=「隷従」関係が発生し、人間を脱自然化してしまったとした上で、人類学の視点から、南米の先住部族では支配・被支配関係を成立させない原理を働かせている事例を挙げて、「区別」のない人間関係の可能性に言及する力のこもった評論である。
巻末の解説もそうであるが、どうもラ・ボエシのこの小論は、各人が直面している「自由」への想いを触発する書であるようだ。
投稿元:
レビューを見る
人はなぜ、自らを害する者にわざわざ自分から従ってしまうのだろう。
という疑問をつきつめて考えてみた500年近く前の若者の論文。
「なぜ」よりも「どのように」が近い。
君主はどのように振る舞い、民衆はいかにして隷従するか。
見えるものをただ書いただけ。だから今にも通じてしまう。
ラ・ボエシは革命を志したわけではなく、この書でなにかをなそうとしたわけでもなく、本当にただ「ああもうそこなんで自分の首絞めさせちゃうのさ歴史に学べよ!」と、思ったことを書いただけっぽい。
親友のモンテーニュはこれを扇動に使われることを恐れ、後の人々は自分の状況を投影して革命の勇気にしたという。
この本に添えられている解説と二つの論文も、やっぱり自分の今の場所に合わせてこの書を使っている。
本人がどんな意図で書こうと、これはアジテーションに使いやすい文章だ。
この文章に鼓舞されるのは、無自覚に隷従する人達ではなく、「もう嫌だ、変わりたい」とすでに思っている人たちだから、革命前夜に投下すれば起爆剤になる。
隷従を防ぐためためではなく、打ち倒すときに力を発揮する。
「自由なんて欲するだけでいいのに。自らを差し出さないだけでいいのに」という憤りやもどかしさは、すごく理解できるけれど傍観者のものだ。
自ら隷従してしまう人たちを変えたいなら、寄り添わないと変われない。
あとがきには「グローバル化した現代にも通じる」とあるけれど、私はむしろもっと個の話を投影した。
この文章の中の「なんで」は、未熟な支援者がDVやモラハラの被害者たちに感じてしまうもどかしさにとてもよく似ている。
散々大衆の愚かさを嘆きつつ自分は自分のところの王様を賛美しちゃってるあたりの矛盾も。
自分のくみしない勢力に利用されないためだとしても、論理を犠牲にしてしまっているは残念だ。
文章がものすごく読みやすい。
外国の古典は「翻訳」と認識して読むから「現代語訳」であることを意識せずに読んでしまう。
訳者はこの論文を研究してコツコツ読んできた人だそうな。
機械的に言葉を変換するだけではなく、きっちり中身を精査して丁寧に現代日本語にあてはめてくれる。
平易な文章を心がけたという言葉通り、こんなに古い文章を気負わず読めるのはとてもありがたい。
投稿元:
レビューを見る
勢いでもって論じられる、根拠もない正論。
そこに根付くのが正義だ。
惰性と習慣は紙一重であり、自覚的にならない限り、そこからの脱却は困難を極める。いや、たとえ自覚したとしても。
投稿元:
レビューを見る
ヴェイユ読み返した後だからかもしれないけど別に読まなくてもよかった感が・・・。ヴェイユが影響受けたらしいけど。ていうかヴェイユの省察が読みたくて買ったんですがね。本編よりも自分的には収穫あった。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
なぜみずから屈し圧政を支えるのか。
支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。
シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20世紀の全体主義について論じた小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。
[ 目次 ]
自発的隷従論(一者支配の不幸;多数者が一者に隷従する不思議;自由への欲求が勇気を与える;自由はただ欲すれば得られる;民衆は隷従を甘受している ほか)
付論(服従と自由についての省察(シモーヌ・ヴェイユ)
自由、災難、名づけえぬ存在(ピエール・クラストル))
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
投稿元:
レビューを見る
その刺激的な題名と、書かれた時代(16世紀末)とのギャップから受ける印象を全く裏切らない刺激的な内容は、その平易な訳と相俟って、強いメッセージ性を帯びたもので、一気に読み進むことが出来た。
又、本書の約半分を占める解題や解説は、その内容を読み下す助けの役割を十二分に果たしており、この手の重い本にしては極めてコンベンショナルな内容であった。
時代は全く異なるが、かつて大学で学んだ黒人文学の中で接した「リロイ・ジョーンズ (LeRoi Jones)」の詩に、極めて似た内容の詩があるのを思い出した。
『奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。(後略)』
中世の若き法官と1960年代の黒人文学の交錯は、私の中ではとても刺激的な出来事だった。
投稿元:
レビューを見る
主君が複数いてもなにも良いことはない。
たった一人のものでも主君という称号を得た途端に、その権力は耐え難く、理を外れたものになるのだから、ましてや複数者による支配など良きものであるはずがない。
しかしオデュッセウスはここに付け加えた。
頭でも王でもたった一人が望ましい。
冷静に考えれば一人の君主に服従するのは不幸の極み。彼らの権限でいつでも悪人に変われる。
権力者は何人であるべきか=組織分割サイズの問題
隷従者は強制されているだけではなく、一者の名に幾分か惑わされ魅了されて軛の下に首を垂れている。
自発的隷従は特にそこに君主への敬意を伴っていない場合の責任転嫁として用いられている。君主制のタイプはあと2つはある。実際に敬意が伴っている師弟タイプ。そして敬意がなくなったときに革命に変わるポテンシャルタイプ。これが民主制に移行する。
自発的隷従の原因は習慣。
過去の事柄を回想することによって来るべき時代の事柄を判断し、現在の事柄を検証する。もともと優れた頭を持ち、学問と知識で磨きあげた。
圧制者の元では行動や言論はおろか思想の自由も完全に奪われる。その場では上記の人もバラバラになってしまっている。自由が失われると勇敢さも失われる。卑屈で無気力に。
圧制者の詐術
ー自己演出
ー宗教心の利用
ほとんどの圧政者はたいてい彼らの最も気にいった連中によって殺された。この連中は圧政の性質をよくわきまえていて圧制者の好意など当てにできないと考え、その力に警戒心を抱いた。
圧制者には友愛はない。善人同士、互いの尊敬によってしかうまれない。ある人がある人の確かな友となるのは相手の公正さを認めることによって。保証するのはその人の自然の善良さ、信念、誠実さ。彼らは友愛を与え合うのでなく互いに恐れあっている。友人同士でなく共謀者。
友愛は片足を引きずるのを好まず常に左右の均衡を保つ。
これに対して圧制者のお気に入りたちは決して主君を信頼しない。連中は耐え忍んでいる悪への不満を圧政者でなく自分の直接の支配者にぶつける。
投稿元:
レビューを見る
西谷修氏の解説『不易の書『自発的隷従論』について』の中に「一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。」とある。これは、中国や北朝鮮や日本など国家だけでなく、企業や各種団体などあらゆる集団に当てはまる。多くの人が自分は他者より利益を得ていると感じるから隷従に甘んじているのだろうか。目を覚まさないと。
投稿元:
レビューを見る
ルールやシステムを再検証する際の視点、フィルターとして有用であると思う。忘れがちな、或いはスルーしがちな観点であることは確かだと思う。が、同時に、この視点で点検されるべきものは、中共であるとか北朝とか、各省庁の事務次官以下であるとか、閉鎖的な地方議会の首長以下であるとか。その問題点を色濃くあぶり出すのに役立つだろう。しかし、際限なく適応できる危うさがあり、あくまでもひとつの有用な観点という感じ。
投稿元:
レビューを見る
さすがに古典という感じを受けた。わかりやすい言葉だが読み方はおそらく難しく、読み手にとって都合のいいフレーズだけをつまみ食いされることも多いだろう。それだけでもパワーを持つというのが、古典の力か。
投稿元:
レビューを見る
【由来】
・これもMediaMarkerの「近代の呪い」からのamazonでの関連本。
【期待したもの】
・例えばフーコーのパノプティコンとか、その辺に通底していると自分で感じているもの。ミルグラムとかも。
※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
・
【ノート】
・
投稿元:
レビューを見る
自発的隷従論 ポエシ ちくま
公務員でありながら
客観性に飛んだ人間論を持った人によって
1500年代に書かれた稀有な本だ
人の本質には個としての自律心と
全体の一部としての依存心が共存しているのだろう
そのどちらが表面化するかによって
生き様が変わるのだけれど
自主的参加による集いから
余剰生産物の到来による社会の肥大化で
個人が組織に飲み込まれて以来
主従関係が蔓延することになる
そこで生み出されたのが
奴隷と戦争に支えられたギリシャにおける
民主主義モドキの貴族社会であり
このボエジの本である
つまり赤ん坊が親と環境に依存すると同時に
自由奔放に自己を表現するように
人間は本来冒険を愉しむ為に生まれてきた筈なのだ
主従という依存心に溺れるのは
生産物の奪い合いがもたらした物質文明の成せる業
お互いに競争原理の矛盾に気付き
信頼と切磋琢磨による調和を求めて精神性を取り戻そう