父渋沢栄一 （実業之日本社文庫）

投稿元：

レビューを見る

道徳なくして経済なし！四つの時代を駆け抜けた近代日本経済の父は、こんな意思決定をしてきた。公益を追求した実業家の軌跡を、翁の四男・渋沢秀雄が語る。

投稿元：

レビューを見る

「これからの実業はどうして経営してゆくのがよいだろう？」 　むろん栄一は持論の「合本法」を持ちだした。事業は国利民福を目標とすべきものだから、大衆の資金を集めてうまく運営し、利益を衆に帰さなければならないという説だ。すると岩崎はこの四角四面な理屈に反対した。
合本法などは、船頭多くして舟山へ登るの類だ。事業は才腕ある人物が専制的に経営しない限り、うまくゆくものではない、というのである。そこで栄一は、才腕ある人物に経営を委託するのは当然だが、その経営者がいつまでも事業や利益を独占するのは間違っていると反対した。しかし岩崎はそれを理想論に過ぎないといって、飽くまでも専制主義的な独占論を主張したあげく、栄一にこう呼びかけてきた。
「キミとボクが堅く手を握り合って仕事をすれば、日本の実業界は二人の思う通りになる。そこを見こんで今日はキミに来てもらったのだ。堅苦しい理屈は抜きにして、これから何事も二人協力してやろうじゃないか」。
栄一は岩崎の真意が自分の所信と 対蹠的 なのを知って、一層激しく反対した。同時に岩崎も栄一の説をネジ伏せようと力説する。
とうとう二人は猛烈な論争を始めたので、一座もシラケわたった。と、栄一は突然席を立って、そこに居合せた馴染の芸者に目くばせすると、そのままいっしょに柏屋を出てしまった。あとでそれと知った岩崎が、栄一の失礼な「ドロン」に腹を立てたことはよういに想像できる。
「苟も株主から選ばれて会社経営の局に当る者は、名誉も資産も 悉く多数から自分に 嘱托せられたものと言ふ覚悟が無くてはならぬ。そうして之に自分の財産以上の注意を払はばならない事は勿論であるけれども、又一方に於て重役は常に会社の財産は他人の物であるといふ事を念頭に置かなくてはならぬ。一朝自分が株主から信用を失った場合には、何時でも其会社を去らなければならないといふ覚悟が必要である。（中略） 　
然るに世間には監査役とか取締役とかいふ虚名を買わんが為の手段として、顔を出して居る 所謂 殿様重役なる者がある。其浅薄なる考えは寧ろ 憫笑 に堪えたるものであるけれども、希望の小さい代りには罪も無い。次に自分は 左 程 悪心も無いけれども、其事業を経営して行くだけの器量が無い。則ち自分の使用して居る人物の善悪を識別する能力が無い。
監査する眼識が無い。それが為に知らず知らず誤られて、 竟 に救う可かざる窮地に陥れられる者がある。 所謂 デモ重役というので、前のに比べると 聊か罪は重いけれども何れも自動的悪意に出たものでは無い。然るに（中略）其会社を利用して自分の栄達を計る踏台にしやうとか、私利私慾を計る機関にしやうとかいふ事になって来ると、実に許す可からざる罪悪と云はなければならぬ。成るべく株を高くして置かぬと都合が悪いなどといふ意念から、無い利益を有るやうに偽って配当する。又事実払込まぬ金を払込んだ様に装うて其株主までも 瞞着 しやうとする。此等は明かに詐欺の行為である。甚しきに至っては会社の金を流用して投機をやる、之は明らかに窃盗の行為である。（中略） 　それから日糖問題に就て私の立場を明かにするならば、酒匂といふ人はもと阪谷の紹介で会社に入れた人である。（中略）磯村とか、秋山とかいふ人達にばかり任せて置いたのでは危い、誰か適任の社長はあるまいかと私から阪谷に相談した。処が阪谷が、（中略）紹介してくれた。其処で私も（中略）酒匂君を信じて居たのであるが、それが 抑 も私の不明であった。酒匂君は案外計算の事に 疎い人であった。即ち計算上の事に関しては極く軽く云へば呑気な人、悪く言へばボンヤリした人であった。（中略）此点に於ては私は飽く迄も不明の罪を免れ得ないものである。
磯村、秋山などといふ人は、（中略）初から非常に善い人であるとは信じ得なかった。酒匂君の話によると、磯村は一種義俠心のある男で、道理至極な事ばかりして居る人では無いけれども、悪事はしそうも無い人であるといふ観察であった。此辺の人は何れも故意に悪事をするのでは無い、けれども利益配当を好くしやうといふ目的から、（中略）無理に計算を誤魔化したので、之は詐欺の行為と言はれても仕方が無いのである。（中略） 　其後に至って磯村と秋山とが国会議員の運動をする（註　自ら国会議員になって砂糖官営運動をやろうとした）といふに際しても、私は其不心得を訓して、トウトウ磯村
させた。 　それから去年の十一月、瓜生君が監査役として計算を 審 かにした結果、八十五万円の大欠陥を発見すると、酒匂君は辞表を出すと言い出した。私は大に酒匂君を責めて、君の今の境遇は飽くまで会社の為に整理を計って行かねばならぬ。二年間社長として平気な顔で勤続して来たものが今此危急に際して辞職しようと云ふのは、船長が船を暗礁に乗せて置いて、自分だけボートで 遁 れやうといふのと同じ事である。（中略） 　といふて、酒匂君一人を責めるのは無理である。酒匂君の外に、取締役として 馬 越 恭 平、 渡辺 福 三郎 などといふ人も居る。此等の諸君は計算上の知識ある人として世間に信用を得て居る。（中略）然るに昨年になって馬越君と酒匂君とは頻りに計算の事を心配して、最早会社を棄て去らうと云ふ意を 仄かした。其処で私は二人を二度ばかり喚んで、（中略）今出るといふのは余り卑怯であると厳しく責めた。其処で酒匂君は思い止ったけれども（註　結局辞職した）馬越君はどうしても私のいふ事を聞かなかった。 　世間では、私が世間の信用を 濫用 して 妄りに多くの営利事業に顔を出すといふて攻撃する者もあるやうであるけれども、それは実に酷薄な仕打である。何となれば渋沢が経営し、渋沢が相談役になって居るから、 仮令、不正な事があっても渋沢がどうかして呉れるだろうといふ依頼心を持つのは心得違である。其心得違を責めずに唯渋沢が関係して居るのが悪いといふて攻撃するのは実に残忍な仕打と云はなければならぬ。私は（中略）相談役になれと云へば承諾する。社長を推薦せよと云へば推薦もする。然しながら相談役位のもの、そんな些細な点まで分ると思ふのが 箆 棒だ。
自分の都合の好い時ばかり引張出して置いて間違が起ると、渋沢それ見ろといふて詰問する。大きなお世話だ、馬鹿を云ふなと云ひ度くなる。或は私がやったればこそ未だ其害が少いのかも知れない。（中略） 　又、世間に日糖事件に対する責を引いて実業界を退けといふ勧告をするものもあるけれども、私は此の際断じて隠退しない。