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商品説明
ペットの寿命。死後の世界について。宗教が果たす役割。戦争や大量殺戮が起きる理由。殺人事件はなぜニュース・バリューを持つのか。細胞不死のメカニズム。人生で残された時間の量…etc.etc。煩悶を繰り返すドキュメンタリー作家が、死に関する様々な事象に想いをめぐらせ、考察し続けた二年半の記録。森達也版“メメント・モリ”。【「BOOK」データベースの商品解説】
ペットの死。死後の世界について。宗教が果たす役割。戦争や大量殺戮が起きる理由…。煩悶を繰り返すドキュメンタリー作家が、死に関する様々な事象に想いをめぐらせ、考察し続けた2年半の記録。森達也版「メメント・モリ」。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
森 達也
- 略歴
- 〈森達也〉1956年広島県生まれ。映画監督、ドキュメンタリー作家。映画「A2」で山形国際ドキュメンタリー映画祭審査員特別賞、市民賞を受賞。著書に「ぼくの歌・みんなの歌」「死刑」など。
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紙の本
ハードルはどこまで低くなるのか、その時私は?
2008/11/10 09:28
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:空蝉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
毎度タブー視されがちな問題に切り込む森氏だが、今回は誰もが必ず辿り着く「死」がテーマだ。氏の公私踏まえた日常にチラチラと影を見せる死、それは飼い犬の話しであったり取材先タイでの出来事だったり、本の些細な日常茶飯事に潜んだものだったり・・・時も場所も選ばぬコラム集といった感じだが、なといっても死はいつどこで降りかかるか解らない絶対不可避のイベントなのだ。これでよいのだろう。
自殺に他殺、自死(アポトーシス)に壊死(ネクローシス)、事故死に自然死・・・様々な形が死にはあるが私たちの脅威となるのは故意の死だ。
自殺に他殺に殉死etc。故意の死を迎えた(与えた)彼らは死へのハードルが低いのだと嘆かれる。つまり死は飛び越え乗り越える障害物であり、逆に言えば可能とするための条件が彼らには備わっていたということになる。
ハードルを飛ぶためのスピードや筋力に代わる、死を乗り越えるための必要条件、それは覚悟、思想、宗教、哲学・・・なのかもしれない。
しかし私たちはどうだろう?この中途半端に平和ボケした日本で、条件を揃える努力をせず、死のハードルを低くすることで温く日々を過ごしているのではないか。
死というハードルに対峙しどう向き合っていくべきか、常に問い続けてきたはずの人間の歴史は、この日本で急激に崩壊している気がしてならない。
森氏が本作の中で幾度となく警告しているのは、敵や不安に怯えた集団心理と、その不安から逃れるために求め配信されたメディアによる単純化した報道と、そうして引き起こされる集団恐怖による暴走(スタンピート)だ。
「自らの死へのハードルの低下は、当然ながら他者の死へのハードルをも低下させる。・・・オウムのポアだってこれに該当する」
死へのハードルだけではない。リアルな世界のリアルな出来事への敷居を低くしてはいけない。どんなに高くともどれほど恐ろしくとも、個々がそれらに向き合い手探りで掴み取らなくてはならないのだ。なにしろ私たちは既に、そこに立って暮らしているのだから。
本書は少々こじつけに思えるくらい関係ないところから「死」を引っ張り出してきている感じもあるが、それでもいい。死は日常にどこにでも存在しうるのだというその事実を、本書はその構成自体をもって証明しているのだから。
紙の本
「死」を思うところから始められるエッセイ集
2008/09/09 11:38
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2004年9月から2007年2月まで『月刊J-novelに連載された、「死」をテーマにしたエッセイをまとめたもの。なぜ死をテーマにしたのかは、連載第1回分「さよなら、ゲンキ」の終わりに
「ラテン語で「死」は「モリ」と言う。メメント・モリ。死を想[おも]う。重苦しい。なぜよりによってそんなテーマを、と思われるだろうな。うん。僕もそう思う。思うけれど仕方がない。死は排除したいけれど、現実にそこにある。見て見ないふりはしたくない。平和を願うためには戦争を思わねばならない。この世界の豊かさや優しさを実感するためには、貧しさや憎悪から目を逸[そ]らしてはいけない。
だからメメント・モリ。これがこの連載のテーマ。」
とある。つまり「よりよく生きるためには死を思わねばならない」というのをやろうとしている。(でもそんなに、収録されているエッセイの全部が全部「死」をテーマにしているとも言えないと思う。)
今までの生涯において飼ったさまざまなペットたちとの関わりや、彼らの死のことを思ったり、TV報道における「死」の伝えられ方を思い、そこからニュースやワイドショウの内容・切り口の妥当性について思いを馳せたりもする。一方、役者から映画監督を経て、いま「売文家」として生計を立てている自分自身の変遷を思ったりもしている。かと思うと『歎異抄』第十三条を引き、自分で現代語訳したうえで「警戒すべきなのは外なる悪ではなく内なる善なのだ。」とまとめる回もある。
死を思い考える中で、思考は死から遠く離れた地点にまで自由に飛んでいくことがある。そのときはそのように語れば良い。そう言いたげである。
言われてみればその通りだ。全然関係のないことを考えているうち、いつの間にか「死」について考えていることもあるし、逆に「死」について考えているうちに全然関係のないことを一生懸命に考えていることもある。死は個人の思考の中では全然タブーではない。ならば、このように「死」を自由に考えるのもアリである。