紙の本
もっと本書が読まれれば、大地震への備えが進むのでは
2012/04/12 21:36
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災のあと、阪神大震災の記録が気になった。本書は、小松左京氏が95年から96年にかけて毎日新聞に連載したものをまとめた本だ。阪神大震災をふりかえるには十分な内容になっている。当時の行政や消防、メディア、自衛隊などの動きを克明に記録しているのだ。おそらくここまで、詳細に記録したものはないのではないか。
地震当初は、淡路島北端の野島断層が動いたことが分からず、なぜか名古屋・岐阜から東海地方にかけての震度が報道される。地震が直撃した神戸の震度が7になるまでに3日を要したという。通信手段がまるごとダウンしてしまうと、被害の状況が伝わるのに時間がかかるのだ。また、東京の視点で扱われるので、大きな被害を生じているのに、いまひとつ東京のメディアや行政は反応がうすい。
そうした点は差し置いても、阪神大震災の被害が局地的であり、かなりむらがあることが強調される。建物がいくつも倒壊している場所から少しはなれたところで、意外にも被害がないことが報告される。これは直下型地震の特徴として、把握しおいた方がよさそうだ。自分やその周りが大丈夫でも、2km先では救助を求めている可能性がある。
それにしても痛感するのは、阪神大震災の教訓がいまに伝えられていないことだ。災害時の初動が鈍いこと、大地震など来ないという思い込みがあったこと、万一の時の備えが不十分であること、阪神大震災も千年に一度の地震と言われたこと、などなど。次から次へと、東日本大震災のことを言っているのかと思える記述が続く。
地震学もたいして進歩していないのではないかとさえ思えてくる。局地的すぎて、この震災の意味を受け止め損なっていたのだろう。もっと阪神大震災のことを理解していれば、東日本大震災の被害は少し小さくてすんだのかもしれない。
読み終えての発見は、ビルの途中階がつぶれてしまう現象が説明されていることだ。ビルは横揺れに対してはゆらいである程度耐えるが、縦揺れに関しては、その力を逃すことができないからだということだ。最新の知見は、知らないが、当時の知見での説明がなされている。
東日本大震災のあと、免震構造のタワーマンションなどが人気を集めているというが、阪神大震災のような縦揺れにも強いのだろうか。ちょっと慎重になった方がよさそうだ。
この本にも出てくる大阪の埋め立て地にあるWTCビルは、免震構造を備えた近代ビルとして紹介されている。最上階に近いところにバランサーが備え付けられているという。しかし、東日本大震災のとき、震源から数百キロ以上はなれたこのビルが2.7mの幅で揺れて、壁などが壊れた。つまり、長周期の横揺れでも、被害を出してしまったのだ。果たして、東京や名古屋にあるような高層ビルは、大地震にどこまで耐えられるのだろうか。少し怖くなった。
本書にも、少し原子力発電のことが出てくる。原発は地震に神経質であると書かれている。このときから、安全神話を守り抜くために、非常にガードが堅かったことがわかる。やはり、95年の時点で、原発の危うさに気づいておくべきだったのだ。少なくとも、情報が開示されず、どのくらい危ないのかも分からないまま、これまで運転されてきたことを。
こうした本が、今からでもいいので広く読まれて、次の大地震への真剣な備えのきっかけになるとよいのだがと思わずにいられない。
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もっと読もう!
2024/03/06 20:03
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投稿者:TAROLEB - この投稿者のレビュー一覧を見る
何故か購入してからずっと積読に。4年近く暖めてしまって、何故もっと早く読まなかったのか、深く反省しました。阪神淡路震災の際は大阪にいて、あの激しい揺れにベットの上でなす術もなく、ひたあた何かにしがみついていました。直後の惨状に関連する本や報道を意識的に遠ざけたのかも。本書では地震のメカニズムや地震系等の不備、地震予知の現状(おそらくこの点は今ではもっと進んでいるのでしょうが)、などが小松左京の観点で追われています。かつての震災から何か学んだのか、これから来る地震に耐えられるのか、焦燥に駆られました。
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小松左京氏が、1995年に私たちが直面した阪神淡路大震災の記憶を風化させないために祈りを込めてその全貌を記録された貴重な書です!
2020/06/25 09:05
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、昭和から平成にかけて「SF御三家」の一人として大活躍され、また『日本沈没』などの社会に警笛を鳴らす作品なども多く発表されてきた小松左京氏による一冊です。同書は、私たちが直面した阪神淡路大震災の記憶を永遠に風化させずに私たちの心に留めなければならないという強い責任感をもって、震災の全貌を相互的に解析して書き綴られた貴重な記録です。同書の構成は、「第1章 1995年1月17日午前5時46分52秒」、「第2章 全貌を把握するために」、「第3章 再生に向かって」、「第4章 21世紀の防災思想へ」となっています。
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小松左京さん
2018/12/06 07:19
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投稿者:おどおどさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
阪神淡路大震災の経験を綴られたものだが、この後、東日本大震災の後に亡くなられたな。
亡くなられた頃は原発事故問題が議論されていた頃で、誰かが小松左京さんの意見を聞いてみたかったといっていた。私もそう思う。
この記録も読んで、今一度あの時を考えてみたい。
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小説家による記録が、これほど力を持つとは。東日本大震災にも、同様の記録が欲しい。映像の記録だけでは拾いきれないものがあることを実感。
恥かしい話だが、これを読むまで日本の地震に2種類あることを実感できていなかった。内陸性の地震と海溝性の地震では、対策が全く違う。内陸性の地震は直下型・縦揺れ・大きな揺れ対策、海溝性の地震は海洋性・横揺れ・津波対策、である。つまり今回の震災を受けて津波にばかり目を向けてはいけない。東京で問題にすべきはむしろ液状化とタンク爆発とビル倒壊。
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今だから読む小松左京の「大震災'95」
1995年の4月1日から1年間に渡って毎日新聞の紙面に連載した阪神淡路大震災に関する渾身のルポルタージュ。
当事者として被災した「日本沈没」の著者が、地震直後から翌年の4月まで、誰が何を出来て何が出来なかったのか、そしてこれからも確実に来る巨大地震や災害に対してどのような準備が必要かを丁寧にレポート。新聞紙面の連載という条件から1日分1日分の稿が完結で判りやすい。
2011年の東日本地震について、これほど丁寧なレポートを書くことが出来る人がいるだろうか。是非これに匹敵する仕事を誰かにやってもらわなくては。
そして、16年前に指摘された事が、16年後に解決できていたのか、そのままだったのか、それらをきちんと検証すべきだろう。
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−「日本沈没」という作品を書いておきながら、関西に大地震が起こることなど考えていなかった、勉強が足らん−執筆の動機がこういうショックからだったということ、被災から一年間、辛いときも休まず連載されていたこと、まずこのことがとても胸を打つ。これほど、社会のなかの作家としての立場に自覚的で、優れたルポルタージュの書ける人がいまいるだろうか。
忘れないこと、風化させないことが何より大切だと痛感させられる。東日本大震災から一年あまり経ったいま、この本が復刊された意義は大きい。
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自衛隊の出動までどれくらいの時間がかかったのか、全貌を把握するまで遅くなかったか。色々な教訓がこの本には散りばめられている。あの頃と比べて現在はどう変わったのか。3.11の本も読んで比べてみる予定。この当時は「阪神大震災以後西日本は地震の活動期に入る」という予言が為されていた(註にある)。それが外れたのも留意したい。あとがきにある、小松左京が感じた責任感みたいなものの話が興味深い。日本沈没のような話を書いているから、目の前で起きたこの大自然災害を書かなくてはいけないと思った…作家の魂を思う。
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一応タイトルに“’95”と付いているので、
ここで言う『大震災』とは、
東日本大震災ではなく、阪神淡路大震災で
有ることはわかると思う。
しかし、この阪神淡路大震災が、この度の
東日本大震災に与えた影響は少なくなく、
この時の教訓で修正・整備された機材や制度により、
東日本大震災での被害が低く抑えられたということは
過言ではないと思う。
東海・東南海・南海地震が来ることは予想されているが、
東日本大震災での教訓で、東海・東南海・南海地震の
被害が低く抑えられることを祈念してやまない。
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阪神大震災を大阪の箕面市で経験した小松左京。この本は、毎日新聞で震災後の4月から1年にわたって小松が連載したものに、単行本では未収録の「阪神大震災の日 わが覚書」「自作を語る」をあわせて収めたもの。
本文は、「あの日から七十五日」というタイトルから始まっている。震災が襲った1994年度が明け、1995年度の始まった4月1日が「あの日から七十五日」であること、その日数は人のうわさも…と言われるように、すべては移ろいゆくという無常観を表したものだろうと指摘しながら、小松はこう続ける。
▼だが、私は逆に、この大震災発生以後二ヵ月余あたりから、この「巨大な災害」が、私たちの社会と生活にもたらしたショックと影響の「全貌」をとらえる作業にとりかかるべきだと思う。─なぜなら、あの時不意に、阪神間の足もとから牙をむいて襲いかかってきた、私たちにとっても、社会にとっても、まったく「未知の体験」だったあの大災厄のもたらした、衝撃と、どこまで広がるかわからなかった多元的な混乱も、このあたりでやっと鎮静化にむかい、それにつれて、この災厄の複雑な「全貌」と性格も、ようやくぼんやりと把握できるようになってきたからである。…(略)…
いずれにしても、近隣周辺を含めて、この災厄に対する「記憶の痛みと疼き」の生々しいうちに、「総合的な記録」の試みをスタートさせなければならない、と思う。そして、その記録の集積を行う主体は、「市民」と、マスコミを含む「民間企業」の協同体が中心になったものでなければならないと思う。もちろん、市民、国民、営利法人の「税金」で賄われている「官」のシステムには、全面的な協力を要求する権利が、この主体にはあるが、決してその収集を、官に委ねてはならないと思う。(pp.10-11)
小松は、くりかえし「この大震災が噴き上げた、膨大多岐にわたる「情報」の収集と記録は、私たちみんなの手でやらなければならない」(p.12)と訴え、当事者一人一人がそれぞれ「自分の記録」をとろうと呼びかけた。
その小松が、自分が生まれ育った阪神間を「たった10秒間」で破壊した震災について、精力的に調べ歩いて書き、対談している。
とくに印象に残ったのは、緊急補給ラインとしても避難所としても「海」のことが忘れられていたという箇所、そして、小松自身も体験した縦揺れのすごさ、上下動エネルギーの破壊的な強さについて地震計の記録によって示した箇所だ。
阪神間は海と山が近い。とりわけ、小松が育った西宮市の夙川あたりは海岸線が山に迫っているところである。その近かった「海」と阪神間の市民生活が隔てられ始めたのは「戦争」以来のことだと小松は記す。そして戦後は、生活排水や産業廃液によって沿岸の海は汚染され、「かつて、夏の日の一日を海に戯れ、砂浜で憩い、潮干狩りや投げ釣りを楽しんだ海」(pp.234-235)は次々と遊泳禁止となっていく。さらには広大な埋め立て地によって、海岸線は遠くなった。
▼江戸中期から海岸地帯に形成されてきた灘五郷、明治初期、大輪田泊を避けて神戸に開かれた居留地と開港場、異国の船や、貿易商が、関西における「文明開化」のセンターを形成し、その背後に世界へ通ずる「海」があった。
すでに述べたように、神戸、阪神間の市民の心と海とを決定的に隔てたのは60年代から70年代へかけての高度成長期だった。埋め立て地は、汀線をはるか沖合に遠のけ、高速道路、湾岸道路の高架や、沿岸、埋め立て地の高層ビルは、水平線までかくしてしまった。--防災、避難として、山はよく使われた(たとえば空襲の時に)。しかし、海と海岸線もまた、まさかの時は避難所と、特に緊急補給ラインとして、山よりもはるかに役に立つのに--そして事実、海上保安庁の船だけでなく、海自の護衛艦、補給艦が強力なロジスティック・ラインをひいたのに、市民も行政も、そこに「太いパイプをつなぐ」ことを、すぐには思いつかなかったようである。埋め立て地の未来都市のような居住区は、橋が落ち、ポートライナーが止まると「陸の孤島」となった。(p.237)
そして、「上下動がすごいのに、建築屋さんとか耐震工学の人たちは、免震、制震は全部横揺れで考えている。神戸で倒れた四階建てのビルは最初の揺れで基礎が抜けている。そこへ横揺れがきたから、横へ飛んだのです」(p.209)という話。
民間設置のものも含め、小松が入手した地震計の「加速度記録」のなかでも、激しい上下加速度が多くの地域で記録されている。小松自身が謎に思っていた「中途階の挫屈」つまり、中高層の建築物の真ん中の階がぐしゃっとつぶれる現象がどうして起こるのかを調べ続けたなかで、大阪市立大学工学部建築学科助手(当時)の那谷晴一郎さんの論文で「層インピーダンス」概念に出会ったところが興味ぶかい。
▼那谷氏の計算によると、建築では柱の鉛直方向の剛性の方が、柱を曲げようとする水平剛性より、形状にもよるが、36倍も大きい、という。同じ大きさの加速度が上下方向に作用したとすると、ゆっくり揺れる水平方向より6倍速く力が伝わり、そのときに鉛直方向には「力積効果」がある衝撃性の存在が示唆される、という。…(略)…
つまり、上下動は「衝撃」だけが先行して柱を伝わっていき、水平動のようにゆさゆさと揺れることはない、というのだ。(pp.341-342)
当時すでにあった免震装置や制震装置の仕掛けがすべて「横揺れ」を前提にしておこなわれていることを小松は調べていたから、那谷氏の層インピーダンスの概念に出会って、なぜ建物の中途の階がぐしゃっとつぶれたのか、そして記録された上下加速度があれだけ大きかった理由を説明してくれるものだと記している。
▼上下動エネルギーの入力は建物の柱を通じて上部階へ伝わっていく。建物自体の重量はがっちり柱を押さえつけ、横揺れのように建物が左右にしなり、構造体の持つ慣性や復原力では、そのエネルギーを逃がすことができない。短時間に柱内の通過で急増大された衝撃エネルギーは、柱が負担する荷重の大きさ、柱の太さなどの構造や材料の特性によって定められる伝播抵抗(層インピーダンス)に応じ大きなたまりを起こす。こうして全階の柱を通じて層インピーダンスが大きくなる。鉛直方向のある場所に大きな破壊をもたらすというのである。
これは、はっきりいって「創見」である。
最初に収録されている対談は、神戸新聞の論説委員であった三木康弘さんと語った「記録者の目」というもの(pp.36-42)。震災から20年で昔のテキストがネットにいろいろと出ていた中で、この三木さんが震災3日後に書いた社説「被災者になって分かったこと」※を読んだところだったので、あれを書いた人かと思いながら読んだ。
神戸新聞は、災害時の相互援助協定を結んでいた京都新聞の力を借りて、1月17日の夕刊から出した。三木さんは、「新聞は小松さんが言われるように、まず記録ですね。いかに被災者がふるまって、何を思って、何を考えて、何に困っているか、それをまず伝えることが記録になりますね。」(p.40)と語り、「被災地が読者のエリアなので、社説は震災以後、東京の地下鉄サリン事件が起こるまで、ほかのテーマは無視して、毎日、震災関係で押してきた」(p.40)と振り返る。
その三木さんが書きつづけた社説やコラムは、『震災報道いまはじまる―被災者として論説記者として一年』という本にまとめられているそうだ。地元紙が伝えたものを記したこの本も読んでみたい。
(1/28了)
※社説 被災者になって分かったこと(神戸新聞、1995年1月20日)
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/01/rensai/199501/0005491602.shtml
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一次記録を残すこと、それを検索しやすい形に残すことの重要性を指摘している。直前の動物の行動や前夜の月の色といった前兆現象の目撃者が多かったことを受けて、前兆現象と地震発生の関係を研究することの必要性を述べるなど、素の目でいろんな発言をしている。
”注”にある、停電でも使える十円玉公衆電話が、十円玉がたまりすぎて詰まって通話不能になったという話や、KissFMという放送局が、震災後1か月くらいで7か国語の情報発信を行うようになった話は、重要なヒントになると思う。