紙の本
辻信一の欺瞞を問う
2022/07/22 23:24
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しばかわわたる - この投稿者のレビュー一覧を見る
1960年代から20年間、
早稲田大学では革マル派という名の党派が学園を制圧していた。
革マルを批判する学生は脅迫と凄惨な暴力を受け大学から追放された。
そのなか一人の学生が「スパイ」として革マルに監禁され、
7時間のリンチを受け死亡した。彼の名は川口大三郎。
川口君の死を契機に高揚した一般学生による反革マル運動の元リーダーが当時を振り返る。
白眉は当時の早大革マル幹部、大岩圭之介=辻信一(現在はスローライフを唱えるエコロジスト)との対談。
辻氏は未だ自己正当化に満ちた発言に終始。
彼のスローライフとはいったい何だろう。
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投稿者:えんぴつ - この投稿者のレビュー一覧を見る
50年前・・・1972年、私は早稲田大学の1年生だった。秋、サークルの合宿から帰京した翌日、キャンパスはざわついていた。「2年生の男子学生が殺された!」・・・11.8が起きた。その後、連日の革マル吊るし上げの徹夜集会等々・・・。川口君はノンセクトだった。革マルや民青の横暴に批判的な学生は多かった。声をかけられて連れて行かれたら危ない・・・私も含め、そう思っていた学生は少なくなかった。川口君は、なぜ行ったのか、悔やまれてならない。樋田氏は、諸々、忸怩たる思いを抱えてこの本を書いたのだろう。11.8は私の脳裏に深く刻まれている、決して忘れない。川口君に近かった樋田氏はなおさらのことだろう。今回、この本によって新たに知ったことも多い。あの時代、70年安保、沖縄問題、ベトナム戦争等々・・・多くの学生が抱えていた「時代」への挫折と希望・・・そんなものが一気に蘇ってきた。
連合赤軍事件以降、「総括」という言葉には嫌悪感を持つ。リンチ、吊るし上げ・・・総括。この度、この本によって、本当の意味で、私は私の学生時代を総括するのかもしれない。
川口君リンチ殺人事件というものがあったということを知らない早稲田の学生も多いと聞く。若い人達に読んでみてほしい。
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【不条理な暴力に私たちはどう抗えるのか――】内ゲバが激化した一九七二年、革マル派による虐殺事件を機に蜂起した一般学生の自由獲得への闘い。いま明かされる衝撃の事実。
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1972(昭和47)年11月11月8日、早稲田大学第一文学部二年生川口大三郎さんが、大学構内で革マル派に拉致監禁され殺された。
Wikipediaの年表を見ても、この年は日本だけでなく世界が動乱状態でした。
この年に第一文学部に入学した著者(元朝日新聞記者)は、革マル支配の学部自治会に反発して、新たな自治会を立ち上げようとして失敗したあたりを、リタイア後に関係者を訪ね歩いて後日談を含め記述したものです。
著者よりも3年前にもっと小規模な他大学に入学した私の時代は、もっと牧歌的でしたし70年に向けて学生運動の高潮期でしたから、ここに書かれていることが本当だとしたら、かなりの驚きです。
ただ、読んでいてずっと感じたのは、著者の自己弁護、事後正当化が臭うことで、元新聞記者、いまは物書きとして過去に体験したことをネタとして書いたのではないかというところも強く感じるところです。
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川口さん事件についての貴重な書籍。当事者でありながら、取材者として当時の革マル側と対話をしている。その姿勢がジャーナリストの鏡だと感じた。
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中核VS革マル(上) (講談社文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061341839/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_i_E3PZ0HN8E1Q90NX1AZ5W
20年ほど前に上を読んで(1975年発行)何にも理解できなかった。
読んだ動機の一つはこの世代を理解したかったから?かも知れないが、従前からの嫌悪感を補強したに過ぎなかった。そう言うと彼らは同じ空気を吸ってないモノに理解できないだろうと言うのかも知れない。そしてノスタルジーに浸るのかも知れない。
しかし、この年代の人たちが残したものに下の世代は苦労させられてることは確実にあるように思う。(自分は1世代下になるか)ノスタルジーどころではない。
(とにかく)自分はこの世代のある種の人たちが嫌いだ。
おんなじ空気を吸わなくてよかったと心底思う。そして上の世代からは三無主義と言われた。
で、最近発行されたこの本を読んだ
半世紀が経ち、当時の経緯、意義を総括したいのだろうが、同じ空気を吸ってないだけに、皆、いったい何と戦ってたんだろ?という思いが募る。
最終章、当時早稲田自治会幹部(革マル派)の人物との対話?はまったく話が噛み合わないという意味で圧巻だ。
大学に奉職して、スローライフを唱えて一定の評価を得ている当該人物のありようは、自分がこの世代に対して感じる嫌悪感の直感にモロに合致している。一方で当時暴力的で威圧的であった人物の語る現在の心境にはさもありなんという感慨も持つ。人は自分の生きてきた道を理路整然と否定する事はできないのだろう。終始話をはぐらかしている感は否めない。或いはバカを装っているのか?(大学教授はバカでは務まらないだろうが…)
自分が通った大学の寮が会合の場に使われたという記述があり、学生時代に聞いたその寮に関するウワサを思い出したりもした。
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メインは著者の入学した1972年から1973年にかけたほぼ時系列の記述で、朝日新聞入社後のことに一章、約半世紀を経た、曾ての対立者との対話に一章ずつ。安定した文章で読み易い。
この本を読むに当たっては、当時は今よりずっと日常に暴力が瀰漫していて、ヤクザ映画などはそれを支える心象を作っていただろうことを念頭に置く必要があるだろう。今の感覚で捉えると、なぜこうも内ゲバが激しくなるか理解できないのではないか。そんな中非暴力の方針を貫いた著者は、挫折したとはいえ筋を通していると思った。
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1972年早稲田大学構内で、革マルに殺された学生がいた。激化していた内ゲバの犠牲者。中核派と間違えられて殺された。
何故殺されなければならなかったのか。そして、革マルの支配から逃れるために一般学生たちが結集し、対峙し、そして結局暴力に敗北してしまう。そんな一部始終。
当時の早稲田の革マル元指導者で、現在は大学の教授、たくさんの著書もあるその元指導者は著者との対談でこう言っている「僕はいまだによくわからないんです。当時、いろんな色のヘルメットをかぶって政治セクトが運動していましたが、その違いもいまだによくわかっていないくらいで、たいした違いはなかったのではないかとさえ思っている」「その頃、僕は革マル派の活動家が読んでいた理論的な本をほとんど読んでいなかったので、マルクス主義がどういうものなのかすらよくわかっていませんでした」「組織のメンバーには強い仲間意識があって、その集団に迎え入れられたという感じがしていました」
つまりそういうことだったんだろう。より良い社会の実現ではなく、単なるサークル活動。仲間との戯れ。陣取り合戦。大きな勘違い。それに気づいた「一般学生」は離れていった。敗北ではなく、無視に至ったというところだろう。
ルトガー・ブレイグマン「希望の歴史」(文藝春秋)と繋がった。
第53回大宅賞受賞作。
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大学に左翼的暴力集団が跋扈し、学生がその暴力に怯えて過ごすという状況がかつてあったということ自体、今では信じられないことだ。私が大学生だった頃、民青のビラや演説はあり、ちょっとした立て看板もあったが、ヘルメットは見なかったし、活動家もほとんど目にしなかった。ほんの10年ほどの差で、かくも過酷な大学生活があったのかと驚く。
本書は、革マル派が自治会を使ってキャンパスを牛耳る早稲田大学、特に第一文学部に入学した著者が、学内のリンチ死事件を契機に革マル派排除や自治会の民主化を目指した活動の高揚や挫折、そして、卒業後の著者が朝日新聞記者として経験した神戸支局襲撃事件と、朝日新聞退職後に行った早大リンチ死事件の改めての取材の記録であるが、ドキュメントであると同時に、人間の暴力性、不寛容がもたらす悲劇とか、不寛容に寛容の精神をもって立ち向かった人々の思想など、人間そのものへの思考と洞察が含まれていて、刺激的なタイトル以上の深みがあり、強く印象に残る内容だった。
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プロローグで2020年の在学生は72年の本書の事件を知らない。72年には一般学生による革マル派糾弾の運動が1年数ヶ月続いて運動は挫折する。知らない時代のこととはいえ、一般学生を置き去りにしない学生自治会運営と大学の関係はどうあるべきだったのか、振り返りが必要なテーマに思えました。
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不謹慎だが、エキサイティングでスリルあふれる学生生活だなと思ってしまった。大学当局すらも及び腰になっている革マル派の暴力に対し、実際に命の危険にさらされながらも、自由な自治会を作り上げるために全力を尽くす、これほど夢中になれる学生生活が他にあるだろうか。実際に死者も出ており、スリルを味わっていられるわけがないだろうというのは正論であると思う。しかしあらゆる「運動」において似たような面はあると思うが、死んだ学友も「運動」の燃料たるロマンとなる。さまざまな経緯を経て、今のノンポリ主流の現代社会が作られていったんだなと思った。
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彼は早稲田で死んだ
~大学構内リンチ殺人事件の永遠
著者:樋田毅(ひだ・つよし)
発行:2021年11月10日
文藝春秋
著者は朝日新聞を退社後、ジャーナリストとして何冊か本を執筆。一昨年には、朝日新聞社の資本と経営の対立を明かした「最後の社主」を上梓している。あの本を読んだ時、記者から離れ、最後の社主のお世話係のような仕事についた故、すっかり社主側の味方になった、まるで皇族担当記者にありがちな陥穽にはまったような筆者だなあという印象を持った。ジャーナリストを名乗るのは、ちょっと・・・と思っていたが、この本を読むとグリコ・森永事件では、滋賀県で警察がきつね目の男を取り逃がしていたことをスクープした記者だと書いている。また、阪神支局に在籍中には同僚一人を亡くし、一人を重傷に負わせた赤報隊による事件にも遭遇し(当日は休日で大阪に家族と出かけていた)、その調査取材に執念を燃やした経歴も披露している。
そんな著者は、1972年に一浪して早稲田第一文学部に入学した。高校は当時も今も愛知県下随一の公立名門校である旭丘高校。彼の入学当時、早稲田大学の多くの自治会は革マル派が牛耳っていて、一文はその中心的存在だった。大学当局公認自治会で、会費は授業料に上乗せして大学が集め、年間900万円が執行部に渡っていた。全共闘運動や70年安保に敗北し、すでに学生運動は内ゲバ方向へと力を向けていた時期だった。一文自治会も暴力的で、語学の授業の後半半分は革マル派のアジ演説の場と化していた。自治会の選挙でも反対には投票しづらいシステムになっていたし、革マル派は自分たちに抗う学生をすべて中核派や社青同解放派、さらには民青といった党派の人間だと決めつけ、暴力をもって排除していった。
著者はJ組。クラス制が取られていて、1Jだったが、1年上の2Jに属する学生、川口大三郎が自治会室で殺された。革マル派自治会執行部によるリンチが原因だった。当時はまだクラス討議があたりまえに行われていた時代で、革マル執行部批判もそこで出る。川口は革マル派に失望し、対立する中核派の集会などにも行ったがやはり見限っていた。正義感が強く、学費値上げ反対運動にも熱心だった。ただ、早稲田の校風を昂揚させることを目的とした「早稲田精神昂揚会」に入ったり、当時は原理研究会に近いとされていた「早稲田学生新聞会」に籍を置いていたりもした。決して中核派ではなかったが、スパイ活動をしていたと追及された。彼が革マル派により自治室につれこまれたことは学生たちが目撃し、大学当局に救出を要請したが、教授会側は訪ねていって一応聞くだけ。なにもないと答えられると、異常なししてすましてしまった。しかし、学生側はドアの隙間から本人が机の上に座らされている様子を目撃している。村井総長は、この対処の責任をずっと学生から追及され続けるが、結局、なにも責任を認めない。
逆に、非暴力で向かっていった著者たちが革マル派と取り囲んで追及する場になると、当局は機動隊を要請していわば革マル派と助け出すというようなことまでやってみせた。当時の関係者によると、大学当局にとっても革マル派執行部���やりやすい相手であったようだ。当局に対しての言葉使いなども評価していたようだ。暴力学生ではあったが、革マル派に牛耳らせておくほうが、他の暴力的な党派よりはましだという腹だったようだ。
著者ら1年生は立ち上がり、自治会執行部のリコールのような手続きに向けて署名活動を始めた。難なく決められた数の署名を集め、革マル派執行部を無効とし、臨時執行部を設立、著者が暫定委員長になった。そして、正式な執行部と新しい自治会規約も成立させ、暴力が入らない新しい自治会を再建させた。著者は学友に諭され、不寛容に対向するために寛容になることを戦略として選んだ。見事にそれが功を奏したかに見えた。しかし、新執行部側のシンパに黒ヘルで武装した実行委員会が登場した。彼らが学生大会などに登場することで、学生たちの目には同じ暴力学生が取ってかわったように映った。せっかく成立した新自治会だったが、大学当局の承認が得られないままに新学期を向かえてしまった。
ここから、その後の様子が延々と綴られ、本の多くの部分をさく。この本は、朝日新聞を退職してから、あの理不尽な学友のリンチ死の真相を調べ上げ、その成果を発表する場として書かれたはずなのに、それがちっともない。ようやく終わりごろになり、当時、殺した側にいた革マル派の執行部幹部との話が出てくる。事件後に自己批判して抜けた田中委員長は、すでに死亡していた。リンチ事件の当事者であり、仲間が黙秘する中で自らは自白し(公判では裏切り者のそしりを受けつつ)、反省し、実刑5年の判決を受けた人物は、警戒心を抱きながらも取材を受けたが、最終的に文字にするのはやめてくれと言ってきた。もうひとり、委員長につぐ幹部だった人物にも取材。結局、最終的には対談となって本書の最後に収められることになった。
その人物は、明治学院大学名誉教授で、スローライフの提案者としても知られる、辻信一こと大岩圭之助である。その対談を読むと、大岩は一言でいえば逃げの一手に終始していた。それには関わっていない、人は責任を取ることなんてできない、などと主張し、革マル派の活動をやめたのも具体的な何かを反省してではなく、心の中でのよく分からない違和感が積み重なった結果だ、というような言い方をしている。
新自治会の委員長をしていた著者も、結局、革マル派に襲われ1ヶ月入院する大けがを負った。ある教室に連れ込まれそうになったが、必死に自転車置き場の柱につかまって抵抗して逃れた。連れ込まれていたら殺されていた可能性もある。いまだに襲われる悪夢にうなされるという。専門課程に進む準備もあり、革マル派が盛り返す中、2年の途中で活動をやめた。
その後、一文、二文の教授会は、革マル派の自治会を認めることはなかった。ただし、大学本部側は、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会、文化団体連合会、商学部自治会、社会科学自治会の公認は続けた。大学を管理運営する理事会に革マル派と通じた有力メンバーがいるという噂まで流れた。事態が変化したのは、1994年に奥島孝康総長が就任してから。「事なかれ主義で続けてきた体制を変える」として、商学部自治会の公認を取り消し、大学が学生から集めて渡していた自治会費1200万円もやめた。社会科学自��会も同様にした。早稲田祭実行委員会への補助などもなし。その他、革マル派をいろいろな場から排除した。
読んで、余計に空しくなった本だった。大学当局の事なかれ主義、無責任さ、学者たちの逃げ。その代償は、ひとかけらの正義感を持ち、ごくあたりまえの平穏を求めただけの学生が被らされた。命を落とした者、心に傷を受けて大学を辞めた者(多数)、いまでもうなされ続ける者。大学という場に巣食う日本のインテリたちの表層を剥がした、強力な一冊となってほしかった。
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元教授の話:革マル派自治会の歴代委員長は、他セクトの学生と比べると約束を守った。我々に対する言葉使いも紳士的で話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。
著者は、大学当局にすればキャンパスの暴力支配を黙認することで革マル派に学内の秩序を維持する番犬の役割を期待したのだろう、と見る。
田中委員長は川口事件当時、毎日新聞の取材に応じ、「我々の調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、(中核派の)一定の人とも接触したことがはっきりしている。しかし、母親の心情を考え、また〝左翼仁義〟からも、これ以上明らかにすることは控えたい」。
著者たちが開いた文学部スロープ下での集会は、参加者が増え続けた。本部キャンパスへと続く商店街を、隊列を組んで歩きながら、行き交う学生たちに「一緒に本部キャンパスへ行きましょう」と声をかけると、デモの隊列はどんどん膨らんでいった。本文キャンパスでの集会は数千人、ときには1万人を超えて連日つづいた。
1973年1月18日、中核派の武装隊が大挙してくるとの情報があり、著者たちは本部キャンパスの東側に建つ四号館1階の政治経済学部学生ラウンジに避難し、ガラス張りのテラス越しに一部始終を傍観した。
中核派は200人ほど、鉄パイプ、背中のリュックサックには投石用の石や空瓶。投げ始める。革マル派は十数人ずつで一隊となった「戦士集団」をいくつも作って、本部キャンパスのビルの裏側や木陰などで待ち構えた。投石合戦からぶつかり合いになると、革マル派は長い鉄パイプを薙刀のように構え、指揮官の笛で陣形を次々に変化させる。鉄パイプの先を一か所に集めてドリルのようにしたり、ハリネズミのように四方八方振りかざしたり。あっけなく完勝した。それから、彼らはラウンジへと突進。著者らがもうだめだと覚悟した瞬間、指揮官の笛で突進が止まった。彼は不敵な笑みを浮かべて一瞥し、戦士たちと去って行った。
東大全共闘、日大全共闘などの体験者の手記によれば、70年代に入っても、徹底したクラス討論、草の根民主主義が実践されていたことが分かるが、早稲田ではその内実が失われ、外形の運動スタイルだけが残っている「ファッション」だった。
1973年4月4日、集会中の著者たちは50人ほどの革マル派に急襲された。角材や鉄パイプに次々とやられ、頭から血を流して倒れていった。著者はあまりの恐怖に身が竦(すく)んで何もできなかったが、なぜか著者だけには鉄パイプが向けられなかった。新学期が始まる時期に委員長を襲うのは得策ではないと指示が出ていたのだろう。
川口事件から1年後、大学当局の公認を受けた新自治会は一���もなく、革マル系の商学部、民青系の法学部だけが前の自治会の形で残っていた。
赤報隊の取材を進めるうち、若い右翼活動家の中には、元左翼だった人たちが少なからずいることがわかった。反共主義から米国を支持する既成右翼と、反米、ヤルタ・ポツダム体制打倒を掲げる新右翼がいるが、元左翼は新右翼のグループに多かった。
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1972年早稲田でリンチの末殺された川口大三郎。その後それに抗議して活動した筆者樋田毅による考察。革命が自分に都合のいい正義をふりかざし暴力化していく。一度入れば抜けられないヤクザのような組織。なんと恐ろしいこと。そしてそれを深く省みることなく、加害者だった人々が転向して普通に生きていること、人間は恐いと改めて思う。
また対談に応じた元大岩圭之助氏今は辻信一氏というので驚いた。辻氏の本は読んだことがあるが過去とは全くの別人。これって一体なんだろう。対談の中でもずるいなぁと感じモヤモヤした気持ちになった。
不寛容を寛容で包み込むような社会になってほしいと祈ります。
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暖かい太陽であれ。
2022年8月のポリタスTVにご出演の樋田さんの渾身の、ルポ。帯に渾身のルポと書いてある、もうそれしかない。単刀直入な書名、それしかない、樋田さんの強い気持ちがこもる。
ポリタスTV では、統一教会元幹部との取材内容が語られ衝撃だった。その番組で知った本書では、第七章 半世紀を経ての対話 大岩圭之助=辻信一氏との対談が衝撃だった。鶴見俊輔氏のお名前、交流も対談の中にあり、からに衝撃。
一貫して、筋が通っている樋田毅さんの、真摯で内省的でフェアで緻密、正確な文章なので、こちらも丁寧に読む。が、50ページぐらいから、涙が目の淵に湧いてきて、しらっちゃけた気持ち(と、樋田氏の寛容さに脱帽だが)大岩対談部分以外は、涙を拭きながらの読書。
マングローブなど、学生運動華やかな頃ではない時代のことも読んではいたので大きな驚きはないが、しかし1997年まで大学側は早稲田祭や自治会費などの資金を渡していたとは。1997年とは。
一貫して語られ行動される寛容、非暴力、正義。時に不屈になりきれない。激しい暴力も裏切りもある。
樋田氏いわく
寛容な心は、社会に蔓延る不寛容を鋭く見抜き、寛容であれも粘り強く働きかけるこころの持ち方である、と。
イソップ童話の、旅人の衣服を剥ぎ取る北風ではなく、人間の善性を信じる暖かい太陽な心だと私は思うと。
正しさに固執するあまり北風になり不寛容になり人より偉そうにしていないか、常に点検が必要だと痛感。と共に、今ほどに、さらになお、どんどん、不寛容不誠実な人たち(権力持つもの)、システム等に追いやれて、なおもは寛容な心を持ち続けることの大変さに、最後に引用される、1973年文学部キャンパスに密かに配布された[立ち竦む君に]というタイトル、呼びかけ。大きな主語ではない、一人ひとりの立ち竦む私たちに、小さな勇気をと呼びかける。答えなければいけないと思う、立ち竦みながらも。
装丁も美しく、当時を知る、川口君を知る大学生だった方には本の姿だけでも感慨深いものではないかとお察しする。
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早稲田構内リンチ殺人事件後の筆者の出来事がメイン。
事件後も革マルの暴力沙汰はおさまらず、筆者も被害にあう。
大学と革マル派の癒着が絶たれるまで25年もかかったことに驚き。