紙の本
暴力は解消できないのか
2011/06/15 19:11
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:想井兼人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
世界中で絶えない紛争やテロ、そして殺人事件。同種族へ向けられる人間の暴力性を、人間独自のものとして片づけることなく、進化論という観点から追及したところが本書の特徴である。
本書における追及は段階を追って明快である。まず第1章で暴力性に関する研究史とその問題点を抽出し、以下の議論の準備を周到に行う。そして、第2章で食、第3章で性の問題を取り上げ、それらを巡ってのサルや類人猿の争いについて紹介。第4章では自然界が葛藤をいかに解消しているかの事例を提示して、第5章でヒトの問題を取り上げて、自然界とヒトとの暴力性の相違点を浮かび上がらせた。
自然界における争いは単純明快で、食と性(遺伝子を遺す行為)の獲得が原因である。チンパンジーなどに見られる子殺しという行為も、自分の遺伝子を優先的に後世に伝えるための戦略として行われるという。群れの形成やその形成内容、単独行動という選択も上記の獲得を目指してのものらしい。
それがヒトとなると事情が大きく異なる。特に農耕を始めて、土地の占有が重要な位置づけになってからは、自然界との差が如実になるようだ。農耕地を占有し、さらにそれを拡大するために集落を強化し、他所の集落と争うようになった。その争いは集団間で繰り広げられるため、自然界のものとは比較にならないほど激化した。集団の結びつきは農耕集落だけにとどまらず、宗教や国など様々な枠が生まれた。そして、近代化が進んだ現在、ごく少数が大きな犠牲者を生むことができるようになった。戦争もまた犠牲者の多さという点では異常を極めている。
上記のような争いは、残念ながらヒト特有のものと言わざるを得ない。しかし、その淵源は自然界と同様に食と性の安定的な獲得にあると言えそうである。
本書はヒトの暴力の淵源を示し、さらにヒトの暴力の独自性を浮き彫りにした。しかし、その解決の方法については触れていない。もっとも、その提示は本書の目的ではない。解決の方法については、私たち個々の課題として残されていると言える。この先、この問題の解決策が得られるとはとても思えないが、議論の俎上にあげることは重要であろう。その下準備として本書の一読をお薦めしたい。
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同種間で戦争をするのは人間だけ?
2020/07/26 11:29
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投稿者:Ottoさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
暴力とは、同種間の争いのことだが、ここでは人間は殺人、とりわけ戦争で殺しあうようになったのかを霊長類の生態を通して探ろうということである。
著者は、ごぞんじ京大総長山極寿一さん、霊長類社会生態学の専門家でゴリラと会話ができると噂がある?
昆虫、魚、鳥でも餌やメスをめぐって争うが、相手を殺すところまではしない。旧来の常識では、「獣のような」とは残忍な、情け容赦なくというニュアンスだが、捕食する場合の形容であって、同種の動物は殺すところまではしない。ところがゴリラなどでは群れにやってきたオスによる子殺しが起こる。メスが子育てをしていると発情しないからだという。自分の子供でないからだ。熊やライオンといった哺乳類でも起こっている現象だが、どうやら群れという社会性をもつことから起こるらしい。
そして、人間の社会性は「大きな集団の中でペア生活を営むという、他の類人猿に類を見ない難題に挑んだ」ことによる特殊なものとなった。この話がでるのが205頁、人間の社会性は、社会学の課題(専門外?)でさらりと書いてある。社会学の先生に続編をお願いしたい。
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100514現在170迄?. :8,
081221by朝日
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私たちはどのようなサルなのか?
霊長類の争いと共存の姿に迫る。
私たち人類は、争いの火種もその解消の術も、霊長類として進化する中で獲得してきた。六五〇〇万年前にこの地上に登場した霊長類。彼らは“食”と“性”をめぐる争いを、それぞれの社会性をもって回避してきたのだ。それを受け継ぐ人類は、家族という独自の社会を得るに至る。屋久島のニホンザルやコンゴ民主共和国のゴリラをはじめ、世界中の霊長類の姿を最新の研究成果から明らかにし、人類の社会性の起源に迫る。
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第1章
攻撃性をめぐる神話(人類の進化史と攻撃性 狩猟仮説 暴力とは何か)
第2章
食が社会を生んだ(生物がともに生きる意味 食べることによって進化した能力 食物の違いがもたらすもの ニッチとテリトリー 昼の世界が集団生活を生んだ 食物と捕食者の影響 食物をめぐる争いと社会性の進化)
第3章
性をめぐる争い(インセストの回避と社会の進化 ペア生活の進化 メスがオスの共存を左右する 母系と父系 娘と息子のゆくえ)
第4章
サルはどうやって葛藤を解決しているか(優劣順位とは何か 所有をめぐる争い 和解の方法 食物を分配する類人猿 性の相手は分けられない)
第5章
暴力の自然誌―子殺しから戦争まで(子殺しと社会の変異 人間はどう進化してきたか 家族と不思議な生活史 分かち合う社会 戦いの本質とは何か)
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[ 内容 ]
私たち人類は、争いの火種もその解消の術も、霊長類として進化する中で獲得してきた。
六五〇〇万年前にこの地上に登場した霊長類。
彼らは“食”と“性”をめぐる争いを、それぞれの社会性をもって回避してきたのだ。
それを受け継ぐ人類は、家族という独自の社会を得るに至る。
屋久島のニホンザルやコンゴ民主共和国のゴリラをはじめ、世界中の霊長類の姿を最新の研究成果から明らかにし、人類の社会性の起源に迫る。
[ 目次 ]
第1章 攻撃性をめぐる神話(人類の進化史と攻撃性 狩猟仮説 暴力とは何か)
第2章 食が社会を生んだ(生物がともに生きる意味 食べることによって進化した能力 食物の違いがもたらすもの ニッチとテリトリー 昼の世界が集団生活を生んだ 食物と捕食者の影響 食物をめぐる争いと社会性の進化)
第3章 性をめぐる争い(インセストの回避と社会の進化 ペア生活の進化 メスがオスの共存を左右する 母系と父系 娘と息子のゆくえ)
第4章 サルはどうやって葛藤を解決しているか(優劣順位とは何か 所有をめぐる争い 和解の方法 食物を分配する類人猿 性の相手は分けられない)
第5章 暴力の自然誌-子殺しから戦争まで(子殺しと社会の変異 人間はどう進化してきたか 家族と不思議な生活史 分かち合う社会 戦いの本質とは何か)
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[ 参考となる書評 ]
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猿の名前を覚えてないので 絵本を見ながら読むのが大変ではありましたが 動物園でも猿は好きなので たのしい人間は150人ぐらいが限度だとしたら 中学もそのくらいにしたらピンクの学ラン着たりしなくなるのかも。。 荒れるって言う中学って大規模校が多いし。
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類人猿の暴力から人間の暴力、戦争を分析した本
人間の社会性の基本として
①育児の共同
②食の公開と共有
③近親相姦の禁止
④対面コミュニケーション
⑤第三者の仲介
⑥言語を用いた会話
⑦音楽を通じた感情の共有
があるという。
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霊長類学関連の本は前から好きで、この山極さんの著書も含めていろいろ読んでるけど、この本は特に、さまざまな学説を分かりやすく提示してあり、人間性の起源についての示唆に富んでいると感じた。
食は分けられるけど性は分けられないとか。メスが発情の傾向を示すか示さないか(性皮の有無)で社会構造が変わる、とか。人間が他の類人猿に比べて出産間隔が短く多産なのは、母親が生まれたばかりの赤ん坊を他人(父親とか)に預けられるからだとか・・・。
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霊長類の研究者がどのようなことをやっているかが良く分かる本.
ただ,過去の人類について,その一端を想像することはできても,常に仮説の域を出ない状態になってしまうところが残念である.類人猿の生活を今の霊長類の生態から予想することは非常に難しそうである.
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著者(京大現総長)はゴリラと長い時間いっしょにすごしてきたせいか、見た目とか声の感じがゴリラに似ている。本書ではゴリラだけでなく、チンパンジーやボノボ、オランウータンなど、さらにはいろいろなモンキーの生活から始まって、現在のヒトの文化や戦争について語られる。サルにも暴力はある。子殺しはわりと有名な話だけれど、後から群れにやってきたオスが、自分の子孫を残すべく、メスの発情を誘うために、前のオスの子を殺してしまうのだそうだ。さて、人の暴力はどこから生まれるのか。いわゆる未開の部族が狩猟をするからと言って暴力的であるとはいえない。部族同士の争いが起こったときも、ある程度のけが人は出るかもしれないが、致命的な傷を負わすところまでは行かないらしい。それがどうだろう、文化が発達?したはずの人間社会は、いまでも戦争を繰り返している。皆さんは食事のとき家族の中で大皿からおかずを分け合いますか?それとも一人ずつ別に盛っていますか?未開の部族の人たちは獲物を持ち帰ったとき、ふつうにそれを皆で分かち合うのだそうです。大きな家族、共同体ということでしょうか。人の数も150人程度で、皆が皆のことを知っている。その中では特に所有の概念がない。分かち合う。シェアする。ところが、自分のモノとか、自分のお金とか、自分の土地とか、所有ということを意識しだす。家族から少し大きな社会、そして国家ができ、権力者が生まれる。我々は見えない権力に常に支配されるようになった。そういった中で、相手の姿が見えない戦争が始まった。本書を読んで、いま少し、ヒトが霊長類の一員としてもともと持っている能力を思い出してみてはどうだろうか。
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【速読】内容のほとんどを霊長類の食物、性にかんする同種間の争い、その研究について割いており、じゃあそれと比較して人間はどうか、というところは最後の方にちょいと。速読しようとしましたがしっかり読まないと理解、というか実験内容などを把握するのが難しい。文化史的には、序盤の「2001年…」の猿の映像に絡み、道具と暴力性を関係づける間違った理解がなぜ流布したか、って話はほほーと思いました。
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『暴力はどこからきたか』(山極寿一)
またしても、自分の想像していたものとは違うことを語る本を読んでしまった。しかし、それはじっくり本を吟味する習慣のある人なら犯さない過ちであることにも思い至っている。著者の専門や活動領域は必ず、本の最後に掲載されているし、タイトルのそばには多くの場合、サブタイトルとして、タイトルの論を述べる対象となる領域や視点となる方向性が示されている。そして、何より目次がより具体的にこの本の展開と方向の道標となって手にとるものに示されている。それなのにまたしても、このざまだ。
では私が想像していた『暴力はとこからきたか』のタイトルを見て想像した内容とは何かというと“人間が暮らす社会”のなかで歴史上絶えず繰り返される争い、暴力から逃れられないその起源を解き明かしてくれることだった。(実際には、最終章の中盤以降に著者の推察がしっかり書かれているのだけど)
それでも、この本の内容は寄り道にしてはかなり強烈で新鮮なものの見方を与えてくれた。5章まであるほとんどの部分は、霊長類の観察による考察なのだけれど、様々な種の霊長類を、生息する場所、食物、捕食者との関係性、性、そして群れという観点でとらえてその社会性の構造を紹介している。
今まで図鑑や動物園に行って、動物を見るときは、その外観の違いや行動の特徴にのみとらわれてあた。
でもこの本を読みながらそれぞれの種のメスとオス、血縁による群れの作り方、それを維持するための仕組みをイメージしていくと、何がそんなに多様なものを必要とさせるのかと思わず考えてしまう。そしてさらには、人間の社会のあり方の特殊性も、それらと比較することによって浮き彫りになってくる。
そして、強く考えさせられたのは人間が身体的な進化をしてきたあとに、試行錯誤して作られた“社会”(共同体)という仕組みはもともとは、争いや暴力を封じ込めるためにできた物凄く精巧なものだった。なのに、二足歩行をして草原を歩き始めて、農耕という文明にめざめてから“所有”という概念が宿り一気に社会(共同体)のもつ力が勝手に回転し始め、封じ込めていた争い、暴力のパンドラの蓋が開いてしまったという歴史の皮肉だ。
でも、争い、暴力を封じ込めるためにまた遠い歴史の向こうにおき忘れてきた叡智を拾い上げて試みる意志を人類は示せるのだろかと考えると絶望に近いものを感じてしまう。
そしてこの本を読み終えたあとに、嵐山公園に行ってニホンザルの群れを日がな眺めていたいし、できればルワンダにいってキャンプを張ってゴリラの観察をして見たいと思った。
今までとは違って彼らのなかに、原始人間社会の卓越性を想像ができるのではないか。と勝手な妄想につながってしまう。
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暴力への指向は、人間性に深く刻印されているのではないか。世の中を見渡すに、そう思わずにはいられない。まったくそれは「どこからきた」ものなのだろう。それを克服することは可能だろうか。その問いに霊長類研究からアプローチした一冊。
原猿類から真猿類(ヒトを含む類人猿はここに入る)まで、幅広く従来の研究に基づいて考察されている。そのため半ばあたりはやや煩雑だが、テーマが非常に面白いので、興味をつないで読んでいくことができた。ヒトが他の動物にはない特質(暴力への固執もその一つ)を持つようになったのは、いつ頃からで、何がその決定的要因となったのか。森で木の上に暮らしていた私たちの祖先が、地上に下り、サバンナで生きていくようになった頃にまでさかのぼり、変化(進化)が筋道立てて述べられおり、とても説得力があった。
簡単にまとめることはとてもできないが、かなり端的に述べられている箇所があるので引用しておく。
(初期人類がなぜサバンナに進出するようになったのか、いまだ解けない謎であると書いた後)「私はその理由を、初期人類が開発した独特な移動様式と社会性にあると考えている。直立二足歩行と家族である。そして、生態的な理由で発達したこれらの特徴が、後に言語を生み出し、人間に独特な暴力を作り出す基礎となったのである」
特に詳しく考察されるのが「家族」である。ヒトがつくった家族の形は、他の類人猿には見られない独特なものだそうだ。どうやらここにさまざまな疑問の答への鍵があるようだ。「家族」に的を絞った著作もあるので、それらも読んでさらに考えていくことにしよう。
ふんふん、そうか、と思ったことを箇条書きで。
・熱帯雨林に生きるゴリラの「食」をめぐる状況を述べて。「多様な生命が交錯する自然界で生きるというのはそもそもこういうことだ。他の生命とさまざまにぶつかり合いながら、それが致命傷にならないような方法を編み出して共存にいたる」
・被子植物の繁栄→昆虫類の適応放散→昆虫食をする霊長類の登場→果実食への移行→葉食への移行→大型化 こんな大ざっぱな図式化では何も伝わらないが、食物の違いが動物の生態や行動様式にとって決定的であることが、実にわかりやすく書かれていて目から鱗が落ちた。
・霊長類は樹上生活によって立体的に世界を眺める視覚を発達させた。人間の視覚の最も基本的な能力である立体視は、樹上生活で築き上げたものをいまだに保持しているものである。
・人間社会におけるインセストタブーは、生存能力の劣る子を産むことを避けるためというよりも、むしろ性的な競合を弱めるための仕組みだったと考えられる。このタブーのおかげで家族間に性的葛藤が起こらず、家族の一員が他の家族の一員と性的に結ばれても、家族の絆が切れることはなく、だからこそ、家族どうしは連合することができる。
・インセストの禁止を介して、家族は他の家族と密接につながることになった。血縁関係にあるオスたちが別々の相手と配偶関係を確立して共存するようになり、父系の親族集団として結束を深めていった。これが家���の原型であり、その存立条件には出発点からインセストの禁止という規範が埋め込まれていた。
・家族は非互酬的な分かち合いの場であり、複数の家族が集まってより大きな共同体を作ったとき、その結束力が、無償で家族や共同体に奉仕する行為を生み、サバンナで初期人類が生き抜く原動力となった。
・音楽は言語に先立つ。その起源は母子間コミュニケーションという説もある。音楽は子守歌だけでなく、男たちの連帯を強め、家族や共同体へ奉仕する行為を作り出すことに貢献したに違いない。それが集団の外に向かう敵愾心を育み、集団間の戦いに発展する共同意識をもたらしたと思われる。
・共同体の拡大は、その内での互酬的関係の必要性を増す。戦いの規模や頻度が増したのは、人間が共同体の規模を広げようとしたからである。共同体内部の互酬的な関係を維持するために、土地の拡大や富の蓄積が奨励され、他の共同体との軋轢を生み出した。
・大量殺戮を辞さないほどの苛烈な戦争が起こるようになったのはなぜか。それは、言語の出現と土地の所有、そして死者につながる新しいアイデンティティの創出によって可能になった。言語にはそこにない出来事や空想上の話を伝える機能があり、それによってバーチャルな共同体を作り出した。国家や民族という幻想の共同体が人々の心に宿るようになった。
本書の末尾で、著者は人類の可能性について述べている。人間の社会性を支えている根源的な特徴の一つに、育児の共同がある。育児に関する行動やコミュニケーションには文化の違いを超えて普遍的な特徴がいくつもある。それを利用して、人間はもう一度社会の和と力を取り戻すことができると思うと書かれている。教育が可能なのは人間だけであり、その道を開いたのは共同の育児に違いないと。人間の子どもたちは、教育によって多様性と可塑性を身に付けることができるようになった。そこにこそ現代を生き抜く秘訣が隠されていると結ばれている。
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人間の行動は本能的に備わっているものに忠実に動くことが多いなと(だからこそ今の社会と合わずエラーも多い)思うから、そのあたりの普遍的な部分が知りたかった。
チンパンジーなどの研究の専門的な部分は読まず。
人間についての起源を探る考え方が共同体の拡大に役立ったのでは?という考察、今後の人間社会を支えるのは共同体を超えた教育なんだという主張は面白かった。
この手のものは一つ重要なアイテムが見つかったらガラッと考察が変わりかねないものだから、真に受けるというより限られた情報量からどう仮説を立てているのかを楽しむものだね。
「承認欲求を相手を陥れることで満たすのは人間特有なのか」
戦いは究極の破壊であると同時に、究極の愛の表現でもあるのだ
社会的な繋がりが大きくなって、誰が敵味方かわからないから線を引くために無駄な暴力を振るう
武器を使えるようになったから脳が発達したのではなく、環境変化に対応するために脳が発達して、結果的に武器が使えるようになった
本来共同体は家族の延長で、お互いの顔や個性を認知できる150人程度が限界
言語によってその場にない抽象概念を伝えられるようになったことで国家や民族という枠組みが生まれた
狩猟は点、農耕は面で世界を捉える
死者という概念が生まれることで、過去の権利の主張ができるようになった
自分の起源がどこにあるのかを思考することは共同体の規模を拡大する上で都合が良い(何世代も遡れば地域の人とはどこかしらで血縁関係があったりするわけで)
教育は類人猿にもない人間独自のもの(特に母親以外からも教えがあるというのが)
教育によって多様性の概念を理解するから行動の制約が緩くなる
筆者としてはそこに、今後の人間社会の希望があるのではないかとしている
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世の中には、幽霊のように何度も出てきては、世の人に呪いをかける「考え」がある。
「殺人は、人類の獣性本能の帰結である。よって、戦争は人間の本能行動であり、無くなることはない」
とっても厄介なのは、この戦争本能説が中国や北朝鮮脅威論、果ては9条改憲の根拠のひとつになり、我々の未来をも左右しているということだ。
よって、我々はこういう言説と厳密に相対峙し、批判的に検討し、自らの態度を決定しなくてはいけない。それが現代人としての、大袈裟にいえば務めだと思う。検討すべき問題は三つあるのではないか?
(1)動物が同族同種を殺した場合、それは本能なのか?
(2)チンパンジーやゴリラなどの霊長類と、我々人類は何処が似ていて、何処が違うのか?
(3)同族同種を殺すことと、戦争は同じことなのか?違うとしたら、無くすことができるのか?
この本をたまたま手に取ったのは、著者が2015年の安保「改正案」に明確に反対していたからである。「ゴリラでさえ、平和に交渉する術を知っている」と著者は、確か言っていたと思う。その半年後に2007年発行のこの本に出会い、「はじめに」でこう書いていて私は衝撃を受けた。
ゴリラは弱いもの、小さいものを決していじめない。けんかがあれば第三者が割って入り、先に攻撃した方をいさめ、攻撃された方をかばう。そして、相手を攻撃しても徹底的に追い詰めたりはしない。ましてや、相手を抹殺しようとするほど激しい敵意を見せることはない。敵意を示すのは自分が不当に扱われた時であり、自己主張をした結果それが相手に伝わればそれですむのだ。ここには明らかに人間とは違う敵意の表現がある。(8p)
その背景や理由を、今回じっくりと知ることが出来た。今まで「弥生時代にやっと戦争が始まったのだから(日本列島の人類の歴史を一年間で換算すると大晦日に始まったのだから)、戦争は無くすことができる」佐原真氏のこの指摘だけが、私が考古学を趣味とし、平和運動に向かうモチベーションになっていた。今回それ以上のモチを得ることができた実感を、私は持った。
(1)は、そうではない。ことは「はじめに」で明らかである。
(2)に関しては、かなり専門的になる。この本を読む以外にはない。あえて一言で言えば、著者は「(霊長類と人類との違いは)直立二足歩行と家族である」という。
(3)に関しては、霊長類学者の著者の専門ではないので、人類学の定説を紹介しながら、最終章に著者の見解を書いている。「武器」が人類に戦争を起こさせたわけではない。武器を狩猟に使い始めたのは、40万年前。人類が戦争を始めたのは、9000年前なのである。人間は39万年間という想像出来ないほど長い間、狩猟のための武器を手に入れても戦争は発想しなかった。つい最近の人間だけが始めたのだ。
では「戦争は無くすことができるのか?」少し長いが、著者の主張に大いに同調するので、抜粋しながら書き写すことにする。
(戦争は)家族や小さな共同体の内部でのみ用いられていた分かち合いの精神が、民族の理念として利用されるのである。家族を守るために戦っていた男たちが、同じ精神を持って民族のために戦うことを要求される。食と共同と性のルールによって生まれた愛と奉仕の心は、その力が及ばない領域を支配する者たちによってすりかえられ、戦争へと駆り立てられるのである。(略)この悪循環をどこかで断ち切らなければ、現代の暴力や戦争を止めることは出来ないだろう。
それは人間の持つ能力をもっと活用することだ、と私は思う。人間の社会性を支えている根本的な特徴とは、育児の共同、食の公開と共食、インセストの禁止、対面コミニュケーション、第三者の仲裁、言語を用いた会話、音楽を通した感情の共有、などである。霊長類から受け継ぎ、それを独自の形に発展させたこれらの能力を用いて、人類は分かち合う社会をつくった。それは決して権力者を生み出さない共同体だったはずだ。われわれはもう一度この共同体から出発し、上からではなく、下から組み上げる社会を作っていかねばならない。(227p)
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どこかで聞いた名前だな、と思ったら、「ゴリラは戦わない」を読んでいた。相手集団を場合によっては殺し尽くすまで戦おうとする人間の暴力性がどこから来たのかを霊長類学者の視点から考えようという本だと思ったし、冒頭読んだらそうらしいので楽しみに読んだ。
結論から言うと、「暴力がどこから来たか」は結局よくわからない。そこに行き着く過程だと思って、けっこう遠回りするなあと思いながら付き合ったので、スカされた気分。同じ霊長類でも種類によって群れの成り立ちや交尾の法則が異なり、それぞれ意味や根拠があるらしいということがわかって、それはそれで面白いのだけれど、そもそも読もうとした目的が違うので、不満が残った。タイトルはミスリードじゃないか? 「サルの社会も楽じゃない」とか、「猿のナンパ学」とかいうタイトルだったら読後の印象がずいぶん違った気がする。