電子書籍
集合知
2023/03/16 07:53
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
インターネットが普及し始めてきた何年も前に読んだ本です。初めて読んだとき、読みにくく、何日もかけて読みました。専門知から集合知に変わっていく、みたいな内容……、その集合知は、多大なる可能性があり、社会をどのように変えるか、と。
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思考とか主観的な知識や暗黙知はどこまでも一人称的なものだから、これを客観的にとらえて三人称的にとらえた段階で変質してしまうので、主観的なものは主観的なままで捉えるのがいいみたいな話。
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「毎日新聞」(2013年3月3日付朝刊)【今週の本棚】で、
三浦雅士さんが書評していました。
(2013年3月4日)
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専門知は研究教育制度やメディアの在り方と関連が強い。この事情が変わったのがインターネットの登場によってである。
集合知は講義には生命体の群れの中に宿る知のこと。
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集合知のうちおもにインターネット上で構成されるものについて扱った本。難しそうな印象の本だが、個々の人間の主観世界がいかに集合知を形成していくかを平易に書かれた良書である。
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数学的には、個人の知より、集合知の方が正しい。ただし、そうなる条件としては、多様性の高い集団であることとのこと。多様性が低ければ、結局、個人が間違うのと同じ様に間違うという当り前のこと。
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1.西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、読了。ここ10数年のコンピュータの変化とは、人間に代わっての高速な処理から相互通信性にシフトしつつあることだ。本書は「~2.0」のフレーズに代表されるインターネットを初めとする「集合知」の現在と未来を考える一冊だ。
2.西垣通『集合知とは何か』中公新書。震災に代表されるように専門家主義の凋落とネットの集合知の台頭しつつある現在。著者は両者に安易に組みしない。知が機能するためには適切な条件の上での運用に限られるからだ。万人参加による透明でフラットなグローバル世界は残念ながら幻想に過ぎない。
3.西垣通『集合知とは何か』中公新書。本書の肝は何といってもその「人間論」だ。安易な歓迎論、守旧的なプロフェッショナリズムの両者は、対象を完全に正確に記述できるという落とし穴に陥っている。人間社会とは「ローカルな半独立の社会集団」の無数の入れ子構造。その様相を明らかにする。
4.西垣通『集合知とは何か』中公新書。リアルに実在するのは個々人の主観世界。そして私たちが「ありがたい」と感じる「客観知」のほうこそ人為的な虚像にすぎない。著者の手厳しい主客構造批判は、エアボクシングの熱中をいさめ、相互生成的な「知恵」を創り上げることへのシフトを促す。
5.西垣通『集合知とは何か』中公新書。本書は「ネットでバラ色」論に食傷気味の読者だけでなく、若い学生に手にとって欲しい一冊だ。認識と参加の地平を新たにする。知が通信で相互生成されるのはネットだけではない。人間のコミュニケーション(教育もその1つ)がそれを記憶・蓄積・創造へと促す。
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議論に飛躍が多く,根拠も薄弱で,「独自の理論」に聞こえる。風呂敷を広げすぎたんだろうか。
専門知が無批判に受け入れられる時代は終わった,これからは集合知だ,というコンセプトはわかるが,ではどうするかというのがあまり詰められていない。ネット集合知への過信を戒めるのは当然として,それ以上の意義ある提言は見いだせなかった。
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情報論の西垣さんの本。
原発事故との絡みも多く、面白い。
過度の専門分化と予算不足からくる産学協同の推進が専門知のレベルを落とした。
専門知の普遍性と一般性の崩れ。
正解のない問題
正解の推測より「物事の決め方」へ
依然として「みんなの意見」より専門的権威を信じているという事実
数理社会学者スコット・ペイジ「多様な意見はなぜ正しいか」
一番問題なのは客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業をおこなえば透明度がまして世界の様子がわかってくるという単純な思い込み。
...もっと大切なのは、自分が生きる上でほんとうに大切な知を、主体的に選択して築き上げていくことのはずである。
近代知ー普遍性の追求
デカルト、ニュートン、ライプニッツ
20世紀
論理主義の影響力
そこに対抗するように実存主義、構造主義などの相対主義系統
論理主義ーいまだに圧倒的な影響力
フレーゲ「述語論理」
ラッセル、ホワイトヘッド「プリンキピア・マテマテカ」
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
公理と記号論理にもとづく厳密な推論が数学の基礎をつくり、哲学は数学的論理にもとづく厳密で分析的な言語で経験を記述するもの。
→論理実証主義/ウィーン学団
ルドルフ・カルナップ
経験、実証を重んじる←ポパーから検証可能性の批判
自然言語は論理的厳密性を備えているのか?
ー分析哲学
コンピュータ(論理主義をふまえて)
ノイマン(数学基礎論)、チューリング
ヒルベルト(フレーゲ、ラッセルの影響下:数学を論理学の中に包含してしまおうとした)ー形式主義
「事物を記号であらわし、記号を形式的なルールに基づいて論理操作することにより、事物についての正確な知が得られる。」
↓
ゲーデルにより無矛盾系が否定される
ヒルベルトのテーゼについてゲーデルと同じ否定的結論をチューリングが示す(チューリングマシン「オートマトン」)
AIからIAに(コンピュータをつかって人間の知識を活かす)
刻々と変化する状況の中で、常識と直観を働かせ、臨機応変に行動することが生物が機会より優れている点。
人間の知と機械の知の境界線に目を凝らさない限り見えてこない?
オートポイエーシス、サイバネティクス、自己組織化、複雑系、そういったところのやっかいな言葉の使い分けに関して。
平野啓一郎『私とは何か』のなかで分人
西川アサキ『魂と体、脳ー計算機とドゥールズで考える身体問題』
オープンになり過ぎもだめ、適度な「閉鎖性」が必要。
論理主義への猛批判がちょっと目についたけど、依然としてそれがある程度ドミナントな価値観なのであればそれが「閉鎖性」に結びつくこともあるのではないか?と思った。
ある程度の完全性への希求みたいなものは諦めるとしても、論理が好きという「趣味」の人もいるわけだし。
感情だけにそって話すとかなり厳しい状況になるのは確かだ。
もちろん���のルールが「論理性」が適しているところと「感情、感覚」が適しているところと、その中間みたいなところもたくさんあるとして。
線形世界や通常科学が「局所的真実」としてその居場所を残している、って言うところがこの辺できいてくる。
Anyway, 結構面白かった!
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西垣通の新刊。集合知は、ゼロ年代のweb2.0のときに微妙に流行って、オープンとかシェアとかあのへんのネットカルチャー的な耳あたりのよいバズワードとも相性が良かった。ノマドだとか新しい民主主義だとか一般意思2.0だとか、10年代の議論にも連なるかもしれない。
しかし、著者はそんな意識が高くナイーブな理想論に与しない。その一見新しく見える思想自体が、20世紀を通じて支配的であった論理主義的な前提に依拠していると指摘する。それらは20世紀においてさんざん議論されたことの変奏あるいは焼き直しでしかなくすでに限界が見えているとして、彼らのユートピア的な幻想ははっきりと否定される。
そうした問題意識のもと、知のあり方そのものをあらためて検討し再定義を行うこと、そうして再構築された前提から集合知の可能性を見出していくことが本書の目指すところとなる。
では、知とはなにか、知のあり方いかなるものなのか。著者は、知の原型を、徹底的に主観的で身体的な、本来的には共有不可能な一人称的なものだとする。それらは再帰的・循環的な閉鎖システム(オートポイエーシス)において生じる。
そのような閉鎖系からいかにしてコミュニケーションが生まれどのように知が共有されるのか。ここで著者が提示するのがHACS(階層的自立コミュニケーションシステム)であり、ここに至って著者の研究の集大成ともいえる大著「基礎情報学」「続 基礎情報学」との接続が果たされる。
さらにマーク・ハンセンによるSEHS(システム環境ハイブリッド)、あるいは西川アサキによる数理的な検討であるアサキモデルを手がかりに、閉鎖システム間のコミュニケーションから知識や秩序が生成されるメカニズムを紐解いていく。
こうして丹念に考察してきた集合知とその可能性は、いわゆるバズワードの集合知とは大きくことなり、地味で面白みのないのものである。社会の状況を一変させるような即効性もなければ、意識高い系を喜ばせる派手さもない。そこでにあるの生命と技術とか並存する社会状況であり、それを冷静に見つめる姿勢が求められる。
一時期もてはやされた集合知という言葉も、いまとなってはすでに過去のものになりつつある。しかし、一過性の流行として消費され尽くす前に、集合知の可能性をあらためて検討し直すことは決して無意味なことではない。
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「情報」「知識社会」「知」「パラドックス」「自己言及」「クオリア」「心身問題」「オートポイエーシス」「自己組織化」「時間」「生命体」「生物」「秩序」「分人」「平野啓一郎」「ベルクソン」「モナド」等々最近、気になっていた言葉が次々に現れて驚いた。
内田樹さんが、「人は何を知りたいかわからないままに知ろうとする。」と言われていたように記憶しているが、まさにそうなのではなかろうかとこの本を読みながら思った。「そうか!私が知りたかったのはそういうことだったのか!」という思いがしたからである。
先日読んだ『リーダーシップとニューサイエンス』で情報の本質が気になりだし、それと同時に水野先生から情報学の入門書である本書を授けられた。まるで、自分自身でも気づいていない私の好奇心が見抜かれているかのようである。前者は情緒に訴える書物で本書は理性的なものだが、傾けられている情熱や純粋さは前者を凌いでいるように思う。200ページ余りの短い本であるが内容は濃い。
知について、こうこうこういうものである。というような説明はないが、
「…大切なのは手際よく所与の知識命題を集めてくることではなく、自分が生きる上で本当に大切な知を、主体的に選択して築き上げていくことのはずである。」(p49)
というような思いに貫かれていて、とても頼りになる。
また、著者は言う。
「心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは他人には決してわかってもらえないことが、その証拠といえる。」(p82)
自分の思いが伝わらない、相手の気持ちがわからないと涙したことのある人にとって、いっそのこと「心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。」という地点にまで降りて、そこから再び世界を構成したり、コミュニケーションについて考えたりするアプローチは心強い。ある意味、希望の光ともなるかもしれない。
さらに、人と人との関係、組織との関係、社会との関係も情報学の観点から分析整理されていて新たな視点を与えてもらった。いつか、自分の言葉でまとめられるようになりたい。書物にせよ演劇にせよ簡単にわかることはそんなにはありがたくない。なんだかよくわからないけど、ざわめく心が落ち着いたり、新たな希望が感じられるものがありがたい。
さて、これはまったくのピント外れかも知れないが…生命体が閉鎖系であるがゆえにその作動原理が再帰的、自己循環的、自己創出的であることと、ニーチェさんの「永遠回帰」は関連があるのじゃなかろうかと気になり、ニーチェさんやジル・ドゥルーズさんの本を読みたくなってきた。
Mahalo
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1948年 ウィーナー「サイバネティックス-動物と機械における制御と通信」
ウィーナー「人間機械論」
サイバネティックスとは、本来、生命体が生き続ける為に、いかに電子機械を活用すればよいか、という実践知に他ならない。
生物の主観世界を考慮した革新的なサイバネティックス1970年代から現れた「二次サイバネティックス(サイバネテックスのサイバネテックス);観察行為を観察する」。(ウィーナーは「一次サイバネテックス」)
二次サイバネテックスの創始者は、ハインツ・フォン・フェルスター。
生命体(人間)は、「作動するシステム」(自分で自分を創り出す)ので、「自律的なシステム」、「オートポイエティック;(自己創出的)な存在)。
機械は、他の存在(人間)によって制作され、また他の存在(いわゆる出力)を創り出すので、「アロポイエティック・システム」。
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集合知とは何か、というタイトル通りの本です。
生命体の集合知では、クオリアという感覚質によって外界の情報を無意識にインプットされ、個体の記憶を基にして情報が再編される閉鎖的自律システム(オートポイエティック・システム)。時間や場所や心理状態が変われば、同じものを見ても感じ方が変わるのは当たり前。そしてその感じ方はその人個人のものなので閉鎖的である。
閉鎖的ならばどうやって他人とコミュニケートできるのか?完全なコミュニケートは不可能(個人の痛みを他人が完全に理解するのは無理!)だが、意識に上ったものは会話等によって意志疎通ができる。
人間個体を理解することで集合知を深く探求することはできる。
また、生命体の本質は閉鎖的自律システムなので、所謂『人間みたいなコンピュータ』は作れない。コンピュータは入力したデータに基づいて出力する(しかも出力情報はいつ引き出しても同じである)から開放型他律システムだからである。
さてネット集合知は専門知を超えることができるのか?その答えはまだ出ていない……。
読み応えがあり、難しいけれど、面白いです。
情報学の視点から人間を考えるとなるほどかようになるのかと感心しました。集合知というと、ネットワークや哲学がその学問領域になるかと思いましたが……、機械情報学からの出発が、生命システムに行き着く、そして再び機械情報学に戻るのは何だか不思議ですね。
インターネットが当たり前の時代において、人間に求められるのは、情報を加工する能力でしょう。知識自体はウェブ上にあるので、それらをうまく組み合わせて知恵を生み出す。
言ってみれば、レゴブロックがたくさんあっても、それを組み立てて遊ばないと意味がないのと同じです。お城を作ったり船を作ったり、組み立て方のパターンは無限にある中で、どういう組み合わせが適当か、考えなくてはなりません。
しかし、注意しなければならないのは、知恵が肝心だからといって、知識(レゴブロック)を疎かにしてはならないということです。知識がなければ閃きもない、よって『知識はネット上にあるからわざわざ記憶する必要がない』となってしまうと、知恵を生み出す素地が育たず、よい結果は得られないでしょう。要は下積みが大事ということです。
平野啓一郎さんの小説が気になりました。分人という概念は、ユングのペルソナと同じだと思いますが、確かに現代人は複数の人格を持ちすぎだと感じます。それらが一貫性をもったものならば、著者の言うように問題はないのかも知れませんが、うまく制御できないときは爆発しそうで恐いです。『いい人を演じるのも疲れた…』なんてのはよくある話で、そこは喜怒哀楽ある人間だから、あまりストレスを溜め込むことなく円滑に人間関係を進めたいものです。
僕の評価はA+にします。
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AI から IA ; intelligence amplifier
平野啓一郎 私とは何か
西川アサキ 魂と体、脳
世の中には正解など存在しない問題も多い。これら複雑で込み入った問題は、ネットの中からいくら知識を検索しても、ほとんど解決の役にたたない。
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内容が薄くない。それだけに予備知識なしに読み続けるのは苦痛になるかもしれない。
筆者の知に対する考察の深さには恐れいる。読む価値のある本であり、集合知に興味があれば買うべし。