紙の本
あなたの町の駅前には股間若衆がまだいるだろうか?
2012/06/18 11:46
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
『世の途中から隠されていること』を読んで以来、この人の書くものには注目してきた。ただ、今回の著作にはいささか唖然とさせられた。『股間若衆』とは。すでにお気づきの方もおられようが、仮名で書けば「こかんわかしゅう」。そう、「古今和歌集」のもじりなのだ。はじめは気づかなかった。なにしろ、表紙写真には、男性の裸像が三体、衆目に股間をさらしているのである。なるほど、股間若衆か、と妙に納得してしまった。
副題にあるとおり、「男の裸は芸術か」という問題意識で編集されたメイルヌード論集である。とっかかりとなったのは、野外に置かれた裸体彫刻、特に男性像の下半身の表現に対する違和感であった。たまたま目にしたそれは、パンツを穿いているのかいないのか判然としない実に「曖昧模っ糊り」とした表現であった。日本には数多くの裸体彫刻が展示されているが、なぜか駅前に多い、それらの股間の表現は微妙な扱いを受けている。
芸術であるなら、ミケランジェロの「ダヴィデ像」のように、リアルな表現が許されているはずである。現にフィレンツェならぬ日本は広尾の街角にも「ダヴィデ像」は、その裸体を誇示している。なのに、日本人彫刻家による男性裸体彫刻は、そのほとんどが著者のいう「曖昧模っ糊り型」か、「面取り型」、もしくは「切断型」になっている。それは何故か。興味を抱いた著者は、カメラ片手に町に飛び出す。歴史を調べる。そうしてリサーチした結果を『藝術新潮』に連載したのが一連の『股間若衆』物となった。
題名から想像がつくように、小難しい理論とは無縁の読みやすい美術エッセイになっている。とはいえ、木下直之のこと、男性彫刻の股間にこだわらず、日本美術界が、男女にかかわらず、裸体画、裸体彫刻の受容に、どのように敏感であったか、今から思えば 笑いごとのようだが、そう単純に笑ってばかりもいられない、悲喜こもごもの歴史を描きだしている。
朝倉文夫が完成した彫刻から男性器を切り取っているところを描いた北沢楽天のポンチ絵には、官憲の命令で自らの作品を毀損する朝倉に対する批判をこめた風刺が色濃い。一方で、生き人形師松本喜三郎が海外向けに製作した生き人形には本物と見まがう男性器が精巧に作られている。その違いはどこからくるのか。
男性裸体彫刻と戦争の問題にも意識は向けられる。戦後、平和や復興を願い、そのシンボルとして各地の駅前や公園に設置された彫刻がなぜ裸体でなければならなかったのか。戦時中、戦意高揚の目的で製作されたそれらは、軍服にゲートルの姿であった。新生日本を象徴する平和を表すためには、その姿から自由にならねばならなかった、と著者は読み解く。
しかし、平和、復興のシンボルであったそれらの彫刻群は、駅前再開発、再々開発の掛け声とともにいつの間にか撤去され、もっとひっそりとした空間に移転されてしまう。その有り様は一抹の哀れを誘う。ただ、そればかりではない。いつの時代も時代の空気に敏感に反応し、その時代時代の意匠をまとって野外に立ち現れ、いつの間にか消えてゆく男性裸体彫刻の存在は、われわれの住む社会の容態をひそかに示す記号ではないのか。なんとなく居心地の悪さを感じつつ、目を伏せたり、見てみぬ振りしたりしながら、その横を通り過ぎる裸体彫刻だが、時には正面からまじまじと見つめ論じてみる価値があるのではないか、あらためてそんなことを感じさせられた。
投稿元:
レビューを見る
幾ら芸術とは言え裸像彫刻を見ると、人には言わないもののついついその股間に目が行くのは自然の流れだ。そんな自然の興味を真面目に追求したのが本書だ。
著者は赤羽駅前にある男性裸像を見て「一瞬、我が目が曇ったのかと思った。あるべきものがあるようでないそれは、本当に不思議な股間だった。強いてあげればバレーダンサーのような股間に近い。」と言い、「いったいどこから、こんな”曖昧模っ糊り”した股間表現が生まれてきたのか知りたいと思った」ことから、本書のもとである「芸術新潮」の連載エッセイが生まれたと云う。
男性裸像を称しての”股間若衆”というのも秀逸なタイトルだが、これも裸像を見るうちに「お告げ」があって産まれたタイトルと言うが、恐らく今年の「名タイトル」賞(が、有れば)当選確実だ。
と云う事で、時は遡り今から約百年前の明治後半の日展での芸術表現から調査は始まる。そこでは芸術表現として裸体像は官憲の取締対象であり、二等賞に輝いた裸像も展示に先立ち修正を求められ、それを風刺する「ノコギリで股間を切断する作者の姿」という漫画も発表されたという。其れに対し、官憲に摘発される猥褻表現から逃れようと股間を隠す布や彫刻に葉っぱ織り込んだりしたものの、却って目立つことから新たな表現形式として出てきたのが「曖昧模っ糊り」彫像というようだ。
そして彫刻・絵画・写真の裸像表現を振り返り、更に全国にある裸像の股間調査の旅は続くわけだが、「完全なる露出から、曖昧模っ糊り、葉っぱ、ふんどし、パンツ、タオル、腰巻、ズボンに至るまで、表現は多彩で創意工夫に満ち」るが「女性裸体彫刻の股間はどれものっぺりとしているだけで、本当に不毛だ」と結論付けるのが笑える。
真面目なのか不真面目なのか良く判らない”珍本”(シャレではない)だが、参考までに著者は真面目な東大文化資源学研究室の教授だそうだ。
投稿元:
レビューを見る
すごく真面目に男性の股間の美術表現とはみたいなことを書いてるんだけど「曖昧模っ糊り」「四分の三裸」とかところどころでくすっと笑わせるような表現をしてて、ついついふきだしてしまうという。
著者近影で彫刻の股間をかがみこんで写真撮ってるのがなんかもうすごい。巻末の「股間巡礼」なんか大真面目に旅ガイドみたいにされてこれも笑う……
あとがきもおもしろかった。語感センスが好きですとても。
投稿元:
レビューを見る
露出か隠蔽か修整か?“古今”日本人美術家たちによる、男性の裸体と股間の表現を巡る葛藤と飽くなき挑戦。“曖昧模っ糊り”の謎を縦横無尽に追求する本邦初、前代未聞の研究書
投稿元:
レビューを見る
男の股間
いや
男の沽券
に
まつわる あれやこれや
どうでもいいようなことを
これだけきちんと取材して
ちゃんと「研究」しておられることが
すばらしい
人間はなんのために芸術しているのか
が この一冊の中に見えてくる
投稿元:
レビューを見る
『世の途中から隠されていること』を読んで以来、この人の書くものには注目してきた。ただ、今回の著作にはいささか唖然とさせられた。『股間若衆』とは。すでにお気づきの方もおられようが、仮名で書けば「こかんわかしゅう」。そう、「古今和歌集」のもじりなのだ。はじめは気づかなかった。なにしろ、表紙写真には、男性の裸像が三体、衆目に股間をさらしているのである。なるほど、股間若衆か、と妙に納得してしまった。
副題にあるとおり、「男の裸は芸術か」という問題意識で編集されたメイルヌード論集である。とっかかりとなったのは、野外に置かれた裸体彫刻、特に男性像の下半身の表現に対する違和感であった。たまたま目にしたそれは、パンツを穿いているのかいないのか判然としない実に「曖昧模っ糊り」とした表現であった。日本には数多くの裸体彫刻が展示されているが、なぜか駅前に多い、それらの股間の表現は微妙な扱いを受けている。
芸術であるなら、ミケランジェロの「ダヴィデ像」のように、リアルな表現が許されているはずである。現にフィレンツェならぬ日本は広尾の街角にも「ダヴィデ像」は、その裸体を誇示している。なのに、日本人彫刻家による男性裸体彫刻は、そのほとんどが著者のいう「曖昧模っ糊り型」か、「面取り型」、もしくは「切断型」になっている。それは何故か。興味を抱いた著者は、カメラ片手に町に飛び出す。歴史を調べる。そうしてリサーチした結果を『藝術新潮』に連載したのが一連の『股間若衆』物となった。
題名から想像がつくように、小難しい理論とは無縁の読みやすい美術エッセイになっている。とはいえ、木下直之のこと、男性彫刻の股間にこだわらず、日本美術界が、男女にかかわらず、裸体画、裸体彫刻の受容に、どのように敏感であったか、今から思えば 笑いごとのようだが、そう単純に笑ってばかりもいられない、悲喜こもごもの歴史を描きだしている。
朝倉文夫が完成した彫刻から男性器を切り取っているところを描いた北沢楽天のポンチ絵には、官憲の命令で自らの作品を毀損する朝倉に対する批判をこめた風刺が色濃い。一方で、生き人形師松本喜三郎が海外向けに製作した生き人形には本物と見まがう男性器が精巧に作られている。その違いはどこからくるのか。
男性裸体彫刻と戦争の問題にも意識は向けられる。戦後、平和や復興を願い、そのシンボルとして各地の駅前や公園に設置された彫刻がなぜ裸体でなければならなかったのか。戦時中、戦意高揚の目的で製作されたそれらは、軍服にゲートルの姿であった。新生日本を象徴する平和を表すためには、その姿から自由にならねばならなかった、と著者は読み解く。
しかし、平和、復興のシンボルであったそれらの彫刻群は、駅前再開発、再々開発の掛け声とともにいつの間にか撤去され、もっとひっそりとした空間に移転されてしまう。その有り様は一抹の哀れを誘う。ただ、そればかりではない。いつの時代も時代の空気に敏感に反応し、その時代時代の意匠をまとって野外に立ち現れ、いつの間にか消えてゆく男性裸体彫刻の存在は、われわれの住む社会の容態をひそかに示す記号ではないのか。なんとなく居心地���悪さを感じつつ、目を伏せたり、見てみぬ振りしたりしながら、その横を通り過ぎる裸体彫刻だが、時には正面からまじまじと見つめ論じてみる価値があるのではないか、あらためてそんなことを感じさせられた。
投稿元:
レビューを見る
この本を読んでから股間を巡る旅に出たくてしかたない。股間巡礼とでもいうか(事実この本の最後 は股間巡礼というタイトルの旅のガイドだ)。まずは、手近な蒲田や稲毛の駅前あたりから始めてみよう かとも思いつつ、どこかにためらう気持ちがあるのか、まだ実現していない。
「股間漏洩集」という章の中に「彫刻の場」という表現が出てくる。「場」は多義的な言葉で便利だけど よくわからんところもあるのだが、こういうふうに使えば、場とは生きている文脈であって意味が生じる 源だということもよくわかる。股間をめぐる文脈も、彫刻の場も、そこから生まれる意味も、時代によっ て、見る人によって、変わるものなのだ。
投稿元:
レビューを見る
一度見たら忘れられないタイトルである。裸の銅像の股間がどうなっているのかを集めた本。
うむ、なんとなくごまかしている。そのごまかし方に歴史ありというわけで、たしかに面白い。
明治時代の官憲と変わらないのかもしれないけど、私はどうにもあの裸の銅像が苦手だ。マッチョ的に均整のとれた肉体はそういうものだとして受け取れるが、そうでない場合、見てはいけない者と不気味の谷の両方を思う。
例えばうちの近所の公園に、小学生ぐらいの幼女の裸の銅像がある(幼稚園ぐらいの弟(全裸)と手をつないでいる。)これがよくてあれがダメな理由は何? と思う。
たまに、母性という感じの骨盤の大きな母親全裸と一緒になっている場合があり、どう考えてもこっちのほうがやらしいよな、と思う。
改めてなんだけど、裸である必要ななかったんじゃないのかな。
もしくは、記号化された性とは違う、根源的な何かを揺さぶるというのなら、それはそれでありがたい。たしかに、全裸の母娘像とか、私の中に湧き上がる感情が性的な欲情かというと、なにか違う気がする。
本書の扉にある、赤羽駅前の「未来への賛歌」も、高校野球部員二人を裸に剥いたみたいなもので、「球児の汗と涙が・・・」っていう夏の高校野球のメディアの下手なポエム(恥ずかしと思わないのかね、あれ)よりかは、ぐっとくる。
だけどそれを、そこまでして街頭に置かんといかんかったのかは、よく分からんな。
投稿元:
レビューを見る
ページを開くといきなり男性裸体像の股間のアップ(爆)。
「とろける股間」「曖昧模っ糊り」というネーミングセンスが素晴らしい。
“男性の裸は芸術か猥褻か”明治以降の男性の裸迫害史&
それにともなう股間表現史が面白かった。
完全と風景と化してしまって、あってもそうと気づかない&
あえてガン見しないようにしている股間若衆の「股間」を扱った労作。
こんな風に巡礼はしないまでも意識して見るようにしたい!!
個人的には「股間漏洩集」の「男の写し方」、「薔薇族」創刊から
三島由紀夫のくだりに興味津々。
そうだったんだ!見たいよその写真!!
投稿元:
レビューを見る
男の裸は、いつだって哀しい。手ぶらでは全くさまにならず、結果、円盤投げの円盤に落ち着くという下りは笑った。
投稿元:
レビューを見る
芸術論だから、やはり読みづらいは読みづらいのだけど、どこかふざけているというか、のところがあって、ところどころ笑える。R以外で「握足」という言葉を使っている人初めて見た。曖昧模っ糊りとか、そういうことばも笑える。どこからか落ちてきてなぜか落ちない葉っぱ、とか、両手がふさがっているのに、なぜか落ちない虎皮、とか。
投稿元:
レビューを見る
曖昧模糊とした股間表現に疑問をいだいた著者の股間巡礼記録と考察。官憲の干渉だったり芸術表現だったり「目のやり場」に困らないような配慮だったり。まじめに歴史を紐解いていると思うのですが、表現や切り方が愉快なので、どうしても「愉快な本」の方向に捉えてしまいます。股間若衆は、このあたりにいそうだな、と思ったら、だいたいいる。今度見つけたら、おそらく曖昧なその模っ糊りがどんな風かきちんと見て、背景を想像してみよう。
投稿元:
レビューを見る
男の裸は確かに難しいところがある.でも、股間に葉をつけたのは何かおかしい.本書は芸術作品としての男の裸の歴史や数々の写真・エピソードが満載で楽しめる.
投稿元:
レビューを見る
初登録のこの本は2/23うろこ会定例会でプレゼンした本です。
内容が内容だけに想像以上の反響があって驚きました。
投稿元:
レビューを見る
公共スペースに設置された女性の裸体彫刻がフェミニストによって糾弾された90年代から下ること20年、ついに男性の裸体彫刻が探求される時がやってきた!
「新股間若衆」「股間漏洩衆」という章名や「曖昧模っ糊り」というフレーズに脱力しつつ、トンデモ本かと手にとってみれば、どうして、脇目もふらず真剣に美術における男のコカン問題に取り組む本なのでした。西洋からの近代美術輸入とともに始まったヌード問題。しだいに性器と毛に焦点化されていく官憲の規制を逃れるべく、「とろける股間」あり、万有引力を無視する葉っぱあり、謎の物体あり。
面白いことは面白いんだけど、話題がバラバラでもひとつ突っ込みが足りない。でも要するに、政府の規制に対しては「美術だ」と言って反論しつつ、実は男中心の美術界の中では、女のヌードは無条件に美であることを前提する一方、男性のヌードについてあまり真剣に考察してこなかったんではないかということだよね。戦中にしろ戦後にしろ、力や高邁な理想といったジェンダー化された価値観を負わされすぎてきた男性ヌードを解放してあげたのがゲイたちのエロスのまなざしだったと言ったら、まとめすぎでしょうか?
美術における男性ヌード論としては、最近の写真家たちの作品まで含めて、コカンにこだわらずに突っ込んだ議論を読みたいところではあるけれど、それは本書の範囲外。たくさんの図版にくわえておまけの「股間巡礼」まで、たいへん楽しめる本ではあります。