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商品説明
日本の近代化とは、高度成長とはなんだったのか? 三陸大津波と福島原発事故が炙り出す日本人の精神とは? ノンフィクション界の巨人が、3・11の現場を歩く。【「TRC MARC」の商品解説】
東日本大震災にノンフィクション界の巨人が挑む。三陸に住んでいたゴールデン街の名物オカマの消息。日本共産党元幹部の「津波博士」はどこへ? 正力松太郎・天皇・原発のトライアングル。江戸時代、飢饉で荒廃した地は、陸軍の飛行場を経て、堤康次郎が土地を買収し、福島原発となった――『東電OL殺人事件』で東京電力の実相を暴き、『巨怪伝』では原発を日本に導入した正力松太郎を活写した佐野眞一が3・11の真実を描く!
緊急取材・書下ろし四〇〇枚
東日本大震災ノンフィクションの決定版
日本の近代化とは、高度成長とは何だったか?
三陸大津波と福島原発事故が炙り出す、日本人の精神
ノンフィクション界の巨人が挑む
■三陸に住んでいたゴールデン街の名物オカマの消息
■日本共産党元幹部の「津波博士」はどこへ?
■正力松太郎・天皇・原発のトライアングル
■江戸時代、飢饉で荒廃した地は、陸軍の飛行場を経て、堤康次郎が土地を買収し、福島原発となった――
『東電OL殺人事件』で東京電力の実相を暴き、『巨怪伝』では原発を日本に導入した正力松太郎を活写した佐野眞一が、3・11の真実を描く!
《本文より》
場合によっては逮捕されることも覚悟で立ち入り禁止地区に入ったのは、原発事故に対する大メディアの報道に強い不信感をもったからである。新聞もテレビもお上の言うことをよく聞き、立ち入り禁止区域がいまどうなっているかを伝える報道機関は皆無だった。(中略)
原発のうすら寒い風景の向こうには、私たちの恐るべき知的怠慢が広がっている。【商品解説】
目次
- 【目次】
- 第一部 日本人と大津波
- 重みも深みもない言葉/志津川病院の中に入って/おかまバーの名物ママの消息/壊滅した三陸の漁業/熱も声もない死の街/「何も考えずに逃げる」/“英坊”は生きているか/「ジャニーズ」の電源車/高さ十メートルの防潮堤/嗚咽する“定置網の帝王”/日本共産党元文化部長・山下文男/九歳で昭和大津波に遭遇/「津波は正体がわからない」
- 第二部 原発街道を往く
- 第一章 福島原発の罪と罰
- 逮捕覚悟で原発地帯に入って/浜通りと原発銀座/東電OL・渡辺泰子とメルトダウン/現代版「原発ジプシー」/無人の楢葉町役場と「天守閣」/満開の桜と野犬化したペット/禁止区域に立ち入る牧場主/地獄の豚舎にあった「畜魂碑」/原発には唄も物語もない/ホウレン草農家の消息/陸軍の飛行場が原発に/天明の飢饉と集団移民
- 第二章 原発前夜――原子力の父・正力松太郎
- 原子力の父と「影武者」/読売新聞の原子力キャンペーン/核導入とCIA/原子力平和利用博覧会/英国からの招待状/欧米の原子力事情視察/東海村の火入れ式/天覧原子炉/正力の巨大な掌の上で/「原子力的日光浴」の意味するもの
- 第三章 なぜ「フクシマ」に原発は建設されたか
- フクシマと「浜通り」の人びと/塩田を売却した堤清次郎の魂胆/木川田一隆と木村守江の接点/原発を導入した町長たち/反対派町長・岩本忠夫が「転向」した理由/東京電力の策謀/原発労働はなぜ誇りを生まないか/浜通り出身の原子炉研究者
著者紹介
佐野 眞一
- 略歴
- 〈佐野眞一〉1947年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ノンフィクション作家。大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞受賞。著書に「東電OL殺人事件」「巨怪伝」など。
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紙の本
「戦後日本」と訣別する第一歩となる本。メルトダウンした日本でいま何を考えるべきかが見えてくる
2011/09/06 16:10
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「3-11」については、これまで饒舌に語ってきた多くの論者が沈黙してしまった。あるいは発言したにせよ、その内容はリアリティのない空虚な響きしかもたないコトバの羅列に過ぎないのではないか?
そう思う人はこのノンフィクション作品を読むことをすすめたい。「品格」を欠いた表現が少なくないし、しかもこじつけが多いのではないかという理由で佐野眞一が好きではないにしても、この作品だけは今後のために読んでおくべきだと言っておきたい。
「3-11」の東日本太平洋岸の大地震と大津波、そして最悪の事態となった福島第一原発のメルトダウン。ともに同時期に発生した大災害であるが、前者が千年に一度とさえいえる巨大自然災害であったのに対し、後者は明かに「人災」である。前者が目に見えるかたちで大きな被害をもたらしたのに対し、後者は今後数十年にわたって見えない恐怖を与え続けることになる放射能被害である。
とくに原発事故は、「戦後日本」そのものが、そっくりそのままメルトダウンしたのではないかという、シンボリックな意味さえ帯びるにいたっている。さらに言えば「近代日本」そのものがメルトダウンしたのではないか、とさえ思われるのである。
わたしが本書を読むことにした理由の一つは、『東電OL殺人事件』を書いた佐野眞一が、原発事故と東電についてどのような発言をしているのか知りたいと思っていたことにある。しかも、『巨怪伝』では読売新聞社主となった正力松太郎と「戦後大衆社会」をあますことなく描ききった佐野眞一だ。「テレビの父」だけでなく、「原発の父」でもあった正力松太郎について語ることは、そっくりそのまま戦後日本と東電を中心とした原発につながるのである。原発による電力があってこそ、「戦後大衆社会」が成立してきたことは、うかつなことに、本書を読むことで、はじめて強い印象とともに気が付かされた。
戦後の理想教育を主導しながら挫折した無着成恭、戦後大衆消費社会を実現させた実業家・中内功、戦後大衆社会をリードしてきた石原慎太郎や小泉純一郎といった自民党政治家、そして戦後社会の実験場であった満洲に、戦後のつけが集約されてきた沖縄。これまで佐野が描いてきた戦後日本を扱ったノンフィクションを列挙してみると、佐野眞一が一貫して「戦後日本」とそれを準備した「近代日本」そのものを、時代を象徴するさまざまな人物をとおして描いてきたことがわかる。
「3-11」とは、まさにその「戦後大衆社会」がすでに液状化し、崩壊していたことを明らかにした自然災害であり、それに付随して発生した取り返しのつかない「人災」であったことが本書によって確認されている。その意味で、「3-11」は暴力的に「戦後」を終わらせたのである。本書は、佐野眞一の集大成とまでは言わないが、これまで「戦後」を多面的に描いてきた蓄積があったからこそ書けた内容だといえるだろう。
この本を読むと、われわれがいまどういう地点に立っているのか知ることができる。何をすべきなのかが明確に示されたわけではないにせよ、何を考えるべきかがおぼろげながらも見えてくるだろう。すくなくともそのキッカケにはなるはずだ。その意味で、ぜひ一読することをすすめたい。もはや「戦後」は終わったのだ。
紙の本
「津波と原発」、福島のチベットはいかにして原発銀座になったか。
2011/10/17 18:29
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る
人によっては思ってる内容と違ってもの足りなく感じるかもしれない。
それは、完全書き下しではなく、二部構成の一部は雑誌「G2」、二部
の第一章は「週刊現代」に掲載されたものが元になっているからだろう。
全体的にもう少し突っ込んで書かれていたらなぁ、東電という企業の闇
にもっとグイグイと迫ったらなぁ、と僕自身も思った。しかし、この本、
つまらないのかと言えばそんなことはまったくない。「津波と原発」に
は硬派ジャーナリストである佐野眞一らしさが横溢している。
第一部の「日本人と大津波」は震災一週間後に現地を訪れたルポであ
る。ここに登場するのは気仙沼に住む新宿ゴールデン街でおかまバーを
やっていた「キン子」ママ、元共産党の文化部長、「定置網の帝王」と
呼ばれるプロ中のプロの漁師などなど。彼らの話がいちいちおもしろく、
しかも、心にグッと迫る。このあたりのアプローチはさすが佐野だ。こ
ういう話は新聞では絶対に読めないだろう。第二部「原発街道を往く」
ではさらに、当日福島第一原発で働いていたいわゆる「原発ジプシー」
の男や浪江の大規模牧場の主なども登場する。第二章以降で語られるの
は「福島のチベット」と言われた浜通りが原発銀座へと様変わりしてい
く、そのプロセスだ。こここそがこの本の要である。登場するのは正力
松太郎、堤康次郎、木村守江などの権力の亡者たち。読んでいると「こ
いつらって本当にもう」とあきれると同時に、原発誘致しか術がなかっ
た現地の荒廃と貧しさに暗然とする。その時、反対運動はほとんどなか
ったと言う。「あとがきにかえて」という形でそのエッセンスを伝えて
いる政治学者原武史とジャーナリスト森達也との対談、孫正義へのイン
タビューも大変興味深い。
紙の本
原子力日光の下に微睡み、歌を忘れたカナリアは「いい国つくろう」とトカトントン
2011/09/07 11:05
7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
9月2日の朝刊を広げると、見開き二頁に某出版社の全面広告が掲載されていた。キャッチコピーは「いい国つくろう、何度でも」。1945年8月30日、連合国総司令官ダクラス・マッカーサーが専用機ダグラスC54「バターン号」から姿を現しコーンパイプをくわえサングラス、まさに花道で見得を切った歌舞伎役者のようなかっての赤鬼の凛々しい姿に「これがアメリカ」なんだと何度も讃嘆した少年時代の思い出が蘇った。
それに引き替えこの国の大人たちの臆面のなさ、だらしなさに少年の僕は「自虐的な気分」になったのは当然であった。
自虐史観は学校教育を通しても助勢されたが、そんな去勢のエポックの中に「高度経済成長」という共通の国民的合意が形成され、世界に冠たる妄想であれ「中流・中産階級」がどっしりとこの国に着地した。
狐に化かされた気がしないでもなかったが知らぬ間に「いい国」になったとも言える。敗戦が「いい国を招来した」マジックの隠れた種として巧妙に隠蔽されたとも言える。無意識の「弱者戦略」が「大国」になってしまったという想定外の事態だったかもしれない。「強者としての振る舞い」が要請されるようになりバブル崩壊以降、「いい国つくり」に戸惑った方向指示器のままに迷走し、今回原発の暴走を許したとも言える。
本書の「原子力的日光浴」の意味するもの(p176)で1999年9月30日にJCOで起きた臨界事故で臨界に達したときだけ発する青白い光「チェレンコフ光」について佐野はこの臨界事故は私たちが日々恩恵を蒙っている「原子力的日光」のなかに、「チェレンコフ光」がひそんでいることをはからずも露呈させたと言う。核の傘の下に思考停止で微睡んだつけが露呈されたとも言える。
某出版社の全国紙広告は「大震災=第2の敗戦」なんだと思い知らせるコンセプトかどうかわからないけれど、僕的には少なからず衝撃があった。
思わず、携帯の待ち受け画面に設定してしまった。そうやって日々愛憎こもごもでマッカサーの赤鬼オヤジを見ている。
本書は緊急取材・緊急出版の書下ろし四〇〇枚なのに、長時間に渡って熟成した職人仕事のように佐野ワールド・作品として仕上がっている。佐野眞一という鋳型の中で破たんなく収まったとも言える。
「第二部原発街道を往く」の章はノンフィクション作家として原発関連をこれまで追跡した引き出しがクロニクルに開陳され、緊急取材で仕入れた材料を巧みな味付けでリアルな真実味を付け加える。
例えば『東電OL殺人事件』、正力松太郎の『巨怪伝』という先行の仕事は東電、原子力を語るに佐野眞一ならではの隠し玉が投じられる。でも、僕としては第一部の「日本人と大津波」の方が面白かった。実際の被災者たちが前面に出て活写される。ひょんなことからゴールデン街のおかまバー・名物ママ英坊に会ったり、定置網の帝王とか…、津波研究家の第一人者でもある日本共産党の元文化部長・山下文男が九死に一生を得て、こんな本音を吐く。
《山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。/ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊るしたバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。/「三十六人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。/とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ。/山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。》p56
成る程、「情」にシンクロする磁場を効果的に配置する佐野マジックは本書でも生かされいる。
ただ、二部ではそんな生々しさはトーンダウンしている。「理屈」が先行しているわけ。まあ、そのあたりの構成は意識的になされたものであろう。
でも、『「フクシマ」論ー原子ムラはなぜ生まれたのか』の開沼博とのやりとりは「理屈」が暴走している気味がある。
佐野さんは内郷生まれの間沼さんに同じエネルギー産業に従事しながら、炭鉱労働者には「炭鉱節」が生まれたのに「原発音頭」が生まれなかった。これはなぜだと思いますかと訊ねる。
《「彼らは危険だということをわかりながら、自分を騙しているようなところがあって、その負い目が差別性につながっているような気がしますね」/――なるほど、その負い目が歌や踊りを生み出せなかった。でも、危険という意味では炭鉱労働も危険だよね。原発労働と炭鉱労働のこの差異はどこにあるんだろう。/「炭鉱労働者が感じる危険さは、漁師が感じる危険さに似ていると思います。誇れる危険さというのかな」/――誇れる危険さか。板子一枚下は地獄っていう。原発労働者は何シーベルト浴びたからって誇れないものね(笑)。/「炭鉱で死ぬっていうのは、すごくわかりやすいじゃないですか。でも、原発は線量計持たされて、すぐに死ぬわけじゃないけど、目に見えない気持ち悪さってあるじゃないですか」/――確かに炭鉱労働には、オレはツルハシ一丁で女房子どもを食わしているという「物語」が生まれやすいね。でも、オレが何シーベルト浴びているから、女房子どもが食っていけるなんて、聞いたことがない。原発労働に似ている労働って何がある?売春に似ているのかな。/「後ろめたい労働という意味では似ているかもしれませんね」(p222)
原発労働≒売春とは荒っぽい「理屈」です。せめて学者として間沼さんは佐野さんに同期するのではなくもっと違った回路を提示して欲しかった。「働く/働かない」という大きな土俵の中で「炭坑節」でも、「ヨイトマケの歌」でも俎上にあげて、「後ろめたい労働」に歌がないとしたら、そのような「歌のない労働」が原発労働に限らず一般的ではないか、ご当地ソングは一杯あるけれど、僕の知る限り、出版流通業界は先行き不透明で佐野さんの『本殺し』本の状況が進行しているが「本屋の歌」、「本屋節」もありません。でも本を売ることは後ろめたい労働とは思わない(笑い)。
紙の本
ひとのえがきかたには好感がもてるが,今後については不明なまま
2012/04/16 23:15
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災がもたらした津波と原発事故をテーマとした本はすくなくないが,この本は震災後に著者が会ったひとりひとりの人間をえがいている. さらに,原発に関してはそれを推進してきた正力松太郎やさまざまな政治家や東電などの企業人をいきいきとえがいている. 石原慎太郎など現在の政治家には批判的だが,これらの過去のひとは冷静にえがいているところに好感がもてる. だが,「いま私たちに問われているのは,これまで日本人がたどってきた道とはまったく別の歴史を,私たち自身の手でつくれるかどうかである」と書きながら,これからどこにどうやってむかっていけばよいかについては,ほとんどふれないままになっている.