紙の本
「カソウスキの行方」を読んで
2008/12/15 18:16
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:石曽根康一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
なまける、ということについて。
なまける、というのは、本当は100できるのに、
50あるいは、70しかやらないことをいう。
本来的に100できない人に対して、「なまけている」というのは、
言葉の使い方として間違っている。
津村記久子の「カソウスキの行方」は、主人公の兄が働かないことに対する、ベタなイメージが描かれていて安易だと思うのだが、ここに作者である津村氏の限界が表れていると思う。
自分というものがあって、「兄」という他者がいる。
そのときに、どう「兄」を扱うかによって、作者自身の人間観が表れてくる。
「カソウスキの行方」は職場を舞台にした小説で、どこか、「新自由主義的価値観」が底流に流れているように感じられる。
そして、それが作者の直接の声のように感じられて、作者の限界に思い当たる。
山崎ナオコーラや松尾依子にも言えることだが、
彼女たちが描く人間は、彼女たち自身の価値観を反映しているように思えて、ポリフォニックではない。
そして、その彼女たちの価値観というのが、少しでも思想や哲学に触れたことがある人間なら、気づくような深みを備えていない。つまり、浅い。
それに比べて、ドストエフスキーの描く作品には深みが感じられる。
ドストエフスキーと比べるな、と言う人がいるかもしれないが、作家は今まで書かれた全てのテクストと格闘しなければならないのである。それが作家が作家であることの使命である。
彼女たちはまだ若いので、自らの限界を打ち破るチャンスはいくらでもある。
「カソウスキの行方」に話を戻すと、主人公(≒作者)は「兄」をたんに「なまけている」と見ているように感じられる。
しかし、本当にそうなのだろうか?
本当は、働かないのではなく、働けないのかもしれないのだ。
そして、何らかの社会的な援助が差し伸べられるべきであるのかもしれない。
そういうことを描かずに、「母親は私よりも兄が大事」などと家族内の問題に矮小化してしまう。それが作品の奥行きをなくしている。
津村氏や山崎ナオコーラなども「半径3メートルのこと」を書く作家である。あるいは、そういう身近なことしか書けないのかもしれない。そういう世界の捉え方でも、深い人間の捉えかたをすることは可能かもしれない。しかし、今までのところ、そういった「深化」はあまり見られないと、個人的には感じる。
何度も書くように、彼女たちは、まだ若い。今の限界を打ち破るチャンスはいくらでもある。
そして、こういうときに僕は作者を育てていく、批評家がいればなと思う。一線の若手作家を批評する批評家。
出版社は作家を生み出すと同時に、批評家を生み出す努力もすべきだろう。
(追記)上記を書いてから、同氏の『ミュージック・ブレス・ユー!!』を読んだ。これは、少年・少女たちの世界だけを描いたもので、悪くはないが、少し物足りなさ、作者の人間観の提示という点で、そのような印象を描いた。筑摩書房から出た新作は再び大人を描いているようなので、読んでみて、機会があったら、また何か感想を書きたいと思う。
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カソウスキ、って何だろう、って思ってたら読んで解った。「仮想好き」です。こういう気持ちすっごいよくわかるし、私も同じようなことしそう。田舎の鬱屈さも、少ない描写から伝わってくる。
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仮想好きの行方も、花婿のハムラビ法典の行方も、ぼんやりしたままで、個人的に印象は薄く。ただ、描写が細かく細かくで、臨場感たっぷりでした。
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カソウスキとは「仮想好き」の意味だった。好きな人に妻子があったり、恋多きと男だったりと、ままならない世の中。身近な恋愛対象を消去法で仮想設定してみるというお話。30代の恋愛観ってこんなふうかもと思わせる。焦っているばかりでもなく、醒めきっているわけでもない、漠然とした満たされなさが主題。
「花婿のハムラビ法典」もgood。こういう結婚観もあるのかと思った。
短編ばかりの薄い本だが、とてもおもしろかった。
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表題作と他2編(『EveryDay I Write A Book』『花婿のハムラビ法典』)の3編からなる小説集。
カソウスキには、セイタカアワダチソウみたいな外来植物のような響きを感じたが、仮想好きということ。納得のいかない日常をとりあえず仮想したり、空想したり、妄想したりで乗り切るって、実感として理解できるので、素直に楽しめた話だった。
ただ、酢で髪を洗うとか、兵馬俑のノートとかちょっとエキセントリックな小道具を持ち出してみるというのは、個人的には好きな表現だけど、やや小道具に頼ってるようにも思う。
3つの中では『EveryDay I Write A Book』が心のひだをもそもそと表現して、いいなぁと思った。けど、話し言葉を大阪弁で書くのはどうなのかな、短編小説で。ダメだしではなく、もったいない。細かいニュアンスが、ネイティブ以外には伝わらないという意味で。
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高校生の頃によく詩のようなものを書いていた。それは最初、付き合っていた女の子を喜ばせる為に始めたものだったような気もするが、その子に詩を読ませることがなくなってからもずっと頭の体操のように言葉遊びは続けていた。その頃、自分の吐き出す言葉は女々しいという表現が適切な類のもので、それどころか女性の側に立ったようなものが多かった。単純な男の心理と違い、女の子の心理、特に負の側にいつまでも留まっていたいというような願望の見え隠れする心持を支える言葉の使われ方に、思いが巡っていたのかも知れない、と後知恵としては想い出して考えたりもする。「こんなにずばりと言い当てられると困る」という彼女の一言が自分の言葉遊びの原点だったのかも知れない。
どうもその頃から自分は女性の痛みと単純化して表現されるようなものに、共感を覚え易かったようだ。そのことをふつふつと、津村記久子を読んでいると想い出してくる。気恥ずかしさが衝動的に湧き上がるのを押さえ込んでいる自分の心の動きを感じながらも、淡い思いも併せて想い出してしまう。そして唐突に思うのだが、ジェンダー化された痛みを感じるのは必ず同じジェンダーに属するものでなければならないののだろうか。
津村記久子の小説に登場する女性の主人公は誰しも多分に中性的だ。実は中性的な女性にはほぼ無条件で惹かれてしまうので直ぐに感情移入しがちなのだが、主人公が最後にやっぱり自分は女だったんだなあ、と感慨に耽るのを見ても妙に共感するのである。それがジェンダーレスな共感なのかどうか、自分でもあいまいなのだ。
主人公は自己分析する。それ自体が珍しいとは思わないのだが、この自己分析がニュートラルなまま進行するという点が、津村記久子の小説に惹かれる原因かもしれない。その中間的な態度の保留が実に素直に気持ちよく響いてくる。そしてそのニュートラルさが、中性的な魅力というようなものに移り変わっていく。ああだから自分はこの主人公に共感してしまうのだなと思う。
結局ジェンダーレスなのでは、とこじつけて見るのだが、そのもやもやをストレートな男として自分が悩んでいることと同じようなもやもやをひょっとして女性である作家も抱え込んでいるのだろうか。あるいは松井冬子の絵のように痛みを「痛い」と大きな声で表現すること、津村記久子がそんな表現を始めたら、自分はやっぱりそのジェンダー化された痛みに共感できなくなるのだろうか。今暫く、この作家を好きでいたいと思うのだが。
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2006〜7年に書かれた3作が入った作品集。2008年2月発行。
表題作は、頑張ってOLしてきたのに、後輩のセクハラを直訴したのがあだとなり、30を前に倉庫勤務に左遷された主人公イリエ。
同僚の地味な独身男・森川を仮に好きなつもりになることで、やる気の起きない生活をやり過ごそうとする。
テンポ良くリアルで、辛いこともあるけど、ちょっとおかしい〜けっこうありそうな。
2作目の野枝は、一目で惹かれた男性・鹿戸がもうすぐ結婚すると知り、結婚相手がブログを公開しているために妙にはまってしまう。そんな話も出来る友人関係がけっこう楽しげ。
3作目は、結婚を前にした男ハルオの回想で、だらしがないところのある花嫁サトミに遅刻やドタキャンされたら適度にやり返す、といったゲーム的な交際のありさま。
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カソウスキは漢字で書くと「仮想好き」。
つまり仮に好きになってみる、ということらしい。
28歳のイリエは閉鎖対象の倉庫管理部門に左遷される。
後輩と上司のセクハラ騒動に巻き込まれた末、の出来事である。
倉庫会社には、イリエのほか、しっかり者で妻帯者の藤村、倉庫業務で見た目はいかつくて老けた感じだが一つ年下の森川がいる。あとは工場勤務のパートの主婦たちである。
単調な毎日にイリエは「カソウスキ」を思いつく。
イリエは森川のことを仮に好きになってみるのだが・・・。
最初は気にとめていなかった男の存在を「カソウスキ」になってだんだん身近に感じていく、という物語である。
タイトルをカタカナにしたのが良い。
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言葉がうまい、油っぽい肌質をOPEC(石油輸出国機構)と称してたり
ところどころひねりが効いていてニヤリとしてしまう。
内容が好きとかではないのだけど、なんか気になる作品だった。
特に表題の、「カソウスキの行方」のイリエはいいね。
ラストのメールはアホだと思った。
でもこんなメール打てるの羨ましい。
なんとゆぅか、今の自分の状況だからこの作品に★4つけちゃうのかな。
何年後かに読み返したらまったく同調できないかも。笑
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泣いていませんように、とだけ、イリエは願った。本当に、まじめなことはそんなにいいことじゃない。自分の言ったことを忘れられないようなたぐいの。簡単にそれを撤回することはできないような。
(P.71)
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カソウスキ=仮想好きっていう感覚はわかる気がする。
とりあえず、「好きな人」を作れば、その空間が楽しくなるような気がするもの。
本当は好きと仮定する前に好きになれればいいんですけどね。
3つお話があるけれど、どの主人公も癖があるけれど、共感できるところが多くて。
おおざっぱに言ってしまえば、おそらく傷つきたくないんだと思うのです。
でもその「癖」のせいで傷ついてしまうんだけど、癖なんてなくせないもの。
やっかいだなぁと思うのです(なんか自分に置き換えている気がする)
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著者の、この淡々とした感じが結構くせになる。
3編収録ですが、「Everyday I Write a book」がけっこう好きです。「花婿のハムラビ法典」も好きだけど。
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カソウスキの行方・・・地方の倉庫に飛ばされたイリエは、冴えない森川を好きだと仮想し、なんとか日々を過ごそうとする。でも自分に良い事があると、森川に悪い事がある、、と気づく。
Every day I write a book・・・ちょっと気に入っていた人の妻のブログを見続けるのが、やめられない。なんかわかるな~
花婿のハムラビ法典・・・忙しくハルオは二の次の、サトミ。この話し正直よくわからない。でも、サトミが良いの・・・よね。
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郊外の倉庫管理部門に左遷された独身女性・イリエ(28歳)は日々のやりきれなさから逃れるため、同僚の独身男性・森川を好きになったと仮想してみることに…。第138回芥川賞候補作。
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ミュージック・ブレス・ユーを読んで以来手をつけなかった津村氏の本。一日で読了。とても読みやすくて、言葉の選び方も遊びがあって、主人公たちの日常が書いてあるだけなのに引き込まれてしまいました。なんでもないようでいて、それぞれ抱えている悔しい気持ちなんかが丁寧に書かれていてさらりとした読後感でした。