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本書で展開される批判に同意するとともに、そうした自身の感想というものの幾分かは、やはり哲学や社会科学の門外から、必要十分な訓練を経ない状態/良くも悪くもコオプタシオンを経ない状態で安易に足をつっこんで、その界に固有の歴史が成したところの概念の使用に(至当にも)困惑させられ挫折させられた、そういう経験から出ているのではないか、とも感じる。
またP.ブルデューやJ.ブーヴレスが彼らの著作のなかで「ソーカル事件」について触れているものを読むと、この「事件」の社会科学界での意義についてより多くを知りたいと感じる。
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古典的名著。難解窮まる衒学的な文章が実際に意味不明でした!と解き明かしていくのいかにも小気味が良い。
ただ攻撃する著者をあれこれ変えてはいるが、基本的にやっていることは同じなので次第に飽きる。あとはポストモダニズムや真理相対主義の最悪の一面をことさらにあげつらっているのではないか、という疑念が。
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ソーカル事件の人によるポストモダン批判の本。
ラカンからドゥルーズ=ガタリまでポストモダンの代表的論者を取り上げ、彼らの使う科学的な用語や概念のあれが間違っているこれを理解していない、とやり玉にあげる。内容的には、ふーん、そうなのね、くらいで面白いものない。
だけどソーカルが投げかけたのは、学問的な誠実さ、さらにいえば知的誠実さに関わる問題だと思う。誠実さがなければかつてのニューアカのようにただのファッションでしかなくなる。それは学問に何らかの形で関わるすべての人に問われる話だと思う。
結局のところ、浅田彰の「明晰にできることはできるだけ明晰に」をどれだけ地でいけるか、ここにかかっているのだろう。
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溜飲が下がる・・・とは、このことだろうなぁ。
若い頃は、もうポストモダニズムは「わからない」とあきらめ、それでも、クリステヴァはきっと「意味のあること」を言っているに違いないのだから、・・・ボクがバカなだけだ・・・、と思っていた。
もちろん、クリステヴァがはるかに賢いのでしょうが、賢い人こそ、賢こぶらないことがいいに決まっている。
ボクの生涯の中で、王様は裸だと言ってくれる著者のようなヒトに出会えて本当に幸せだと思っている。
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文庫になっていたので今さら読みました。
大学受験時代、小○秀○が現代文の世界を席巻していて、過去問も例題も彼の著作ばかりで、そして僕は全く理解できなかった。そんな現状に対して自分の出した回答。みんな理解できないもんだから、凄いことが書いてあることにしているだけなんじゃ・・・?それと全く同じことが書き連ねてありました。曰く、裸の王様。もっとも、某氏の著作が裸の王様なのかどうかは別の問題ですし、それを判断するために、某氏の著述をもう一度読み返してみる気もないのですが。少年老い易く学成り難し。読みたい本はたくさんあるしね。
それにしても徹底的な批判というかいびり倒しというか。これに近い空恐ろしさは、デネットの「ダーウィンの危険な思想」を読んだ時にも感じたな。敵に回してはいけない相手。ただデネットの時と違って、正直、高校物理程度の知識しかない自分には、著者らの批判の正否を判断することはできなかったので、そこが悔やまれる。
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線形とか虚数とかカオスとか連続性とか、ポストモダンの人たち数学とか量子力学とかわかってねーの、だっせー。
とかいうのがこの本の主旨ではなくて。
・自分でもよくわかってないような言葉や概念を使って、より難しくして説明したいことって何?何の中身もない、スカスカの当たり前なことしか言ってないじゃないか。専門用語と日常の用法で混乱してるだけでしょ。難しくて曖昧にすればかっこいいとかやめなよ。
・科学は批評対象のテクストじゃないよ。科学の理論は世界を解き明かすけど、それが世界を作り上げたわけじゃないし(理論ができる前から世界はあるんだし)、経験を積み上げて生き残ったり修正したりして「正しい」としてきたものなんだよ。何かを客観的に「正しい」としてるからって攻撃するなよ。そういうテクストとしての批評では科学の理論が変わることはないんだから意味ないよ。
・自然科学の理論や方法論の現実的、経験的な部分を無視して、枠組みだけ持ってきて社会科学を当てはめて客観的にしようとしても科学的とは言えないよ。それでうまくいかなかったからって自然科学を叩くのやめなよ。
・科学に軍事主義とか性差別主義とかあるにしても、科学そのものを批判することはないよ。
・「真実」と違うことを信じている人がいるからといって、なんでもかんでも正しいことにしてたら、性差別も人種差別も極端な民族主義や経済学の流派も「正しい」ことになるよ。左派の知識人なら支配的な言説から神秘を剥ぎ取れよ。自分で神秘を付け加えるなよ。
5点目はまさに、先日の橋下さんの慰安婦発言と東さんの反応のことだと思うし、在特会が言う在日特権の偏見やアフリカの女性器切除への貞操の幻想に対抗するのも、歴史と国際関係や宗教と医学への合理的で科学的なやり方だと思う。
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デタラメなパロディ論文がカルスタ雑誌に採用された事で、ポストモダン哲学に対する痛烈な批判となったソーカル事件。その反響を受け、現代思想の哲学者たちが科学用語をいかに誤用しているかを明らかにしたのが本作。間奏の認識論的相対主義に対する批判も含め、一貫しているのは知に対する誠実さなんだと思う。インパクトの強さもあり同書は読まれる事無く語られる事も多いのだが、やはりそれはソーカルの趣旨に反する行為なのだろう。しかし60年代フランスって何であんなに小難しいんだろうね。後半ソーカルさんも投げやり気味なのが笑える。
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[ 内容 ]
科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。
名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。
人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか?
著者らが目指すのは“サイエンス・ウォーズ”ではなく、科学と人文の間の真の対話である。
[ 目次 ]
1 はじめに
2 ラカン
3 クリステヴァ
4 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
5 イリガライ
6 ラトゥール
7 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
8 ボードリヤール
9 ドゥルーズとガタリ
10 ヴィリリオ
11 ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
12 エピローグ
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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ポモは、それが学問として妥当であるかどうかについて専門家の間でも意見が別れるんで、凡人は深入りしちゃいけないしできない、才能のある人向けのものだと思っている。ソーカルの議論は興味深いのだが、引用されているところは読んでもわけがわからないので結局読み飛ばしてしまう。また、ソーカル自身もこの本は包括的ではないと言っているのだが、科学用語の濫用以外の観点から書かれたものもほしいと思う。関心があるのはむしろ人文学の科学性なのだが、ポパーとかみたいな科学哲学は、基本的に自然科学の話しかしていないのだし。
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ポストモダンという人文系の学問領域における一部の思想家によって繰り返し行われていた、著作内での自然科学の概念や用語の濫用を痛烈に批判した本。背伸びして読んだ。ソーカル事件が布石になっている。批判されている思想家の著作の長い引用(の日本語訳)が多くあるが、よくこんな意味の通らない文を書けるなと思った。その思想家たちが何を思いながら論説を展開していたのか想像すると、映画パプリカの博士発狂シーンを思い出してしまい怖かった。逆にちゃんとした哲学や思想史もいつか学びたい。
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第5章で取り上げられる「イリガライ」の章が特に傑作だと思いました。
なにしろイリガライの著作の引用文が群を抜いて意味不明で、この本のエッセンスが凝縮されていると思いました。
大学の文系講義で難解なテクスト分析をやらされた経験のある人ならば、特に愉快に読める本だと思います。
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めちゃくちゃ面白かった。
ただソーカルの告発だけでポストモダン思想家たちの主張を一方的に断罪することは避けたい。
ファッショナブルでナンセンスな言説がなぜ生まれ、大衆に広く流布したのか。
ラカンとその思想を学んだイリガライの章が特に激烈だった。
言葉を蔑ろにしないための戒めとして、何度も再読したい本だと思います。
リベラル的思想を基盤に広く人気を得たはずのポストモダン思想家たちの主張や行動が、逆説的にリベラルの首を絞めていくという、後半のポリティカルな分析にはやられた。
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勃起性の器官は、記号表現の欠如の機能、つまり(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。...私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種の測り知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです(無理数と虚数の混同, 高2数学)。ラカン
主体=患者は彼の単一性をすでに保証されている。意味生成における「点∞」への彼の逃走は止められている。たとえば通常の空間R^3上のある集合C0 -- そこにはR^3上のあらゆる連続関数Fとあらゆる整数n>0に対してF(X)がnをこえる点Xの集合が有界なのだが--のことが考えられる。変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づくのであるから。この圏において、C0のおかれた主体=患者はラカンが言及し、彼が主体として自身を喪失する「言語の外なる中心」に到達しない。すなわち、トポロジーが環として指示する関係の群を表現する状況である。クリステヴァ
存在しない女は、以下の役割(のみ)を担うことになったにちがいない。まず、体系の全体性--この全体性を彼女は自己の「すべてより大きいもの」により超過している--を保障するための射影面という役割、次に、いまだ不確定な《概念》も含めて、「すべて」の諸《概念》各々の外延により「すべて」を評価するための幾何学的支え台という役割、さらには、《言語》における諸概念定義間の固定され凍結された間隔という役割、最後には、これら《概念》間の特有関係確立の可能性という役割である。イリガライ
発話者の利益を考えることで、はじめて相対主義と相対性理論の相違のもつ深い意味が明らかになる。...発話者こそが、彼が観測者を派遣するすべての現場からのすべての情報を集積する特権をもっている。ラトゥール
われわれの複雑で、超静的で、ウイルス的な系はもっぱら指数的次元に、偏心性もしくは離心性に、不定のフラクタルな分裂増殖に捧げられてしまっていて...宿命的なものの可逆性と完全解決から逃れられないのではない...カオス理論において、逆の、しかし同じように驚くべき現象である初期条件への敏感不足性に、つまり原因にとの関係における結果の逆の指数関数性--蝶の羽ばたきに終わる潜在的ハリケーン--に関心の払われたことがあっただろうか。ボードリヤール
できごととしての特異性は、ひとつのシステムとして組織される異質なセリーに対応している。このシステムは...《メタ安定》であり、セリー間で差異が配分される潜在的エネルギー...パラドックス的要素がセリーをめぐり、共鳴させる限りにおいて動的で転位しており...有機体は、外部の空間で拡がるように内部の空間で結集し、同化し、外化することをやめない...皮膚は、まさに表層的な生命の潜在エネルギーを持っている。ドゥルーズ
線上に並んだ有意的な鎖の環...多指示的・多次元的な機械状の触媒作用との間...排中律の論理から...創造的オートポイエーシスの閾を踏み越える...フラクタルの対称性を...アレンジメントをエネルギー的・時空的座標の外に逃して...時間の退行的平滑化をも含めて...過程的で、多声的で...仮想的組成を動かす無限の速さ次第で...空間と時間のエネルギーの一視点を集束...ビッグバンについての宇宙論的...クォークの尺度で形成されるような認知可能性...機械圏は、仮想性の場の中に存在する無数の形状... ガタリ
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ポストモダン思想(フランス現代思想)の論文で自然科学(数学・物理)の概念や用語が濫用されている。▼用語の意味をろくに理解せずに自然科学の用語を誤用。無関係な文脈に専門用語を投入して皮相な博学ぶりを誇示し、科学を知らない読者を威圧する。▼自然科学の用語を概念的・経験的な正当化を行わずに人文科学や社会科学に持ち込む。厳密な意味をもつ数学の概念を、人文社会科学の曖昧な概念の説明に無理やり応用(曖昧なアナロジー)。心理学者が彼らの分野で「観測者は観測の対象に影響を及ぼす」ことを主張するとき、量子力学を持ち出す必要はない。▼実際には全く意味のない言葉や文章をもて遊ぶ。言葉の意味について無関心。専門用語に中毒している。不明瞭なものがすべて深遠なわけではない。わざと分かりにくい書き方をして、中身がないことや凡庸なことを用心深く隠蔽。曖昧な言説で人を幻惑する。言葉遊び。▼メタファーを使うのは馴染みのない概念を馴染み深い概念と関連させることで説明するためであって、その逆ではない。自然科学は人間科学ですぐに使うことのできるメタファーの倉庫ではない。科学の理論は文学・小説ではない。▼難解かつ尊大な文章を並べ立て、深遠な内容を扱っているかのように見せかける。人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを施して「科学的な」体裁を作り出す。ファッショナブル・ナンセンス(原題)。▼ポストモダニズムの認識的相対主義、正しいか誤っているかを問わない主観的な信念への過剰な関心、議論しているはずの事実よりも言説や言語を重んじる傾向。ポストモダニズムの著作から醸し出される知的不誠実は、知の世界の一部を毒し、すでに一般大衆の間に蔓延している軽薄な反主知主義に拍車をかける。アラン・ソーカル『ファッショナブル・ナンセンス』1998
※アラン・ソーカル。数学教授(UCL)。物理学教授(NYU)。
※学術雑誌『ソーシャル・テクスト』(フェミニズム、マルクス主義、ポストコロニアリズム、ポストモダニズム、クイア理論)。この雑誌にアラン・ソーカルがポストモダニズムっぽいデタラメ論文(『境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて』)を投稿。査読に通り掲載された。『ソーシャル・テクスト』の編集者は1996年イグノーベル文学賞を受賞。受賞理由は「著者たちが無意味なことを語り、現実など存在しないということを主張する論文を、理解できないままに真面目な顔で出版した」功績。