紙の本
虚構と現実が重なる
2017/09/19 05:49
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
「続けている公園」はマジックリアリズムの傑作です。個人的には「山椒魚」のユーモアセンスも大好きです。
紙の本
悲しみのない世界
2014/01/26 16:02
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
不条理はある。そう納得してしまえばいいのだ。
不条理な世界こそが自分の生きている世界だと、誰もがそう識っているのではないか。
水族館で気に入っている「山椒魚」の水槽を覗き込んでいると、次の瞬間、山椒魚になった自分を見つめている男の眼に気付く。そして自分が山椒魚になったことに満足して、男が去っていくのを見送る。かつて自分だった男が生きる世界のことを思う必要は無く、山椒魚としての視界こそが完全で合理的な世界なのだ。
「遊戯の終わり」の子供たちは、もうじき病気で死んで行くという不条理を迎えながら、淡々といつもの奇妙な遊びを続ける。少年も少女も粛々と運命を受け入れているように見えるが、ほんの少しだけぎこちない態度がにじみ出てきて、そこに切り裂かれるような悲しみが隠されていることに気付く。
「動機」不合理な殺人を冒した男は、復讐のための殺害という行為による満足さえ得られれば、その相手が正当かどうかは頓着もしない。つま誰しもそうなのだが、自分こそが世界に不条理をもたらしている発信源なのだということは、まったく意識に上らないというわけだ。あるいは「殺虫剤」の少年は、その純粋さゆえに、自らの残酷さに自覚的であり、それでいてただの記憶の1ページとして通り過ぎていく。少年にはその残酷さと、忘却が必要なのだから。
あらゆる人が、少しだけ不合理な行為をし、少しだけ時空が歪み、その集積で世界は不条理の度合いを増すのだ。だからそれは受け入れられなければならない。そう納得しなければならない。何も不満を持たずに生きていかなければならない。
各作品はもっとバラエティに溢れているが、生きていくことの困難や変転の奥底にある、人には制御できない何ものかの存在を見つけ出してくることが、この作者の文学であるように思える。独裁と混迷の母国アルゼンチンの社会を見つめた結果、生まれたのがこれらの作品であるとすれば、幻想、あるいは悪夢といった枠では収めきれない、確かに現実の実相を捉えているはずなのだ。
紙の本
複数の人間が互いの愛を求め合う立場で対峙するときに生じるきしみ
2013/04/11 17:28
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投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
1956年発表というのだから、パリに来てまだ五年しかたっていない頃の作品である。掌編といってもいいほど短い作品も混じっているが、とてもとても習作などとは呼べない完成度を見せている。とはいえ、まだどこか初々しさすら感じさせる初期短篇集。
日常の何気ない、出来事ともいえないような些事の中に潜んでいる「向こう側の世界」への裂け目を見つけるのが、コルタサルは巧い。「誰も悪くない」は、待ち合わせ中の妻のところにかけつけようと、急いでセーターを着かけた男のいささか滑稽な情景を描いている。あわてていて通すところをまちがえたのか、なかなかセーターが着られない。手や頭が外に出ないので、身動きが取れなくなるなどというのは、誰でも一度や二度は経験があるにちがいない。ただ、それがコルタサルの手にかかると、背筋が寒くなるような怪談に変わる。自分の意思に逆らって、わが身を絞めつけ絡めとろうとしてくる何かに対する不安が、現実の世界を異界に変える。
「ねじこむように手を通してゆくと、わずかだが通ってゆき、やっと青いセーターの袖口から指が一本のぞいた。夕方の光を受けたその指は内側に折れまがり、皺だらけで先には尖った黒い爪がついている。」
セーターが異界との通路と化し、そこを通り抜けた手は、最早自分の手でありながら魔物のそれのような禍々しい形状に変貌を遂げている。あわてて抜くと別段変わったこともない。セーター(通路)の入り口に戻ったからだ。安心して頭も左手もセーターの中に入れてしまうと、再びセーターの外に出た右手はさらに勝手な動きをしはじめ、ついには左手に噛みついたり顔を引っかいたりしはじめる。外側から見れば踊りでも踊っているように見えるが、内側では恐ろしい混乱が生じている。セーターと右手のない世界に逃れようとした男を待っていたものとは。
自分の中にあって、自分の自由にならないものを、人は誰でも持っている。多くの人はうまくそれを誤魔化し、それと折り合いをつけ、気づかないふりをして世間を渡っているのだ。しかし、感受性が強かったり、神経質すぎたりする人は、それに目を瞑っていることができない。それは恐怖であり、苦痛だから。
コルタサルの世界は閉じている。すべては独白の世界だ。対話形式であっても相手はもう一人の自分に過ぎない。他者の入り込む余地のない自閉空間。水族館の水槽の中にじっとしている山椒魚を毎日毎日飽かず見続ける「山椒魚」の少年は知っているのだ。その山椒魚が自分であることを。バスの中で幼い頃の自分そっくりの少年を見つけ、仲よくなる「黄色い花」の男もまた、それが小さい頃の自分に他ならないことを知っている。しかし、それを他者にどう分かってもらえばいいのだろう。少年はふと思いつく。どうせ他人はそれをまともに受け止めない。それなら、いっそ「奇譚」として語ればいいのだ。こうして一人の幻想小説作家が誕生する。
幼い頃父が出奔し、子どもを親戚に預けて働く母の女手一つでを育てられたという。そのせいか、コルタサルには少年時代を描いた作品が目立つ。本作の中では、「殺虫剤」「昼食のあと」「遊戯の終わり」がそれに当たる。どれも少年時代の心のふるえが伝わってくる優れた出来映えをみせている。孤独であるからこそ、人一倍他者に認められたい気持ちが強くなる。複数の人間が互いの愛を求め合う立場で対峙するときに生じるきしみに異様に敏感な少年少女の心理を描くとき、コルタサルの筆は余人の追随を許さない。
ともすれば自分の心の闇に怯え、他者との関係の難しさに挫けそうになる、若い時代に読みたかったと思う短篇集である。
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銀座の教文館で買いました。
(2012年7月24日)
読み始めました。
(2014年5月2日)
新大阪から品川に向かう新幹線の中で読み終えました。
(2014年5月3日)
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学生の頃に国書刊行会版を読んで以来だから、15年ぶりぐらいに読んだけど、破壊力がより増している感じがする。
こんなに面白かったっけ?
なにより「山椒魚」が白眉。
描写することが対象に没入することと同義であり、ついには語り手がその対象自体に「変身」してしまうという徹底ぶり。論理的かつ官能的。語り手たるもの、すべからくこうでなければいけない。
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随分前に読了したのをあえて思い出す気はないのだけれど、やはり『山椒魚』は印象に残っています。カフカはよく読んでいるせいか、なんとなくカフカ的な世界に踏み込んでいくイメージだけれども、コルタサルはずるずるといつの間にか引きずられている感じ。岩波文庫の新刊も読ませていただきます。
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いわゆる奇妙な味の小説集。アルゼンチンの作家だが、南米作家特有の土俗的な荒々しさよりヨーロッパ的な洗練が目立つ。題材、形式ともに変化に富んで、楽しめる。
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1956年発表。
1977年刊行、国書刊行会ラテンアメリカ文学叢書5 の文庫化
今日は冒頭の「続いている公園」と「誰も悪くない」。前者は4ページほど。コルタサル作品の精髄を凝縮したようなメビウスの輪。後者はセーター着るのが上手くいかなくて自殺した男の話…って書くと無茶苦茶だけど、セーターの中に顔を突っ込んで自分の身体が見えなくなると、右手も左手も自身の制御を越えて他者となる…という、これまた非常にコルタサルらしいテーマ。
(2021 07/29)
今日は「河」と「殺虫剤」を。
「河」はまたひねくれたメビウスの輪。実際は彼女はベットにいるのか、河に身投げして水死体なのか。
「殺虫剤」はとある少年の繊細な動き。妹、親戚の男の子、女の子の友達、隣家の相性のよくない三姉妹…といった子供環境が、叔父の買ってきた蟻退治の殺虫剤と絡んで…という話。
巣穴は地面の下を縦横に走っているが、それを見た人はいない。脚の血管みたいに皮膚の上からは見えない。だけど、その中を蟻と神秘が行き交っているのだ。
(p36)
(2021 07/31)
「いまいましいドア」と「バッカスの巫女たち」
…を、昨夜読んだ。前者はホテルの怪談、後者は指揮者とオケが聴衆を狂気に陥れる話。
(2021 08/02)
第二部? 「キクラデス諸島の彫像」より
つまり、考古学者というのは自ら探究し解明した過去と多少とも一体化する。
(p92)
(2021 08/03)
上記の日にこの短編読み終え。若手考古学者の三角関係と、古代がのりうつったようなマッドな友人との諍いでその友人を亡くしてしまった考古学者が、恋人をその部屋で待っている間に凶器の斧を研ぎながら待っている、というラスト。思うにコルタサルの脳裏には最初にこのラストの情景が浮かんだのではないか。考古学の背景とか最初に狂気に陥る友人とかは、最初に浮かんだ情景を語るための後付けなのかも、とか考えてみた。
とにかく、落語の「へっつい幽霊」と「宿屋の仇討ち」を足して2で割ったような「いまいましいドア」や、モラヴィアとかデーブリーンのシュール短編と読み比べてもよさげな「バッカスの巫女たち」等、今のところ「ラテンアメリカ怪談集」という感じ。この短編集終わるまで路線変わらないのかな、そんなことはないように思うけど。
(2021 08/04)
時間、劇場、ハードボイルド
「黄色い花」「夕食会」「楽団」「旧友」「動機」「牡牛」まで、第二部終わり(「黄色い花」のみ前に読んだ、あとは今朝)。
前2つが時間の揺らぎ系、「楽団」は「バッカスの巫女たち」と似た劇場がカオスになる話(コルタサルは劇場にオブセッションがあるのだろうか)、あと3つはボルヘスにもあるハードボイルド系(それぞれ、ギャング内での暗殺、殺された友人の仇をうつためのマルセイユへの船旅、怪我?をしたボクサーのとりとめなき回想)。
時間揺らぎ系について、「黄色い花」はある子供に自分の経験が一致するのを見る話。似たような体験は多いとは思うけれど、それを思い込むと別��界が広がる。「夕食会」は書簡形式。冒頭の夕食会に誘う手紙の次に夕食会で起きた諍いについての相手の手紙が来るが、よく見るとその手紙の日付が前の手紙の前日。そこに先の諍いの当事者の一人が自殺して…というもの。全体の謎解きはできていないのだが、ひょっとしたらコルタサル自身が謎解きを放棄している可能性も。とりあえず諍いを知らせてきたローハスが鋭敏な霊感の持ち主だということにしておこう。
最後に「楽団」から。
実際に見ていると、とても信じられないが、やはりあれは紛れもない現実だったのだ。こうして時間をおいて考えると、それがよく分かる。彼が見たのは確かに現実なのだが、同時にそれはまやかしでもあった。まわりのものすべてがどこか狂っているように思われたが、もうあまり気にならなかった。自分は別世界にいるのだ、そう考えると、街も『ガレオン』も、紺の背広も、今後の予定も、オフィスでの明日の仕事、貯蓄計画、避暑、ガールフレンド、中年になること、死を迎えること、なにもかもがその世界の中に組み込まれており、当然のことに思われた。
(p137-138)
現実とまやかしの区別は、本当は存在しないのかもしれない。
「水底譚」
暇を持てあましてぼんやり酒を飲んでいたが、ああいう空ろな気持ちというのはどうしようもなくぼくたちを追いつめるものだ。そこには、憎悪というよりももっと微弱で仕末の悪い、嫌悪感みたいなものが弥漫していた。
(p180)
古代から大気の中に微弱に伝わる何か、それはゆっくりとしかし着実に人の心に浸透していく。「キクラデス諸島の彫像」と作用は同じものなのかもしれない。
ブエノスアイレス郊外の川の中洲らしいバンガロー。そこに友人マウリシオが尋ねてきて昔の回想話をする。若い頃の賑やかさと倦怠感、水死体として川を流れる自分自身を見た悪夢、その夢を別の友人ルシオに話したこと、ルシオは「俺の夢の場所を奪ったな」と切り返す。
通常、語り手とマウリシオの場面は枠構造の外側として、内部の話、語り手とルシオの場面とは干渉しないはずなのだが、この作品ではその枠が歪み干渉を許しているような気がする。
夢の中まで追ってきて、にやにや笑いながらぼくたちをどこまでも追いつめる証人、きみはあれに似ているよ。
(p174)
続いて「昼食のあと」「山椒魚」「夜、あおむけにされて」の3編。
「昼食のあと」は両親の依頼で「あの子」を散歩に連れて行く話…話はいろいろ続いていくのだが、そもそも「あの子」って誰?というか何? という冒頭の読者の疑問を置き去りにしたまま続き、終わる。「遠い女」にあったバスの話もそうだけど、ここでの市電もコルタサルにとって特別な文学装置なのだろう。
「山椒魚」…これと次は異世界へと語り手が移る話、こちらが「静」で、次のが「動」。
はじめて山椒魚に出会った時、彼らのいかにも平静な様子に惹かれて、思わずぼくは身を乗り出した。その時、彼ら山椒魚の秘めた意志、つまり一切に無関心になりじっと動かずにいることによって、時間と空間を無化しようとする彼らの意志がおぼろげながら理解できるように思えた。
(p204)
こうした作品を読んでいると、コルタサルは動きの激しい現代に耐えられないような人だったのかな、とも思うけど、実際のコルタサルはそうでもないような気もする。この作品にとっては「ぼく」と「彼ら」の移り変わりも読みどころの一つ。
「夜、あおむけにされて」…バイク事故で入院している男、その男の見るアステカ人たちに追いかけられ、捕まり生贄にされる悪夢、これが交互に現れるのだが、徐々に悪夢の比率が高くなってきて…「すべての火は火」も現代と古代が交互に現れる作品だけど、あちらは確か元々違う世界を交互に書いていたのが接近し合う話で、文量の比率もほぼ同じで変わらなかったような記憶がある。
という現代と悪夢の交代が話の主軸とすれば、以下の文はそれとは異なり、そうしたコルタサルの創作の原動力を僅かに示している文ではないか、と思う。
その空虚、ポッカリ口をあけたその穴は永遠のように思えた。いや、あれは時間といったものではない。むしろ、その穴に落ちた時、何かを通り抜けた、とてつもない距離を走り抜けたような感じがした。
(p221)
というわけで最後は表題作「遊戯の終わり」。
この短編集の「殺虫剤」や、カルヴィーノの「魔法の庭」のような、少年少女期の、そして終わりの物語。後者は特に線路が出てくるということで共通点が多い。
私たちはルトおばさんに呼ばれているからと言って立ち去ったが、彼女はひとりレモンの木に群がる蜂を見つめていた。
(p243)
3人の少女のうち、視点人物は「私」なのだが、物語の中心はここでいう「彼女」であるレティシア。病弱であるけれど、一番恵まれていて、なおかつ線路際の彫像・活人画ごっこで少年にみそめられるのもレティシア。「私」とオランダ(もう一人の少女の名前)は彼女と少年の間の手紙のやり取りを想像して見守るしかなく、そこで「終わり」となる…何が?
最後は解説から、オクタビオ・パスのコルタサル評。
詩はユーモアと境界を接し、-審判官であると同時に共犯者でもある-コルタサルの目は、事物や人間のうちに潜むグロテスクな側面を鋭く見抜く。
(p251)
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印象に残ったのは
意識が山椒魚と入れ替わる不可思議な変身譚「山椒魚」、
悪夢から目覚めて悪夢に落ちる日常と非日常の切り替わりが鮮烈な「夜、あおむけにされて」、
そしてこんなに瑞々しくも切なく苦い物語も書けてしまうのかと驚愕した「遊戯の終わり」など。
『居心地の悪い部屋』にこっそり並べても違和感ないんじゃないかと思える「誰も悪くはない」に
ボクサーのモノローグなど、テイストもさまざまな短篇が収録されていて、
次はどんな物語なんだろうと読み進めるのが楽しかった。
「昼食のあと」「キクラデス島の偶像」も好き。
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続いている公園★
誰も悪くない
河★
殺虫剤
いまいましいドア
バッカスの巫女たち
キクラデス諸島の偶像★
黄色い花★《輪廻の歯車に狂いが生じ、時間に襞がよってしまった》
夕食会
楽団
旧友
動機
牡牛
水底譚★《灯心草はまるで人の手のように》
昼食のあと
山椒魚★《神秘的な人間性を無化しえずにいるひとつの変身》《彼らは幼生だが、幼生とはすなわち仮面であり、幻であるということなのだ》
夜、あおむけにされて★
遊戯の終わり
夢と現実が入れ替わる。「続いている公園」「山椒魚」「夜、あおむけにされて」などの系譜。
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高めの星3。全18篇のうち「続いている公園」と「夜、あおむけにされて」の2篇が、『悪魔の涎・追い求める男』と被っているが、訳文が微妙に変わっていて面白い。
それはさておき、収録内容で比較すると、ベストセレクション的な『悪魔の涎〜』のほうが圧倒的に秀逸ではある。
とは言え、本書にも何篇か傑作が収録されている。私的趣味で「バッカスの巫女たち」「キクデス諸島の偶像」「夕食会」「水底譚」「山椒魚」そして「夜、あおむけにされて」。
なかでも「キクデス諸島の偶像」と「山椒魚」がとても印象深い。
それにしても、だ。昔教科書に載っていた井伏鱒二の「山椒魚」、カレル・チャペックの「山椒魚戦争」そしてコルタサルの「山椒魚」……それぞれ全く違う話しながらふと思う。山椒魚って、作家にとってどんだけ魅力的なのかと(笑)
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夢と現実、日常と非日常の切替わりが、淡々とした筆致で描かれている。
しかし、子供を主人公とした話ではその切替わりが見られない。夢か現実かという揺らぎが、外側に出ることなく身体の内側で起こっているように感じる。
コルタサルは、「大人」と「子供」をはっきり区別して捉えているんだろうなと。
そういう意味で、幼い自分との出会いを描いた『黄色い花』はキーになる話だと思った。
『誰も悪くはない』『殺虫剤』『バッカスの巫女たち』『黄色い花』『遊戯の終わり』がお気に入り。
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個人的に好きな作品は「誰も悪くない」だ。
ブルーセーターという言葉があれほど不条理な記号として機能するとはすごい。
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大半が、よさが分からない。
遊戯の終わりは分かりやすい。幼年期の終わり。きっかけ、機微
山椒魚は、言いたいことは分かるし、解説で書かれていることもわかるけど、手放しで誉めるほどでもない
印象に残る
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本書を読んでいると「それまで堅固で安定しているかに思えたまわりの現実世界が、突然揺らぎはじめ、足元から崩れてゆくような感覚に抱かれる」。解説より。『続いている公園』『バッカスの巫女たち』『殺虫剤』『山椒魚』がよい。