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商品説明
イデオロギーの呪縛を免れえない映画作品と、芸術的革新によって呪縛からの離脱をはかろうとする映画作家。多様な映画テクストの複数の連鎖を描き出し、芸術とイデオロギーが織りなす複雑なコンテクストを浮かび上がらせる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
加藤 幹郎
- 略歴
- 〈加藤幹郎〉1957年長崎市生まれ。筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科単位取得満期退学。映画批評家、映画学者。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。「映画とは何か」で吉田秀和賞を受賞。
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紙の本
映画学者加藤幹郎による、日本の映画世界への果敢な挑戦
2012/01/28 10:56
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画研究でありながら映画批評であろうとしている、そんな風に感じる。毎月書店にならぶ映画雑誌に載るものは映画研究ではなく映画批評であり、また大学の教師が紀要などに書くものは、ふつう批評のもつしなやかさを欠いている。アカデミズムの世界では、最新の映画が対象となっても堅苦しさをまぬがれるのが難しい。とはいえ本書のなかで《世界屈指の映画批評家》と形容されている蓮實重彦は、一昔前に映画批評の世界に新しい波を起こし、大きな影響力を行使したが、どちらかといえば映画研究の人ではない。映画研究自体の歴史が、映画批評のそれにくらべて、はるかに浅いのだ。
さて本書には繰り返し「世界映画史上では」「日本映画史で」といった言葉があらわれるが、この言葉は一方で、しかじかの映画を世界あるいは日本の映画史のどこかへ位置づけようとする映画研究の語彙であるとともに、もう一方で、性急に野心的に対象としての映画の魅力に狙いをさだめようとする映画批評的なエクリチュールから生じたものではないか。
《『残菊物語』は……一九三九年にして日本映画が世界映画史上、最高の芸術水準に達したことを示している》という書き方で、著者はあまりにも単純に、溝口健二のこの映画が世界のベストだといっている。当然なことにそれは日本映画の最高峰であり、この映画にさかれているページの多さもそれを裏付けている(書き下ろしが主であるなかで、この部分は先行する溝口健二論集が初出)。そしてこの『残菊物語』論は、その分析の確かさと、感動を掬う言葉において、映画研究でありつつ映画批評ともなっている、そういう印象をもつ。
とはいえ前述の「世界映画史上では」とそれに類する言葉が、本書にあまりにも多いのは少し気になる。意図的に頻出させたのでなければ、対象への性急な意識が書かせたのであろうが、世界の映画批評史ないし映画研究史のなかで、一冊の書物にこれほど「世界映画史上では」が登場したことはない、と言いたくなるほどである。
私が感心したのは、わずか1~2ページで片づけている、たとえば曽根中生『嗚呼!!花の応援団』論や藤田敏八『海燕ジョーの奇跡』論だ。著者の対象への熱が感じられて気持ちいい。
本書は1933年から2007年にいたる75年間の日本映画を論ずるにあたって、毎年一作、監督がダブらないかたちで選びながら、随時それ以外の映画にもふれる構成をとっている。だがタイトル代わりの作品選択には、批判的であろうと、意味づけがあるだろう。たとえば2006年は万田邦敏による京阪神の震災からの立ち直りを描く『ありがとう』だが、著者ははっきりと、同じ監督の『UNloved』や『接吻』に対するのとは異なり、この映画に批判的である。では何故選ばれたのかといえば、それはこの映画が、まえがきの言葉でいえば《選別と排除を人間社会に強いるイデオロギー》から自由になっていないと感じたからであろう。
著者はきわめて精力的に映画にかかわる著作を出している。自身だけの執筆の本に主要編著を加えれば、今世紀に入って、ほとんど毎年に近いかたちで刊行している。詳しく調べたわけではないが、映画研究というジャンルにおける最も多作の単著執筆者と言えるかもしれない。
この浩瀚な日本映画論を読了したあと、私はなんとなく印象がまとめにくい気持ちもあって、手元にあった著者の別の本を手にしたのだが、ヒッチコックの『裏窓』についての本はコンパクトなのと見事に整理されていることもあって一気呵成に読んでしまった。驚くほど見事な処理の仕方をしていると感心した。そして思ったのは、著者最新の本書は、このような整理された明晰な頭脳の持ち主による、かなり混沌とした世界への冒険の書ではないかというものだった。「世界映画史上では」は、そんな冒険心から出てきてしまった言葉なのかもしれない。
どんな批評の本の場合でも、未見・未読のものを、その文章がきっかけで読み・観ることがある。本書もまた、そこで言及された幾つかの未見の映画を観たいと思わせた。当該作の言及のし方への関心に沿って、である。著者の本を読むのは今回が初めてだが、未見の映画を観たいと思わせる文章である。
たとえば本書の最後に位置する小林政広『愛の予感』。殺害された娘の父親と、殺害した娘の母親が(ともにつれあいがいない設定)、事件後、偶然にも遠い地で働いているが、映画は延々と二人を同じ画面に出さないばかりか、日常の繰り返しの描写がいつまでも続く。やがて二人が会話をかわすようになるところで映画は不意に終わりを告げる。
この映画の分析のなかで著者は、二人の事件関係者が互い(の顔)を知っていたのか知らなかったのかに触れていない。これが意図的なのか書き忘れなのか私には関心がある。触れていないことでかえって映画への興味が強くなっているので、もし意図的に触れていないとしたら、なんとなく面白いと思った。
もうひとつ『愛の予感』論の注のなかで気になった箇所。著者はソーダーバーグのカンヌ映画祭受賞作『セックスと嘘とビデオテープ』が《それほど悪い映画テクストではないものの》、同監督がその後それを越える作品を撮っていないと書いている。これは「それほど良い~」でなければ、たとえば「傑出した映画とはいえないものの」(ここには、それほど悪い映画テクストではないという含意がある)あたりにすべきだったと考える。些細な問題だが、『裏窓』論があまりにも精密に完成されていたためもあり、本書の部分的な荒い感じが私には気になったのだと思う。ただし繰り返しになるが、果敢な挑戦のために、ある程度の荒さは、むしろ必要なものなのかもしれない。