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商品説明
青木保、大江健三郎、多和田葉子らとの対話を軸に、西洋出身者として初めての現代日本文学作家である著者が、自らの体験を振り返りながら、「越境」によって切り拓かれる文学の最先端を縦横に語る。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
文学はどこへ向かうか | 富岡幸一郎 ほか述 | 7−27 |
---|---|---|
紀行と現代 | 多和田葉子 述 | 31−52 |
日本〈語〉文学の可能性 | 水村美苗 述 | 53−101 |
著者紹介
リービ英雄
- 略歴
- 〈リービ英雄〉1950年アメリカ生まれ。プリンストン大学大学院博士課程修了。スタンフォード大学の教授職を辞して東京に在住。「千々にくだけて」で大佛次郎賞受賞。他に「星条旗の聞こえない部屋」など。
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紙の本
日本語文学のむこうへ
2008/01/06 11:12
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本語文学というのは、思い返してみれば日本には「在日文学」もあったのだし、今日注目を集めている、リービ英雄、多和田葉子、水村美苗にしても、その小説家デビューは十数年も前のことではあるのだけれど、昨今、とみに「よいもの」「すぐれたもの」として高く評価されている。作家に時代が追いついたとも称し得るこうした事態の推移を、批評(理論)の展開から説明することはそれほど難しくない。日本語文学の書き手は、その小説とともに、「新しい」のであり、なぜ「新しい」かといえば、そうした試みがこれまで(広範に認知されるという意味において)なかったからで、なぜなかったかといえば、端的にそれは「困難なこと」だったからに違いあるまい。というのも、そこには「国語=国民=(国民=自国)文学」という三位一体が近代国家の機制として強く働いていたからだ。ナショナリズム批判の喧しかった1990年代を経た今、先の三位一体が国民国家のフィクションであったことはあまりにも明らかになり、リービ英雄らがそのことに自覚的であったか否かや(自覚的であったのはいうまでもないのだが)その深度とは別に、日本語文学が生まれ得る環境は、文学領域に留まらない国際的な政治経済の枠組みの中で準備・形成されてきたものだといえる。だから、日本語文学の書き手とは、時代の産物でもり、その体現者なのだ。かといって、そのことは、例えば『越境の声』の書き手を軽んじるものでは決してない。現在にあってなお、先の三位一体を逸脱したり内破するようにして小説を書くことは「困難なこと」に違いないのだし、現代日本人作家の中でも母語の「力」と向きあう中から文学的成果を上げていると認められるのは、今は亡き中上健次の他、大江健三郎や笙野頼子くらいしか思い浮かばないのだから。
こうした状勢を踏まえた上で、リービ英雄、さらには『越境の声』の共著者でもある多和田葉子や水村美苗らの作品が「よいもの」「すぐれたもの」とされているのは、しかしそれが日本語文学だからということのみによるのでは決してない。彼/彼女らにとって、先の三位一体を解体することなどが興味を惹く作業であるはずがない、すでに、この現実世界にあって言語とは、文学とは、すべからく「越境」なくしては成立し得ないのだから。様々な人種が、言語が、文化が、交錯する、その網目として現実はあり、それを描けないならば、描こうとしないならば、今日日、文学にどのような課題/使命があるというのだろうか。彼/彼女らの小説実践はそう問いかけているようにさえみえる。つまり、彼/彼女らの文学は、日本語文学という困難な環境を前提に、それでいて、そのことに依拠することなく、すぐれたものであるのだ。こうした射程や、こうした射程を手にした思考・創作、さらには「生」の過程、それは例えばリービ英雄『越境の声』からよくみえてくえる。多和田葉子の『エクソフォニー』は、しなやかな文章の中に、熟成された思考を溶かし込んだ近年稀にみる佳品だが、そこまでということはないものの、そこに『越境の声』も並べることができる程度には、知的な思考に満ちた書物として、『越境の声』はある。