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紙の本
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリー offシリーズ)
著者 宮本 常一 (著)
西の大紀行家・イザベラ・バードの名紀行を、東の民俗学者・宮本常一が読む。日本民族と日本文化の基層を成す岩盤を、深く鋭く穿つ! 未来社84年刊の「古川古松軒 イサベラ・バー...
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリー offシリーズ)
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商品説明
西の大紀行家・イザベラ・バードの名紀行を、東の民俗学者・宮本常一が読む。日本民族と日本文化の基層を成す岩盤を、深く鋭く穿つ! 未来社84年刊の「古川古松軒 イサベラ・バード」のイザベラ・バード篇を改題。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
宮本 常一
- 略歴
- 〈宮本常一〉1907年山口県生まれ。天王寺師範学校専攻科地理学専攻卒業。民俗学者。柳田国男に見出され、民俗学を研究する。81年没。著書に「民具学の提唱」「日本文化の形成」など。
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慈愛に満ちた宮本のまなざしに泣く
2004/05/12 13:25
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る
比類のない本だ。民俗学というジャンルの枠を超えた、かけがえのない書物だと思う。
バードの記した日本は、いわゆる「古き良き美しい日本」では決してない。彼女が歩いた明治前期の東日本各地にたち現れるわが同胞たちの生活は、おおよそ貧しく、不潔である。バードより2世紀近く前、同じく東北を歩いた芭蕉の句「のみしらみ馬の尿する枕もと」は諧謔の表明だったとしても、句材は明治初期なお(あるいはその後も長く)、現実そのものだった。かつ、バードの旅は、「近代国家」の裏庭というものがいかに悲惨であったかを教えてくれる。悲惨とは、貧困から来る生活実態でもあるが、当時の日本人の無知から生じる偏見の凄まじさでもある(いっぽうで、今や絶滅した、独特の人情も背中合わせになっている)。
彼女の教養と公平な観察力(そして、読み易い翻訳)のお蔭で、我々はことさら不愉快を感じずに100年以上前のわが国の実態を知り得るが、その行間からは、ときにすえた臭いが立ち上って来る。だからこそ、たまたまた目にした山形県置賜地方の物成りの豊かさに対して、バードはこれを「アジアのアルカディア(底本の高梨健吉の訳では「アルカデヤ(桃源郷)」と表記)と絶賛したわけだろう。この一節は、山形人ならずとも確かに感銘を受ける。
こうした、記録された過酷な現実を読み解きながら、宮本常一という人はその対象をなんと深い慈愛に満ちたまなざしで見つめていることか。
バードの著述に限らず、明治の日本を旅した外国人の記録を資料として評価し、その功績を賞賛する「研究者」は当然多いだろう。だが、宮本のように(宮本も、勿論評価もしているが)、そこに描かれた衣食住、そして信仰の有様を、分析的にではなく、温かく自分の言葉で補完し、語りかけた「研究者」がいるだろうか。バードは、横浜で契約した通訳兼案内人の伊藤という男(下の名は伝わらない)の地方人へのあからさまな偏見(アイヌへの差別はその頂点)を冷静に描写しているが、それを解説する宮本の目はあくまで優しい。宮本は、いわば精密に描出された透視画像を前にし、そこに示された現実を踏まえながらも、決して社会学や経済学のメスで怜悧に切り割いたり、歴史という科学を振り回してこれみよがしな診断も下したりはしない。そこが、泣ける。
本書は講演がもとだが、バードの著述の引用と、宮本の読み解き部分のバランスも絶妙である。もとより編集者(原著は未来社)の手腕もあるだろう。だが根本には、羞恥を知る好奇心、節度ある熱情、ともいうべき、およそ研究者にとって不可欠ながら、なかなか得がたい宮本の天分ともいうべきものが横たわっており、その結果、この比類のない書物が生まれたと思う。
宮本常一は、『忘れられた日本人』という奇跡的な名著一冊でも、不滅の存在である。だが、今となっては宮本のような「研究者」は生まれ得ない。彼が歩んだ研究者人生のような選択肢を、21世紀の日本はもはや(宮本が健在だった時代以上に)許さないからだ。バードは、その得がたい体験によって、結果として何人もの「忘れられた日本人たち」を書き留めてくれたが、その記録を丁寧に読み解いた本書は、まさに「宮本常一」という、もうひとりの『忘れられた日本人』の物の見方、考え方をも浮かび上がらせてくれる一冊といっていい。
紙の本
時空を越えた夢の競演
2010/01/08 13:22
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yjisan - この投稿者のレビュー一覧を見る
イザベラ・バード。1831年、イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅した。著書に『バード 日本紀行』『朝鮮紀行』など。
宮本常一。1907年、山口県周防大島に生まれる。大正末期から、昭和の戦前・戦後、高度成長期を経てバブル直前まで、日本列島の津々浦々を踏破した。その距離は16万キロ、ちょうど地球4周分に相当し、泊まった民家は千軒にも及んだという(本書解説より)。
19世紀イギリスが生んだ大旅行家が明治11年に北日本を旅した時の見聞を記した紀行文『日本奥地紀行』を、20世紀日本が生んだ民俗学の泰斗が読み解く。まさに時空を越えた夢の共演であり、これほど豪華な組み合わせもあるまい。普通の人なら読み流してしまうようなバードのさりげない記述も、宮本は見逃さない。該博な知識と豊富な実体験に裏付けられた深い読みが冴え渡る。
たとえばバードは、日本の子供達に対する印象として「子どもたちは、かしこまった顔をしていて、堂々たる大人をそのまま小型にした姿である」と語っている。宮本はこの記載に注目して「今は、子どもは子どもらしくということが大事にされているが、当時はむしろ侍の子は子どもの時から大人であることを訓練されたのです。例えば『論語』だとか『孟子』だとか『大学』だとかいう書物を字も意味な分からない頃から教えられたのです」と説明する。そしてその背景として、江戸時代以来の封建的な世襲制の存在を想定する。フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』にも通ずる鋭い指摘と言えよう。
他にも「東の入れ墨、西のじんべ」「スリと泥棒の社会道徳」など、経験に根差した興味深い解説が満載である。
『日本奥地紀行』に出てくる日本の庶民に対する宮本の眼差しは極めて温かく、貧しくとも笑顔を湛え、物見高く親切な彼らへの限りない共感が見てとれる。しかし一方で、日本人のアイヌ人に対する差別や偏見も厳しく指弾しており、学者としての客観性を失っていない。
日本民俗学の豊穣を知る上での格好の入門書と言えよう。
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誰も書かないこと
2003/06/13 17:57
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:北祭 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の著者・宮本常一は、日本中を遍く訪ね歩いた民俗学者としてあまりにも有名です。残された著書は膨大な量ですが、昭和35年作の『忘れられた日本人』は、民俗学を伝える究極の書であり、「魂の語り」といえる傑作でした。読んでおいて損はありません。
本書は、その宮本が晩年行っていた「講読会」での話をそのまま納めた書であり、お題は『日本奥地紀行』。明治11年の日本を何の予備知識も持たずに旅したイザベラ・バードなるイギリス人女性探検家が記した紀行文が題材です。この手の紀行文、漠然と眺たとして、どれほどのことが読み取れるかは疑問です。しかし、宮本が行った「講読会」は、そんな紀行文をどう読み、何を考えるか、独自の視点から面白い部分を抜粋して注釈を入れ、若い人たちに示して見せるといった最高の授業であったのです。その「講読会」を納めたのですから、『日本奥地紀行』のエッセンスがしっかり読み取れ、率直にいって、読み物としても実に面白い。流石です。
イザベラは、まず横浜に上陸します。東京を抜け、栃木、日光、会津に入って板下、飯富山地を迂回して新潟、米沢、新庄、秋田、黒石、青森、汽船で北海道へと渡ってアイヌの部落までの旅です。各地での宿、そこにいる民衆のこと、生活環境のことが外国人の目で率直に語られます。
そもそも、宮本は、「講読会」でなぜにその『日本奥地紀行』を取り上げたのでしょう。よく読むと、新庄での一幕にその答えがありました。イザベラの記述が抜粋されます。
<二晩も休息できるような美しくて静かで健康的な場所を見つけることは困難であろう。蚤や蚊からまったく解放されることは、とても望むべくもない。p.150>
蚤やら蚊、雀蜂、大蟻といった害虫にかまれたのだそうです。宮本は、こう解説します。
<…イザベラ・バードはかなり手を焼いているのです。しかし日本の紀行文には出てこない。それが当たり前だったからで、当たり前でない人から見た文章の中から当時の日本の生活環境がよくわかって興味深いのです。p.151>
この「日本の紀行文には出てこない。それが当たり前だったから…」という何気ない言葉にとても深い意味を感じるのです。昔の紀行文などの資料に書かれなかったことがあるという事実は、資料偏重に過ぎる歴史研究の決定的な欠陥となり、民俗学においては極めて重要な「庶民の当たり前の生活環境」を知る上で、これは致命的です。純粋な驚きをもって綴られる外国人・イザベラの紀行文のもつ重要性がここにあるのです。
本書を読み、あらためて感じます。だからこそ、宮本は、その生涯をかけて、当たり前であるが故に誰も書かないことを書き、そして語り続けたのだ、と。