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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2000.2
  • 出版社: 平凡社
  • サイズ:20cm/214p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-582-70224-4

紙の本

倫理21

著者 柄谷 行人 (著)

戦争責任とは? 環境への責任とは? そして、未来に対するわれわれの責任とは? 具体的な問題を通して、いかに生きるべきかを徹底的に問う書き下ろし評論。21世紀に新しい世界を...

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倫理21

税込 1,760 16pt

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商品説明

戦争責任とは? 環境への責任とは? そして、未来に対するわれわれの責任とは? 具体的な問題を通して、いかに生きるべきかを徹底的に問う書き下ろし評論。21世紀に新しい世界を構築する思想がここにある。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

柄谷 行人

略歴
〈柄谷行人〉1941年兵庫県生まれ。東京大学大学院英文科修士課程修了。評論家。近畿大学、コロンビア大学教授。著書に「漱石論集成」「反文学論」「畏怖する人間」など多数。

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みんなのレビュー11件

みんなの評価3.9

評価内訳

  • 星 5 (1件)
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  • 星 1 (0件)

紙の本

倫理21

2002/04/12 16:05

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ポンタ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 倫理的なことについて考える時にはこの本を基準にして考えるようにしている。倫理というものを考えた時、どうしても自分一人だけでは考えが及ばないことも、この本を基準にして考えると何らかの手掛かりが得ることが出来るような気がするのだ。たしかに内容は簡単ではなく、日常生活にそこまでの倫理が必要かといわれれば、それほど倫理的である必要もないのだが、倫理的に考えること、そのことを問い詰めようとしたとき、この本に示唆されることが多々あるのは事実である。そんなことも含め、倫理について考える時には、この本を漫然と読む、そうすると、自ずと自分が倫理的な人間になったような気がするから不思議だ。

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紙の本

「カントその可能性の中心」とも題すべき、柄谷氏の「転回」点を明晰に示す画期的な論考

2001/02/11 00:29

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 読み返すたびに、同じ興奮が反復する。知的興奮ではなくて、もしそういう言葉があるとすれば、実践的=倫理的興奮。読んでいるあいだ、それ自体を取り出して「理論的」に論じてみたところで「何の意味もありはしない」(マクベス)メタフィジカルな次元が、名状しがたいリアリティをもって立ち上がってくる。「カントその可能性の中心」とも題すべき、柄谷氏の「転回」点を明晰に示す画期的な論考だと思う。

 著者によると、スピノザ、あるいはマルクス、フロイトはその生き方において実存的で、あらゆる共同体に背立する単独者でありコスモポリタンであった。彼らに共通するのは、構造主義的な思考である。たとえばスピノザは、われわれは自然(情念)によって複雑に規定されていてそこには自由意志などないのだが、ただ原因を認識することはできる、つまり認識のみが、あるいは認識しようとする意志のみが自由である(認識することが「エティカ」である)と考えた。カントはこのスピノザ的な決定論を全面的に受け入れている。そして、まさにその上に立って「自由(自律性)はいかに可能か」を問うたのである。(ポスト構造主義者としてのカント!)

 カントは、自由は「自由であれ」という命令(義務)においてのみ存在すると考えた。自由や責任は「態度変更」によって、すなわち決定論的な因果性を「括弧に入れる」ことで開かれるメタフィジカルな次元(「善悪の彼岸」)においてのみ語りうるというのである。この点で、倫理をめぐるカントの思考は、道徳を弱者の思想として攻撃し、また一貫してカントを攻撃したニーチェの思考に接近していく。

 著者によると、ニーチェの「運命愛」は、諸原因に規定された運命をそれが自由(自己原因的)なものである「かのように」受け入れよ(括弧に入れよ)ということにほかならない。それはまさにカント的な倫理性である。ただニーチェとカントの違いは、ニーチェが自然必然性を括弧に入れることを強調したしたけれど、時にはその括弧を外してみなければならないことをいわなかったこと、つまりニーチェは弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生み出す現実的諸関係を見ようとしなかった点にある。

 そのほか、カントにとって「パブリック」とは国家や文化(私的なもの)を括弧に入れること、つまり自ら世界市民として考えそのように意志するかぎりにおいて存在するコスモポリタンのことである。あるいは「物自体」とは他者のことなのであって、それは対話が成り立たない他者、つまり異なる「共通感覚」をもった他者、典型的には死者や未来の人間のことである。そして「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」というカントの道徳法則は生産関係にも及ぶものであって、マルクスのコミュニズムはカントの延長として必然的に出てくるものである、等々、カントの思索をめぐって繰り出される著者の斬新な読解は実に刺激的だ。

 もちろん本書はカント哲学の研究書なのではない。そこには戦争責任について考えるというテーマが貫かれている。歴史の分野での心身問題とでもいうべきもの、すなわち理論的(構造論的)把握における個人と実践的(倫理的)な位相における主体の問題を、カントの思索のアクチュアリティを摘出することであぶりだしていくその叙述が何よりもが刺激的なのである。

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紙の本

具体性の陥穽

2000/11/07 23:51

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:小沢純清 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 久しぶりに柄谷氏の著作を読み、「相変わらずだな。」という思いと、「氏は衰弱しているのではないか。」という思いが、奇妙に同居した印象を持った。氏の論法は、例によってアクロバティックでスリリングである。にもかかわらず、ある時期以降の柄谷氏の著作にみられる、ある混乱の表出が、さらに顕著にうかがわれるように思えるのである。

 柄谷氏はカントを援用し、「自由は『自由であれ』という至上命令に従うことにのみある。」という。これは、むろん、同義反復である。「自由」とは何かと問うているのに、定義付けの中に「自由」という言葉を使っているからである。しかしながら、そのことについては追及しても仕方がないだろう。「自由」を「理論的」(「自然因果的」)に考察する限り、「原因に規定されていない行為や主体はない」といわざるをえないからである。柄谷氏は、そのような「決定論」を斥けるために、あえて同義反復を犯してまで、カントの道徳法則を援用したのだといえるだろう。

 けれども、私が氏の「衰弱」(「妥協」といった方がよいかもしれない)を感じ取るのは、そのような点においてではない。むしろ、その至上命令の直後に、「同時に、他者をも『自由』な主体として扱えということを含みます。」という一説が挿入されることに対してである。以前の氏は、自他の「自由」の矛盾対立を鋭く剔抉してみせたのではなかっただろうか。

 このような私の疑問は、この本の末尾の「付論」(『トランスクリティーク』第一部)を読んで、いくらか融解した。柄谷氏は、「このカント論をわかりやすく説明するために、この本を書いたのではありません。」と、「はじめに」で述べている。しかしながら、氏の弁明とは逆に、本論の後半の「戦争責任」の問題や「生れざる他者への倫理的義務」といった具体的な考察は、「付論」のような原理的考察からは遊離してしまっている。私は、このような具体的な箇所に、柄谷氏自身にもどうにもならない、氏の〈自然〉を見てしまう。

 いずれにしても、『探究』以降の「他者」概念を、もう一度、検討、批判してみよういう意志を起こさせた一冊であった。

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紙の本

はたして倫理の声は他者へと届くのか?

2000/07/17 01:57

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:BLUE - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「自由」についてのカント解釈の「大胆」な読み替え(「トランスクリティーク」)をベースにして、連合赤軍や神戸の中学生A君事件などといった具体的な事件・出来事に即しつつ、自由のあり方、責任のあり方について問う。未来の他者への責任に開かれた新しい倫理のあり方を呈示せんとする心意気にあふれた一冊。
 構造と主体、あるいは構造主義と実存主義という対立をいわゆる「68年の思想」以降立ち現れてきた真新しい問題としてではなく、すでにカントのアンチノミー論において先取りされていたものとして考え、(1)スピノザ的決定論を源流とし、アルチュセール「構造論的因果性」などをはじめとする構造主義に受け継がれた<主体>の否定の系譜(形而上学批判)と、(2)こうした決定論的因果性を括弧に入れた位相において見出される<主体>の考察(形而上学)とが、カントの第三アンチノミーにおいては両立しうるものであるとする。

 構造論的因果性を括弧入れした位相において<主体>が見出されるのとちょうど同じように、<主体>や「自由」を括弧入れしたときにはじめてそうした構造論的な因果性が見出されるのだとすれば、両者は対立しあうものではなく、括弧入れという作業によって調停されうる「立場」の問題であるとする。このとき、前者の立場を実践的なもの、後者の立場を理論的なものとし、後者の立場にあっては自由や責任といった問題は出てこないと論じる。

 戦争責任や犯罪者の責任などといった問題を問うには、後者のような「理論的な」立場からではなく、そういう立場を括弧入れした「実践的な」立場に身を置かなければならない。なぜなら、<主体>のないところには責任もまたないからである。

 こうして実践的な位相において改めて倫理のあり方を問うてながらも、著者は両者のうち一方を排すべきなのではなく、両者を両立させ、調停させるべきであることをあくまでも強調する。「他者を手段としてのみならず目的として扱え」(傍線引用者)というカントのテーゼへの解釈も、そこから要請されたものであろう。だがこのとき、実践的(倫理的)な<主体>とはまた別の主体、括弧入れを行うもうひとつの主体(超越論的主体)が存在するのではないかという疑問、そしてそうした主体(超越論的主体)の自律性そのものへの問いは本書においてはなおざりにされてしまっているのではないか、という疑問が生じる。

 理論と実践を調停するような、一種弁証法にも見える手法によって得られた柄谷氏のテーぜが、実は超越論的主体の自律性によって保証されているのだとすれば、その自律性を「理論的に」問う試みもまた、責任を回避する方便として断罪されてしまうべきなのか。そして、そうした「理論的な」問いをあえて不問に付してまで、責任を引き受けるべき<主体>、倫理的な実践的<主体>を立ち上げようとした著者の「倫理的」な心意気を買うべきか。

 著者のこうした立ち居振る舞いを言下に拒絶することもできず、かといって全面的に与することを今ひとつためらってしまう僕のような日和見主義者こそ、あるいはもっとも批判されるべき存在であるのかも知れないのだが、いまだ生まれざる未来の他者への責任や倫理を問う著者の姿勢が、同時代に生きる具体的な他者への徹底した無関心を生んでしまっているのだとすれば、その具体的・経験的な他者とは、一見著者と対立しあう立場にいるような人たちではなく、実は僕のような日和見主義者のことを指すのではないか。

 ともかくも、そういう日和見主義者たちこそ、実は本書の一番の読者であるべきであるとは思う。いわゆる「柄谷信者」なるものが現実に存在するとして、そうした人たちに本書の解釈権を独占させないためにも、単純に著者の昨今の言動へのジャーナリスティックな関心を動機にしてでも、一読しておいて損はない。

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紙の本

コラム「知的ミーハーになりませう」コメント

2000/12/01 15:41

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:守屋淳 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 現代思想の雄・柄谷センセの本=とっても難しいという図式が、なんとこの本吹っ
飛んでるんです。それだけでも大感激&推薦モノなのに、内容も、神戸児童連続殺傷
事件から、天皇の戦争責任問題、カントをベースに語られるモラルと、もう時事モノ
から遠大なテーマまで明晰な論理で切りまくっていて、惚れ惚れしちゃいます。未来
の指針となるべきモラルはないのか、とお悩みの方には真っ先にお薦めしたい本で
す、これは。

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