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商品説明
無頼派、それは文学における純血種の表徴だった−。第三高等学校で織田作之助と同級になって以降、共に青春を謳歌しながら純血無頼派作家の生き様を身近に見、戦後文壇を生きてきた88歳作家の、懐かしくも貴重な私記。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
青山 光二
- 略歴
- 〈青山光二〉1913年神戸市生まれ。東京大学文学部卒業。教職等を経て、本格的な作家活動に入る。日本文芸家協会理事、日本文芸著作権保護同盟会長。著書に「修羅の人」「闘いの構図」など。
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紙の本
ヒロポン打ったり女にタクシー代をせびったりしながら、死を身近に意識し続けて小説を書いていた無頼派作家たち。びっくりしたり吹き出したりのエピソードばかり。
2001/09/21 11:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
現在は休版中らしい新潮文庫版のオダサク『夫婦善哉』を読んで起爆力ある短編の数々に衝撃を受けたばかりだったから、オダサクという人間が知りたくてたまらなかった。
そのタイミングに、文芸サイト編集長ヤスケンがピックアップしたのが本書である。出版も書評も、ありがたい。
興味あるものの方を向いていると、意外な形でそれに関われることがあるもので、もう一つのちょっとした出会いもあった。つい先日、十数年ぶりで銀座のトリコロール本店に入って、同伴者に薦められてケーキを食べた。見目麗しく味も良い。和光やダロワイユのものより気に入った。
この本を読んでいたら、そのトリコロールのケーキをオダサクが食べている。流行作家として滑り出したオダサクが、ぷらり上京し多忙な生活に圧しつぶされるように喀血して倒れたところに、著者の青山光二さんが届けた。オダサクお気に入りの心斎橋「ドンバル」のケーキの代りだ。東京でうまいもんは、浅草海苔とトリコロールのケーキだけやなとオダサクが言ったという。
オダサクが食べていたのか−−私は嬉しくなってしまった。
青山光二さんについては全然知らなかったが、なかなかの売れっ子作家だったらしい。ヤクザについての著書もある。現在も現役で、日本文藝家協会の重鎮である。
京都の三高で文芸部に寄り、雑誌の編集をしていた。杉村春子の代表作「女の一生」を書いた森本薫とか田宮虎彦、野間宏、富士正晴、そして織田作之助らと交わった。オダサクとは共に過した時間が長く、離れて暮らすことになっても文通が続いた。
オダサクは京都に留まったが、青山さんは東大に進学。本郷の酒場で太宰治や壇一雄らの常連と出会う。戦前の話である。
わるふざけ、風狂、道化を実生活のモラルとしていたオダサクは『夫婦善哉』で一躍脚光を浴び、短期間に多くの小説を発表して売れっ子になったものの、肺を病んで死亡。
卒業後、教職に就いていた青山さんは、そのオダサクの死後、充実した仕事ができるようになったという。「文芸時代」という同人で坂口安吾や太宰治ら無頼派と一緒になった。そこには、無頼派だけでなく、林芙美子、船橋聖一、伊藤整、花田清輝、椎名麟三、武田泰淳などが集った。
自身のヒロポン常用について記述しながら、坂口安吾が錠剤のヒロポンを酒でのみこんでいたことなどがさらり書かれている。中毒になっていた物書きが結構いたようである。ヒロポンに縁のない人は、カストリ焼酎という時代だ。
太宰の死については、「襖をあけて隣の部屋へはいるようにして、いつでも死ねる人だった」と書いている。青山さんは、オダサクの百日忌の集まりのあと、タクシーの中で「いっしょに死のうよ」と太宰に誘われたらしい。入水はその1年後だった。
その太宰が、酒場のマダムに毎度タクシー代を借りていたエピソードが楽しい。「くるま代を借りているのは仮りの太宰、ほんとうの太宰は、向うの電車通りに檀君といっしょにいる」−−つまり借りた金は返さないだろうということなのだ。笑える。
エピソードの回想に留まらず、オダサクと太宰の抜け出た小説スタイルの強烈な魅力について存分に語られている箇所がいい。
紙の本
自伝的要素が一段と濃く、統一感もあって、さらに楽しめる
2001/10/02 22:17
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前、同社から刊行された『砂時計が語る 87歳の作家の20世紀ア・ラ・カルト』も面白く読んだが、今回は自伝的要素が一段と濃く、統一感もあって、さらに楽しめた。『新潮日本文学辞典』によれば、青山光二は1913年(大正2)、兵庫県生まれ。旧制三高在学中、後輩の織田作之助を知り、東大文学部在学中の1935年(昭和10)、織田らと一緒に同人誌『海風』を創刊。敗戦後は『旅への誘い』(1948年)以下の連作で、私小説的発想をもとにした一種のモダニズムの作風を示しもした。中短篇集『夜の訪問者』(49)では戦後社会を舞台とした男女の愛憎の図をこまやかに描き、『青春の賭け』(55)では織田との青春の彷徨を綴った。この頃より『闘いの構図』(65)など、独自の作風で「ヤクザの世界」を描くようにもなり、幾つか映画化もされた。『修羅の人』(65)で小説新潮賞、『闘いの構図』(79)で平林たい子賞を受賞。他に、京都学派の異端児土井虎賀寿を描いた、世評高い『われらが風狂の師』(67)などもある。本書を読み、彼は戦後、相当の売れっ子作家だったと教えられたが、「第一作品集」の章に、元中央公論社高梨茂の話が出てきた。懐かしいので、ちょっと紹介しておこう。旧知の花田清輝の依頼により、『死霊』の版元でもある真善美社の雑誌『綜合文化』に寄稿した「旅への誘い」が中央公論出版部顧問林達夫の目に止まり、1948年(昭和23)、中央公論社から作品集『夜の訪問者』が出ることに。しかし半年経ってもゲラ(校正刷り)が出ない。担当者は海軍予備学生あがり、青山光二同様、東大美学出身の男I・Jだったが、ゲラの出ぬうちにクビか、みずから中央公論社を辞めてしまう。ようやくゲラが出た時の担当者が高梨茂だったのである。彼はI・Jとは真反対、篤実な学者肌風のタイプで、まだ入社早々、青山光二の本が初仕事だった。高梨茂は国語教師の経験もあるとかで、国語についての造詣も深く、仮名遣いなどにもウルサかった。青山光二自身もウルサい方で、おまけに当時は旧仮名である。丸ビル五階にあった中央公論社の応接間で、彼は高梨茂と向かい合い、動詞の「はいる」は「はいる」か「はひる」かとの議論になる。そこへ、たまたま永井荷風が来たので、「先生にきいてみましょう」と、高梨茂は奥の編集室に訊きに行くや、「著者が正しいにきまってますよ」との答えだった。青山光二は「意見をきくときは、相手を選ばねばならない」と、この文を結んでいる。また同じ頃、中央公論社に出向くと事務員がきて、何十枚かの百円札(千円札はまだなかった)と領収書を持ってきた。当時の中央公論社ではゲラが出ると(とりわけ貧乏な著者などには)印税前払いの習慣があったのか、それとも担当者の高梨茂が気を遣ったのか、いずれにしても中央公論社に顔を出すたびに、わずかではあったが四回ほど前払いをしてくれた。かくして『夜の訪問者』は昭和24年2月に出版される。定価180円、「水船六州の椅子の絵の装幀が新鮮だった」と著者は書いている。