紙の本
実践としてのディベートから哲学としてのディベートへ
2001/09/11 14:26
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投稿者:小田中直樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕は教育者の端くれだけど、いつも授業のやり方で悩んでる。最近は双方向的な授業が流行らしいので、そのヒントになりそうなディベートには関心があった。この本で、著者の茂木さんは、実例を交えながら、本物のディベートの概念や方法を紹介する。茂木さんにいわせると、今のような自己責任の時代には、個人の知的な能力(企画立案、意思決定、文章化、調査、プレゼンテーション)を強化することが必要だ。日本のように周囲に流されやすい社会では、複眼的に観察し、疑問を持ち、冷静で批判的に考え、合理的でバランスよく判断することが必要だ。そのためにはディベートが役に立つ。それは、論理的に思考し、調査法を学び、問題を発見して分析し、様々な解決策を比較検討したうえで提示し、表現するという、確固とした哲学にもとづいた知的な技術で、思考訓練、実社会のシミュレーション、聞き手としての訓練、表現の技術の獲得っていうメリットがある。
この本のメリットは次の三つだ。第一、ディベートの本当の姿をわかりやすく示したこと。第二、ディベートの具体的な方法を詳しく説明したこと。第三、そして何よりも、ディベートの哲学とメリットをはっきりさせたこと。ディベートの目的は単に勝つことじゃなくて、どう勝つかなのだ。だから、確固とした哲学に裏打ちされてる。また、僕らは、阿吽の呼吸とか以心伝心とか、言葉を使わないコミュニケーションを利用したり重視したりしてきた。それにはメリットもあるけど色々な問題もある。とくに、外国の人々と付き合うときには、このコミュニケーションは使えない。そのときには一定のスキルが必要だけど、それを身に付ける手段としてはディベートが有効なのだ。
でも、この本にはいくつか問題点がある。四点だけ挙げておこう。第一、茂木さんは、「主観的論理展開力」が身に付くディスカッションと「客観的論理展開力」(四四ページ)が身に付くディベートを区別し、「人格と議論を切り離すが故に、お互い面子にこだわらず議論を深め合っていく」(一四ページ)点で後者を重視するけど、ディスカッションじゃ駄目な理由がわからない。人格と切り離されたディスカッションはありえないって判断する理由がわからない。僕は、茂木さんが示したディベートの哲学やメリットはディスカッションにも当てはまるように思うし、判定者がいないほうが議論が深まるようにも思う。
第二、ディベートにはデメリットもあるはずだから、それにも触れてほしかった。そうすれば、この本はさらに有益になっただろう。
第三、ときどきディベートの定義が拡散する。たとえば「家庭教育の中で……他人と知的な議論を交わすこと」(四七ページ)とか「独りよがりか、異なる意見に耳を貸そうとしない頑固者」(二〇八ページ)を作り出さない手段とか、ほとんど議論と同じ意味に使われることがある。これは議論をわかりにくくしてしまうので、やめてほしい。
第四、ディベートには、ディベートの哲学にあたる普遍的な要素と、ディベートを生み出した英米文化の要素が混在してるけど、茂木さんは両者を混同してる。僕は、前者は大切だと思うけど、後者はどうでもいい。たとえば、僕は「英語のロジックがわかる」(一五五ページ)からディベートをしたいとは思わないのだ。両者を区別して論じないと、ディベートが単なる英語学習の手段になってしまう危険がある。
こういった問題点は、あるもの(この場合はディベート)の良さを疑わない姿勢から生まれることが多い。もう少し視野を広くし、ディベートの功罪を考え、そのうえで正しいディベートのあり方を考え、世間に提示してくことが、これからは必要だろう。[小田中直樹]
紙の本
2001/05/28
2001/05/30 18:18
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投稿者:日経ビジネス - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者はまず「ディベート」という言葉に関して、多くの日本人の間に「理屈で相手を論破する言い争いの技術」という誤解があると指摘する。確かに「ディベートうんぬん」と銘打った書籍では、討論に勝つコツばかりが強調されがちで、ディベート本来の「論理的に思考し表現する技術」という特徴を簡潔に整理したものは少ない。
本書では、欧米では日常生活や教育の場でディベートが用いられている様子を伝えるとともに、仕事上での情報収集能力、企画立案能力、コミュニケーション能力、問題解決能力を高める訓練法として有効であることをわかりやすく解説している。
ディベートの基本は話術ではなく、相手の論旨を掌握する傾聴力であるという。また日本人の英語がわかりにくいと言われがちなのは、語彙や発音の問題以前に「ロジック(論理性)」がないことが原因だと指摘する。さらにユーモアの重要性についてなど、日本人の苦手な点を挙げ、その克服に有効なディベート訓練を推奨する。
ディベートのルールや鉄則についても「参議院はいらない」「日本は陪審員制を導入すべし」など具体的テーマに沿った形で詳しく説明している。
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一般的に思われている、やんややんやと言い争うイメージを払拭し、きちんとしたディベートの原理を解説してくれる本書。ディベートは単にルールもなくただ言い争うだけでなく、しっかりとルールを決め、論証や反駁、事前準備などの手続きをした上で「お互いに発言をしていく」というものがディベートなのだと、しきりに本書では強調されています。
特に、「朝まで生テレビ」はディベートではないと言いきり、明確なルールに基づく論理的思考、及びそのプロセスの記述は、特に面白く読ませていただきました。
読後、「聴くことの大事さ」がなんとなく気構えとして身についたような感じがします。相手の発言を止めてでも自分が発言するのではなく、相手の発言をしっかりと受け止め、きちんと論理的に(感情的ではなく)反駁していくことは、日常生活の中でも非常に大事なことだと思いました。
言い回しなどの技術・臨床的な本ではないため、あしからず。ただ、豊富な事例の中から見出せる知識・技術はかなり沢山あるのではないかと思います。競技ディベートをしようという方に特に有用ではないかと思います。
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僕自身は中学・高校の頃ディベートというものが嫌いだった。ディベートで扱われる題材のほとんどが興味の無いものだったのと、いくら議論したところで、結局は主観・直感に落ち着くものだと思っていたからである。
本書の前半のほとんどは、「ディベートの意義」について述べられているが、僕のようにディベートに対する嫌悪感を持つ人にとって、その部分だけでも本書を読む価値がある。僕は、作者が云う処の「ディベートに対する誤解」を、かつてそのまま感じていたが、本書を読むことでそれを払拭することができた。冒頭で述べられた「データに基づき、クールに、客観視して、自分の意見を絶対化せずに相対化するための思考技術であり、表現技術」という言葉に、全てが集約されていると思う。
ディベートの良いところは、下手をすると人間関係を壊しかねない論理的な主張と反論の応酬を、一つの競技・技術と体系付けることによって、人間関係の摩擦を生むことなく、より激しく、効率の良い議論をできるようにした点だと思う。ディベートという競技のルールを誰も知らない状態では、いつまでもカオスな会議が続くだけだ。ルールを全ての人が知り、守ることで、より客観視され洗練されたアウトプットを出すことができるようになる。これからの時代に、知らない・できないでは済まされない技術になるだろう。
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ディベートとは何ぞ?
なんでディベートする必要があるの?
どうやればいいの?
ディベートの教科書のような本。
良著。
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「ディベートとは何か?」という基本的な知識を得るために読んだことから、評価はせず。
今度、社内研修でやってみようかと考えているが、実例も出ていることから、目的には合致した内容であった。
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[ 内容 ]
ディベートと言えば、「ああ言えばこう言う」という詭弁術とか、言葉で相手をとっちめる技術と思いがち。
和を乱す「非日本的」なものとして排除されてきたのも事実だ。
だが「朝まで生テレビ」はディベートではない。
実は誰でも既に、会議や交渉というビジネスの場で、「テーマを設定し、データを集め、問題枠を作り、複数の議論パターンを考え、自説を主張し、相手に反駁する」という経験をしている。
これをより方法的に相互の信頼のなかで実現していく技術こそがディベートなのだ。
よいコミュニケーターはよいディベーター。
自分の頭で考え、自分の言葉で述べ、相手の言葉を聞くための方法。
[ 目次 ]
第1章 思考・表現技術としてのディベート
第2章 調査技術としてのディベート
第3章 コミュニケーション技術としてのディベート
第4章 問題解決技術としてのディベート
第5章 ディベートを社会に活かす
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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ザ・ディベート―自己責任時代の志向・表現技術。茂木秀昭先生の著書。日本人はディベート苦手、ディベート嫌いが多いけれど、これからの自己責任時代、国際化時代でたくましく生きていくにはディベート能力は絶対に必要。日本人的な平和主義、日和見主義を気取って、ディベート、議論で必要な自己主張すらできなくては生きていけない、そんな時代がもう迫っていると思う。
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ディベートとは何かを実例を持って解説し、その教育的効果を説明している。特に人格と議論を切り離す、事実と意見を切り離すことについては、出来ていない人間が多く見受けられるため、効果として非常に大きいのではないかと思った。
惜しむらくは、想定の範囲を超えた情報がなかった点。また、終盤記載の、結論ありきの社会人ディベートを教育現場に持ち込むできではないという意見に対する本書の反論が、教育現場にディベートを持ち込むべきではないという拡大した議論にすり替わっており、興醒めした。
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ディベートについて、全くの無知でした。
具体的な実践方法も詳しく解説されていたので、非常に理解が深まります。
想いを言葉にするのが苦手なため、正直やりたくはないですが、社会で生きていくためには必要な技術かと思います。
何事も事前の準備は大切ですね。
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ディベートについて、本来の定義から方法論と実践例、活用方法まで網羅した内容となっている
第1章 思考・表現技術としてのディベート
第2章 調査技術としてのディベート
第3章 コミュニケーション技術としてのディベート
第4章 問題解決技術としてのディベート
第5章 ディベートを社会に活かす
「ディベート」について、日本人の多くが「理屈で相手を論破する言い争いの技術」「サギをカラスと言いくるめる技術」というイメージを抱いているがそれは間違いだという
討論の勝ち負けが強調されがちではあるが、本質的には「論理的に思考し表現する技術」がディベート
「朝まで生テレビ」はディベートではないと断言する
相手の主張を遮って自らの主張を割りこませる技術に長けた人の主張が受け入れられている
ファシリテーターの仕切りに依存している
本来のディベートはそれぞれの持ち時間内に主張と反証を繰り返すもの
ディベートは相手の論旨を傾聴し、議論を掌握する能力が必要
情報収集、哲学、論理展開、傾聴、問題点の発見、短時間でのストーリー構成等々の訓練法として有効である
日本人の英語がわかりにくいのは、発音や語彙の問題ではなく、文章に論理性がないという指摘
日本語でもディベートを行うことで論理性が養われ、英語の文章作成が上達するという
ディベートの5つの鉄則
・主張するものは証明すべし
・沈黙は同意を意味する
・建設的な議論をする
・人格と議論を切り離す
・意見と事実を切り離す
テーマも大きく3つに分けられる
1.事実論題
2.価値論題
3.政策論題
未知の事実については証拠が重要視される
政策は政策の立案や実効性まで考慮する必要があるので、難易度が高い
その点で、価値論題はディベートの経験が少ない人でもとっつきやすい
日本では何故ディベートが馴染まない理由としては、重いテーマに関しては公の場で発言することは憚られる風潮があるからかもしれない
ディベートの鉄則である「人格と議論を切り離す」ができないのでしょうね
どれだけ論理的でも倫理的に欠ける主張をすれば人格を疑われる可能性がある社会
本来のディベートはどちらの立場でも主張できる「技術」だけれども、「意見」の方が重要視されるからか?
センシティブなテーマや一歩間違えると差別的な主張になってしまうテーマに関しては口を噤むのが良しとされる風潮のままでは、ディベートという文化は根付かないと思う
では、どうやって意見が表層化しているかというと、現代の日本ではネットの影響力が強くなってきているのではなかろうか?
ただ、意見の多寡や影響度を為政者やメディアがいいように操っているわけで、それも実態を表してはいない
それらの意見を無視した方針を打ち出す政府ですものねぇ
選挙では人や政党を選ぶしかないけど、個別の政策について議論するする場があったらいいのにとは思う