紙の本
ヘレンケラー
2019/03/18 16:18
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投稿者:ハム - この投稿者のレビュー一覧を見る
奇跡の人ヘレンケラー。世界の学校の教科書にも紹介されているような、有名な偉人。ヘレンケラーの自伝です。
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言わずと知れたヘレン・ケラー。彼女の努力は並大抵ではなかったと思う。しかし、周りに支えてくれる人たちがいたから、彼女は歴史に名を残せたのだと思う。特にサリバン先生。彼女の忍耐力には脱帽です。ヘレンケラーの自伝なので、彼女からの視点でしか書かれていないので、若干偏っているかなと思うところがありましたが、より彼女のことが分かる一冊だと思います。2007/06/24 読了
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20/7/26
本書をアレクサンダー・グラハム・ベル博士に捧げる
愛>雲のようなもの>雲に触ることはできないでしょう?それでも雨がふってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?それと愛は同じなのよ。愛も手で触れることはできません。だけど、愛が注がれているときのやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが湧いて来るし、遊びたい気持ちも起きるのよ。
生徒が進んで勉強するためには、勉強中も休憩中も、「自由」は自分の手の中にある、と感じなければならない。そして、自ら勝利の喜びと敗北の失望感を味わってはじめて、嫌いな課題でも本腰で取り組むことができる。
大学へ行くと自分の時間がなくなる>以前は、私も、自分の心も、思索し内省する時間があった。
カヌーは月夜に限る>目で見ることはできないが、月がそこにでているのはわかる。
目が見えない人間が、手で触れただけで、冷たい大理石の中に動き、感情、美を読み取れると訊いて、不思議に思う人も多いだろう。それでも、偉大な美術品に触れることで、私が心からの喜びを得られることは事実なのである。
すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを学んだのだ。
一緒に歩いているときに、意識的に歩幅を縮めて相手に合わせてあげようとする人>偽善が感じられ、腹が立つ
五分間研究>一日のうちたった5分>何もせず、じっとしていること。いつでもどこでもいいから一人になって、ただじっとしていること。そしてそのときに考えたこと、感じたことを文章にするというもの>大竹しのぶ
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ヘレンケラーの名前は知っていたが、ナイチンゲールと違いが分からん…ぐらいの知識で読み始めた。
目も耳も見えないし聞こえない。正直言ってその状態、その気分を理解しようとしても健常者の俺にはやはり無理だろう。
色んな苦労や努力をしたはずであるが、自伝にも関わらずそれを余り感じさせないのは凄いと思う。でも、読んでいた人はみんな思ったと思うけれど、サリバン先生が凄いです。ある意味ではヘレン以上だと思う。
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ヘレン・ケラーの伝記と言えば子どもが読む本のイメージが強い
ですが、この自伝は大人も読む価値大です。
見えない、聞こえない、話せない状態でもももちろん心はあるわけで、
「WATER」までのいきさつを彼女自身の言葉で語られているのがとても印象的でした。
その後努力に努力を重ねハーヴァードに進学。
彼女の来日がきっかけで日本の身障者に対する法律も変わった
とか。
人間の可能性って無限大。
くよくよしてるヒマがあったら前に進む道を探さないとね。
「やればできる人」ではなく「やったらできた人」になろう!
最後の大竹しのぶさんの文章も素敵でした。
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わずか一歳で音と光を失い、7歳までことばの存在を知らなかったヘレン・ケラー。ある日、三重苦の彼女はサリバン先生と出会い、「ことばの世界」への扉を開いてゆく。負けず嫌いで前向きな性格と驚異的な努力により、ハーバード大学への進学を勝ち取った一人の女性の生き方を描いた自伝小説。
目も見えず、音も聴こえず、話すこともできない──三重の障害を背負った彼女がどうしてここまで明るく生き抜くことができたのか、そのすべてがこの一冊に凝縮されている。
「苦しんだ一歩一歩が勝利なのだ」
そのメッセージからは、彼女の苦労と努力、そしてその先に見つけた光の大きさを感じ取ることができる。
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私が住む音と光のない世界には、悲しみや後悔などという胸をつく思いも愛情もなかった。
名前と使い方を知るにつれ、世界との親近感は深まり、喜びと自信にあふれたものになってゆく。
いつか大学に行くわ!私が行くのはハーバードよ!
私はやる気に燃えて勉強する。私の前には美と光に包まれた新世界が広がっていった。すべての知識を手にできる力が自分の中にはあると思った、この素晴らしい知の世界では私も自由になれる。
知識は力なり。知識とは幸福だと思う。深く広い知識を手に入れれば、正しい目的と誤った目的を区別でき、数行なことと低俗なことを識別できるから。新たな思想や美の世界を目にしたときの歓びは大きいのである。
文学は私のユートピアなのだ。文学の世界では私はふつうの人と変わらない。障害があっても、本という友人との楽しく心地よい会話から占め出せれることはない。本は恥ずかしがらずに、喜作に私に話しかけてくれる。
不自由な私の生活も様々な点で美との世界とつかながっていることをおわかりいただけたと思う。
私はどんな境遇にあっても、満足することを学んだ。
沈黙はいつまでも私の魂の餓えから動こうとしない。しかしやがて希望が微笑みとともにやってきて、つぶやく。「歓びは自分を忘れることにあるのだ」
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失った視力と聴力を取り戻すことは、極めて難しいことだ。
それでも諦めず、努力した彼女はとても忍耐強い人だと思う。
僕が彼女のような境遇になったら、彼女と同じようなことができるのかと、考えさせられました。
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ヘレンケラー
彼女のセカイに色があるなら何色なんだろう?
やっぱりコトバとセカイは密接に関わり合っているんだ、と思った。
そして、繰り返し出てくるヘレンケラーの「私は世界で一番・・・な子供だ」のフレーズ。
人並み外れた努力をしているからこそ、臆することなくでてくるこの言葉。
そして、ヘレンケラー以上に魅かれる人物、サリバン・アニー。
実は彼女もまた元・盲者。そして、ヘレンのもとに初めて訪れたのが20歳。今の私と同い年だ!
彼女の献身的、っていう一言では到底表すことのできない先生としての姿がすごく印象的。
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目と耳が不自由で話すこともできないという三重苦を背負いながらも努力で克服してきたヘレン・ケラー、そしてそれを支えたサリヴァン先生に敬意を表したい。
これを読むと頑張っていこうと励まされる。
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この本を読んであっと驚いた。
子供の頃繰り返し読んだ児童書のヘレンケラーの話と同じエピソードだったのだ。
大人になってかなりたって読んで、また新たな感激だった。
彼女は見えない、聞こえない、話せない、という三重苦があったが、ハーバード大の中の名門女子大(今は廃校)を合格した。その勉強のため、授業を手話で通訳したサリバン先生は何と偉大な功労者だろう。
たぐい稀な才能ある女性。生きていく意欲にあふれていた。
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42年前の1968年6月1日に87歳で亡くなったアメリカの教育家・社会福祉事業家。あまりにも有名な、見えない聞こえない喋れないという三重苦の肉体的ハンディという絶望的な境遇を克服して、それこそ自分のことで精いっぱいのはずなのに、自分と同じ窮地に立たされている人たちを救出しようと起ち上がり、他人に手を指し示したという稀有な人。どだい普通の人がボランティアをするのとは訳が違うのと同時に、常人より絵を書くことの才能に恵まれているから努力して著名な画家になるというのとも次元が違いすぎます。私が幼児の頃に読むというか見たのはもちろん絵本でしたが、そのときお気に入りだったのは、このヘレン・ケラーと、他には南方熊楠と宮澤賢治、そしてシュリーマンでした。皆、普通の人ではなく、何かにとり憑かれた常軌を逸した人です。もしかして、
・・・・書きかけ・・・・・
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ヘレン・ケラーは映画や小学校の時に読んだ伝記で知っていたが、
本当の彼女ってどんな人なんだろう?と突然気になった。
そこで知ったのがこの本。
彼女の苦悩な部分は簡単にしか書かれてなく、また映画の
イメージが強かったので彼女は小さなままだった。
だけど苦悩ではなく、自分で出来ることを必死にやる、
ただそれだけのストイックな女性だった。
そう、今の自分を受け入れる。
これが今の私に一番必要みたいだ。
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十全に生きることの難しさ。ヘレンケラーが実質22歳で書いたこの本、読書から自分の可能性を拓かれたと語るが、楽しみは読書だけじゃないと、観劇やら、自然にひたる喜びなども。身体的に不自由なヘレンケラーが、身体健康に恵まれた我々以上に生命を活用している。三十苦の中で与えられた能力をフルに活かして、十全に生きている、敬服。。
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この本を7歳まで言葉を知らなかった全盲の聴覚障害者が22歳の時に書いたというのが信じられない。夜の湖の描写や、草木の匂いから枝振りまで、見ないでは描けないでしょう?さらに他言語を4つも操れたというのだから、まったくどうしたことなのだろう。常にそばを離れず20歳のときからサポートしてきたサリバン先生の努力も、ただ者ではありません。まさに滅私奉公です。そしてこの奇跡の裏に有名なグラハム・ベルが居たとは!本当に驚きの連続でした。俺、何していたんだろう、ってちょっと自分を責めたくなる。頑張りましょう。