紙の本
科学活動の理想と現実を認識させた力作。
2010/03/15 16:17
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
科学研究の不正行為を初めて真正面から取りあげて書かれた書物の一つである。原著の出版は1983と、もう随分昔になってしまったが、今でも高い評価を下してもよい、本質をついた内容であり、数あるブルーバックスの中でも古典になりそうな一冊だと思う。
1988に化学同人から出版された全訳の、本書は改訂版。出版から25年以上たったので、それ以後日本も含めてまたあらたな事例も発生し、状況も変化した。そのため訳者が30ページ以上の補足・解説をつけている。
論文の改竄・捏造の事例を多数紹介しながら、普遍的な問題を提起していく。著者らはサイエンス、ネーチャーといった科学誌の記者でもあったが、著書中にはこういった一流紙と言われるものですらシステム的に捏造を見いだせないことを指摘する部分も多くある。自らの職場にも厳しく、問題を提起した力作であると思う。
ガリレオやメンデルにまで遡っての、古典的なデータの改竄や不正の事例も多く紹介されている。メンデルやミリカンが仮説に合うようにデータを曲げてしまったことは、もちろん「良い行動」ということはできない。しかし、それをしたからこそ注目を集め(それでもメンデルは再発見されるまで埋もれていたのだが)知識を一歩進めることができたという一面も無視はできない気がする。追試をして確証を少しずつ蓄積していく時間と努力があれば、間違った仮説は淘汰されていくだろう。現代の科学の問題点の一つは、その時間と努力を待つ余裕がない、拡大し続けなければいけないという社会的な強迫観念のようなものすら感じてしまう状況にもあるのではないだろうか。
最終章に述べられている総括的な著者の言葉は、今でも耳に辛辣である。曰く:
「ボスに率いられる論文工場のような組織では、真理のためよりも個人的な栄光のために研究を行う傾向が強い。それはまた、研究結果を評価するための正常な仕組みに悪い影響を与える。P301」
「科学はプラグマティックだが、科学者は他の人たちと同様、レトリックやプロパガンダといった説得には弱いのである。P302」
著者らは、硬直した科学観を放棄せよ、と提言する。科学は1)社会的なもの、
2)歴史的なもの、そして3)人間の合理的思考の文化的な一つの表現であるという認識である。科学は論理的であり、非イデオロギー的であると、3)ばかりが強調されすぎたことに問題があった、という指摘はかなりうなずける。
論理的で、イデオロギーに左右されない、という理想の姿を追うのは決して悪いことではない。しかし、現実で科学を動かしている1)や2)の力をないがしろにするのもいけない、ということであろうか。科学も「汝自身を知れ」というなのだろう。(こうして古典の言葉の価値の再発見をまたしてしまった。)
科学研究に携わる人、これから携わりたいと思う方には、研究活動の場所を自覚するためにも読むことをお進めしたい。現状にがっくりきて意欲を喪失するかもしれないが、人間社会である限り、これが研究以外の世界にもあたりまえに存在する状況であると考え、真正面から科学の本性を見つめて、それでも、と真実を追いかけて欲しいと心から思う。
紙の本
野口英世が気になる
2006/12/13 20:42
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k-kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
先年60歳で亡くなった、古生物学者のスティーブン・グールドに『人間の測りまちがい』という著書がある。科学的な独断に基づいて導出された理論を、その偏見の衣をはぎ取って、あからさまに提示している。そのひとつが、頭蓋骨の容積が知能の程度に比例する、というものだ。
サミュエル・モートンはアメリカの科学者。1830年当時、さまざまな人種の頭蓋骨を1000個以上も収集し、ひとつ一つの容積を計算し、知能の尺度として並べ直した。この方法では、人種の序列は白人を上位にして黒人が下位になる。白人の中では、西ヨーロッパ人がユダヤ人の上位にある。まさに当時の人種的偏見と正確に一致する。
グールドは、このモートンのデータを再計算し、すべての人種がほぼ同じ頭蓋骨容積をもつことを証明した。モートンが客観的に検証していれば、頭蓋骨の大きさは身体の大きさに比例していることがわかったはずだと言う。モートンは、無意識にも人種的偏見に惑わされ、欲しいと思う結果を得るためにデータをごまかしていたのだ。
本書『背信の科学者たち』では、このような科学研究における不正行為——捏造、改ざん、盗用について数々の事例を挙げ、その背景に言及している。近年このような不正行為は、旧石器発掘の捏造事件とか、韓国ソウル大学を舞台にしたヒトクローン胚によるES細胞捏造事件など枚挙にいとまがない。出版社の惹句ではないが、本書が緊急出版される所以だ。
不正行為(ミスコンダクトとも言う)はなぜ起きるのか。原因には、科学の世界で大きな力を発揮していた自己修正機能が失われつつあることかもしれない。かつては「科学における欺瞞は非常にまれであり、たとえそのようなことがあっても、”自己修正的に機能するシステムの下で”必ず看破される」と言われたものだ。
自己修正機能とは、①ピア・レビュー、②審査制度、③追試の3つだ。ピア・レビューとは、専門家仲間による審査であり、客観性が十分に保たれていれば有効な制度である。しかし、パソコンの活用や、テーマの細分化などもあって、いまや膨大な数の論文が発行されている。審査員が十分に目を光らせることができなくなった。それに科学者個人の倫理の側面も重い。
【蛇足】野口英世のケースが気になる。死後約50年に彼の業績の総括的評価が行われたが、ほとんどの研究が価値を失っていたという。権威ある研究所のエリートであったために、厳密な審査から免れていたというのだ。真実はどうなのか?あの小泉元首相のはしゃぎぶりは何だったのか。
SMARTはこちら
投稿元:
レビューを見る
1980年代に書かれたものを再出版したもの。
最近起こった捏造事件は本質的に本書が指摘しているものと変わることは無く、進歩していないことが良くわかる。
科学者たちの虚栄心・名誉欲と徒弟関係に問題があることをしっかりと指摘しており、一読の価値がある。
投稿元:
レビューを見る
科学における成果発信の形式は通常数ページの論文となります。
ここではページ制約もあり、様々な事象が省略されます。これは読者としては、不正行為がないという前提では、論点とその論理が纏められて理解しやすいものとなります。論点と関係のない一切の無駄は、排除されるべきなのです。日本語の文章法では、このような枝葉が沢山ついた説明の仕方がされる場合も多々あります。しかし論文、とくに英語で書かれたものは、序論、本論、結論が一筋であるものが普通です。
しかし、このことに乗じてしばしば削られるべきでないことまで削られてしまいます。それは故意であるときもあれば、無意識のうちに行われることもあります。例えば、失敗した実験や試行回数は省かれ、不都合な写真領域はトリミングされるでしょう。グラフも論理の構成に適うように、常に著者のバイアスがかかります。無意識な例として次のものがあります。迷路のゴールにチーズをおいて、マウスがそれを見つける時間を計るという実験を行います。ここで、よく訓練されたマウスと、訓練されていないマウスを予め実験者に教え、その時間を比較します。実際にはどちらも訓練されていないマウスなのですが、訓練されたと教えられたマウスの方が短時間でチーズを見つけることが出来るという結果を出すのです。驚くべきことは、実験者に不正行為を行ったという自覚がないことです。無意識のうちに、スタートタイミングをずらしたり、ストップウォッチを押す時間を変えたりすることで、有意な差を生み出してしまうのです。平均値検定などの統計的手法による有意差の証明も、不正に使われることがあります。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
科学者はなぜ不正行為を繰り返すのか?
誠実で「真理の探究者」と尊敬されている科学者による不正行為が後を絶たない。
なぜ、彼らは自らの名誉と職を失いかねないリスクを冒してまでも不正行為に手を染めるのか?
ガリレオ、ニュートンなど大科学者から詐欺師まがいの研究者まで豊富な事例を通じて、科学の本質に迫る問題作。
[ 目次 ]
第1章 ひび割れた理想
第2章 歴史の中の虚偽
第3章 立身出世主義者の出現
第4章 追試の限界
第5章 エリートの力
第6章 自己欺瞞と盲信
第7章 論理の神話
第8章 師と弟子
第9章 圧力による後退
第10章 役に立たない客観性
第11章 欺瞞と科学の構造
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
地球科学に限ったテーマではないが、データ捏造や改ざん事件はなぜ繰り返されるのかについて現在の科学が抱える背景とも併せて議論されている。科学者の倫理観について読んでおくべきかと思う。
投稿元:
レビューを見る
論理的に構築された真理の集大成。それが科学というものだと思っていた。だがしかし、科学者も人であった。不正行為を行う動機がある限り、人はその闇の淵を覗いてしまうのだろう。それはけして無名の科学者に限らない。ニュートンや野口英世など、著名な科学者も本書には登場する。
都合のいい実験データのみをフィルターするのは序の口で、実験せずにデータを捏造する者は後を絶たないし、他人の論文の盗用を繰り返し、華麗な経歴を作った科学者もいたようだ。人種差別に科学的な衣を着せて、偽りの客観性を世に広めた科学者にいたっては、現代に生きる者としては怒りを禁じ得ない。
ここまで科学が発展した 21 世紀において、科学を否定することに意味はない。だが、世の中にはエセ科学も跋扈しているし、そうではない科学的なものだったとしても、盲信することは危険なことだと思い知らされる。例え、著名な科学者の提言だったとしても。
投稿元:
レビューを見る
古今の論文捏造事件を収録。もともと82年に出た本で、88年にも翻訳が出されたが、ブルーバックスに収録されるにあたり、翻訳者による長めの補遺が書き足されている。 ミスコンダクションは昔から行なわれており、ガリレオも実験について問われたところ「やってない。その必要もない。なぜなら、落下体の運動はそうなるのであり、それ以外はありえないと断言できるからだ」と答えている。野口英世やルイセンコ(ラマルク説)などについても語られている。パルサー発見に際して大学院生の業績が無視されて指導教官にだけノーベル賞が与えられた話など、80年代までの大きな捏造事件を網羅的に知ることができる。著者らは近年は科学論文の数が過剰で、大部分は価値のないものであるという。そのため、重要な論文が目にとまりにくくなり、捏造が見逃されやすくなるというが、その後20年で論文数はもっと過剰になり、競争も激しくなっている。捏造事件の件数も減ることはないとは思うが、やはりゴミ・捏造は自然に淘汰されていくものだろう。■”神”が不在の20世紀の社会では、未開社会で神話や宗教が果たす啓示的な役割を科学がある程度果たしているのである■科学を理想化している人びとにとって、欺瞞はタブーであり、いかなる場合にも形式的に否定される出来事である。ところが、科学は世界を理解するための人間の所業である、と考える者にとっては、欺瞞は科学が理性とレトリックという両翼で飛んでいることの証しとなるのである。
投稿元:
レビューを見る
欺瞞を防ぐ3つの安全網があるという。
研究費申請のピアレビュー
論文の審査制度
追試。
研究費は政治が働く。論文審査は権威が働く。追試はしたいが設備と人と時間がない。
安全網が安全に働く保障は、科学者の良心以外にない。
投稿元:
レビューを見る
2011 12/17読了。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
ちょっと前に研究科で行われた科学のミスコンダクトに関するFD研修会の中で紹介されていた本。
原書は既に科学のミスコンダクトに関して古典的な位置づけを得つつある、とのことで、実際に中身も今でこそよく聞く話をまとめられている、って感じ。それはつまり逆に言えばまさに古典としての地位を確立してる、ってことかと。
大きく前半では意図した欺瞞・不正・捏造とそれをすぐには暴けない/判明してもなかなか動けない科学者集団・組織の有り様を、広範では自己欺瞞・見たいものを見る・新理論を受け入れない・地位や権力に容易に屈する科学のあり方を描いていくという2つの方向から、科学が初期の科学哲学や科学社会学で言われているような、伝統的科学観に則った営みではないことを丹念に説明していく。
現場に入れば肌身に感じるような泥臭い話であり、そうであることを否定して理想的な科学実現に云々するんでなく、そうであるって踏まえた上で現実的に対策とりましょうかね、という方向に(解説も含め)落ち着いていく。
以下、面白かったところの抜粋。
・プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、メンデルらの不正・・・史上に残る業績を残した科学者でそうなら、残らなかったような者も含んだ実態は?
⇒・個別には信用ならん点もある人らなことは知ってたが、並べると壮観だな・・・
・検証可能性⇔現実には行われない追試・私的な検証や告発が不正を暴く
・不正が発覚してもなかなか糾弾されない/隠そうとする/重要視しようとしない科学者の態度・・・「波風を立てたくない」?
・最後の門番:「時」
⇒・正しくない成果はいずれ廃れる
⇔・時にはそれに1,000年以上かかることも・・・
投稿元:
レビューを見る
そのことを知ってやってしまう不正以外に,無意識のうちに修正されてしまうデータの話等,具体例が多く興味深い.科学者達が信じている不正を自浄するシステムがいかに脆いものかが伝わる.
投稿元:
レビューを見る
新薬での偽データで問題になっているがその歴史を紐解く、様々な分野での出来事を丁寧に書いてあるので、読み物としてはとても面白い、。科学史としても使えるし、分析データの授業でも読むと役に立つと思う。卒論でも使えるかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
原書が83年と古いので,それほど期待せずに読んだが良かった。前読んだ『論文捏造』は主にシェーン事件という個別例を扱っていたが,本書の内容は古代から20世紀までと幅広い。原書刊行時に騒がれていた研究不正をメインにするのではなく,歴史に残る印象的なケースを取り上げて,名誉欲・自己欺瞞・師弟関係・政治的圧力といったテーマに分けて論じているのが長く読まれている理由なのだろう。
プトレマイオス,ガリレオ,ニュートンなど科学が自然哲学であった頃から既に倫理にもとる不正はあった。近代化を経て科学に国家の予算が入るようになり,職業研究者が当たり前になりその数も増えると,不正の誘惑もより大きくなる。信頼性を担保するはずの査読付き論文や追試実験も,商業主義やノウハウの壁,インセンティブの欠如によってなかなか有効性を発揮できない。
著者たちはかなり科学者に厳しめで,科学コミュニティーに任せていては捏造や改竄といった研究不正の解明はおぼつかないと言う。科学の自浄作用は過大評価されていて,それは1920-30年代の論理実証主義者たちが科学の手続きがいかに正当かという神話を作り上げてしまったことに起因すると分析している。
科学者も人間であり,不正は起こる。そのことを前提に,制度設計し組織を運営し発覚した不正に対応していかなくてはいけない。そして科学に税金が使われている以上,このことを国民一般の共通理解にしなくては。
投稿元:
レビューを見る
ガリレオ、ニュートンなどの歴史的な大物科学者から現代まで、多くの科学者の不正行為について学ぶことができる本書。一般に考えられているような科学者像や科学自体へのイメージは間違いであり、科学者というのも単なる職業で、普通の弱い人間である。特に科学技術研究費の膨張した現代では不正は必ず起きるという前提で、その防止に努めるべきなのだろう。科学者の数が多すぎるし、大部分の研究・論文は何の役にも立たずに単に業績リストの為だけのもの、という指摘は耳が痛い。研究者をそこそこやっていると本書に書かれていることを経験を通じてほとんど理解しているが、やはり、初期に本書などを読んで科学界の実情を学んでおくことは重要だと思う。
投稿元:
レビューを見る
ガリレオ、ニュートン、野口英世も捏造科学者だったとは驚いた。科学者の3人に1人がミスコンダクトをしているという事にも驚く。また、上司に不正を指示されたら58%の科学者が従うとの事。科学者もサラリーマンだから仕方ないで済まされるのだろうか。
捏造・改ざん・盗用等の重度のモノはチェック機能である程度は発見・排除されていくのだろう。が、著者が指摘するように軽度の手抜き系は発見されにくく、こちらの方が危険なのかもしれない。
科学者も人間だからイチンチキはするだろう。承認欲求やら保身やら怠慢やらで。警察官も教師も裁判官も犯罪はするし。が、科学者犯罪の大きな違いは、その結果から人やカネが大きく動き、多数の人々の生命や財産に影響を与えるという事だろう。科学(者)はある程度は信用するしかないが(でないと何も食えないし、町も歩けないし)、科学(者)と言われるモノを盲目的に過信するのも問題で、多少は疑いを持った方がよいなとあらためて思った次第。