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紙の本
組織のための整体術
2003/04/20 20:09
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「だって、そういうことになっているから」としか言えない場合がある。たとえば「オフサイドはなぜ反則か」と尋ねられても、ちゃんと答えられない。
オフサイド・ルールのないサッカーはサッカーではない。それは「バスケッカー」(バスケット+サッカー)とでも呼ぶしかない別のスポーツだ。私がサッカーの選手だったら、そう答えるだろう。それがピッチの上での「生きられた経験」であり、サッカー選手にとってのフィジカル・リアリティだからだ。
そのような、あたりまえすぎて言葉で説明できない知識(齋藤孝さんなら「技化」された知識と言うだろう)のことを、著者は「実践知」と呼ぶ。
《知識は本に書かれたようなモノではなく生きた身体に宿っている。このように実践の外部ではなく実践そのものに内在する知を、この本では実践的な知識、すなわち〈実践知〉と呼んでおこう。私たちの日常生活のあらゆる場面で働いているのは、この実践知にほかならない。私たちは知識を操作しているのではなく知識を生きているのである。》
たとえば読み書き能力、リテラシーを考えればいいだろう。(ハブロックの『プラトン序説』には、ホメロス的な記憶された言葉からプラトン的な書かれた言葉、イメージ思考から概念的思考へといたる、身体化された「実践知」の変遷が生き生きと叙述されていた。)
中島敦の「文字禍」に、単なるバラバラの線の交錯にすぎない文字に音と意味をもたせる「文字の霊」の話が出てくる。《魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。》
エックハルトは「ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである」と語った。ここでいう「魂」あるいは「文字の霊」、つまりバラバラなものに一つの規則(音と意味)を与えるものこそ実践知である。
それでは、実践知は「社会のなかでいかに発生し、いかに機能し、伝達されていくか」。著者はまず理論編(第1章〜第3章)で、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(生活形式=共有された慣習のなかでの反復訓練)とブルデューの「ハビトゥス」(実践の発生母胎)、そしてレイヴとウェンガーの「実践コミュニティ」(参加・交渉・協働といったアクティブな相互行為=社会的ゲーム)の概念を紹介し、実践のもつ反復性(過去の再現と身体への刻印)と歴史性(変動と組織化)を摘出する。
ついで民族誌編(第4章・第5章)では、北タイの霊媒カルトとエイズ自助グループの事例にそくして、実践コミュニティにおける「権力ゲーム」と「自己の統治」の契機を抽出し、最後に(第6章)、晩年のフーコーの思想に準拠しながら、より良い生=新しい生き方を創造する実践の技法──「世界に対する多様な関係を構築していく〈自由の実践〉、すなわち生き方の探求」としてのアイデンティティの形成、あるいは「主体の多様な転換、すなわちアイデンティティ化」を可能とする場としての実践コミュニティ──を構想する。
齋藤孝さんによると、野口三千三が考案した体操の要諦は、からだを液体化すること、「水の入った革袋に骨や筋肉が浮かんでいる状態をイメージし、揺さぶりを増幅すること」にある(『からだを揺さぶる英語入門』)。
組織を「液体化」=「ワイン化」し、「世界に対する多様な関係」の構築や「主体の多様な転換」を可能にする「革袋」=「樽」としての「実践コミュニティ」を叙述すること。それが、著者が構想する「生き方の人類学」のテーマである。本書は「組織のための整体術」の本だ。