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紙の本
開高健へのオマージュ
2002/04/06 22:57
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
関川夏央を読むとなぜか故開高健(1989年没)を思い出す。本書に収められた「ただ家にいたくなかった作家」で、関川夏央は『輝ける闇』を「死と食物が並列され、叫びと響きに満ちているようでいて静謐な小説」と評している。『輝ける闇』の開高健は『麦と兵隊』の火野葦平と『てんやわんや』の獅子文六と一緒に「自分の戦争、他人の戦争」の章で取り上げられていて、その扉に関川夏央は次のオマージュを捧げている。
《戦争小説は、前線を描いたものでなくとも、その人、その文化の本質をあらわにする。/広大な中国という存在そのものに圧倒された経験を火野葦平は書き、獅子文六はむしろ戦後の平和の中に戦争を描いた。開高健は、他人の戦争が突然自分の戦争になりかわる瞬間の恐怖を書いた。それらはいずれも戦争と歴史の本質にかかわるものであったから、一時は広く読まれても、永く読みつがれることはなかった。人は本質に直面するとたじろくのである。》
関川夏央の文章は、たとえば死後発表された開高健の次の一文と響き合っている。《川は土を養い、草を育て、木をはぐくむ。その木は風に倒れて腐って土を養い、キノコを育て、虫を集め、その虫を食べる鳥やネズミをふやして、森を看護する。一切が連関しあい、もつれあい、からみあい、生は循環しあって、増もないが、減もない。質と量は恒存する。形が変わるだけである。それがまざまざと肉眼で見える。輪廻は肉視できる。》(『珠玉』,本書203頁に引用)
文学はもはや教養や鑑賞の対象ではない。文学は個人的表現であると同時に時代精神の誠実な証言であり必死の記憶なのであって、つまり史料であり歴史である(まえがき)。本書で「虫干し」されるのは怠惰な文学的感性であり、再読されるのは肉視される歴史である。(取り上げられた59編の「史料」のうち30編が未読。未読本のうち吉川英治の『宮本武蔵』を「再読」することにした。)
紙の本
絶えず繰り返されていくのだろう
2002/01/28 02:03
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投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
副題にあるように、本書では明治から現代までの文学作品が59編取り上げられている(「日本の」とあるが、外国作品も含まれているが)。この本は、文学作品への良質な手引きになると思う。
著者が、どうして近代の文学作品を再読してみようと思いついたのか、著者は最後の「あとがきにかえて」で記している。そこでは、どうも日本人は、「心気一転」が好きで過去を過去のものとして軽んじる傾向がある。戦前と戦後は断絶していると信じたがる。《つねづねそのことに疑念を禁じ得なかった私は、近代二百年の後半、産業革命途上の明治三十年前後(一八九〇年代)から、いわゆる「戦後」が終わる昭和五十年頃(一九七〇年代)までの本を読み返してみようと一念を起こした。》
著書には、文学は《日本社会の歴史を忠実に反映する》ものという認識がある。したがって、文学作品が書かれた時代への目配りを忘れない。その作品が時代の何を写し取っていたのか、ということが書かれる。戦争に関する作品が多いのもそのためだろう。
「戦争」に関して、それを《激烈な異文化接触》であると捉えたところは面白い観点だと思った。《戦争は激烈な異文化接触でもあった。その側面はおもに戦後の俘虜体験で実証され、日本と日本近代とを特異な場所から客観視させる契機となる、俘虜文学という重要な一ジャンルと生んだ。》
「俘虜文学」というジャンルへのこうした視点は、興味深い。最近は「異文化体験」というものが、何か気軽で楽しいようなイメージをもたらされているが、「俘虜文学」を通じてもう一度「異文化」に接触するということはどういうことなのか、考えてみる必要があるのではないか。
本書の中で、一番気になったのは、片岡義男についてだ。私自身は、片岡義男の本を読んだことがないのだが、なんとなく「都会的」というイメージを持っていた。しかし、著者は片岡義男の作品に「俳味」を見る。アメリカ人の書いた俳句のようであると。そして、《より広く日本語表現としての文学を考えるとき、彼はそのもっとも重要なにない手のひとりとなるのである》という一文を読んで、片岡義男を読んでみなくては、と猛烈に思った。
近代の作品を読み直して、著者が感想を述べている。《第一に、どれもみなその時代の思潮と経済のただ中に生きた悩みと喜びの文芸であり、また試みの記録であるということだ。第二に、日本人はこの百年、おおまかにいって、自意識と結核と金銭と戦争と異文化接触を、いわばらせん状にえがきつづけてきたということだ。そしてそれら日本近代の主題は、かたちをかえていまも有効である。》
たしかに、文学作品は、自意識や病、金銭、戦争ばかりだったなあと思う。こうした主題がずっと続いていく。文学に断絶はないのだろう。