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商品説明
レーニンの「笑い」を手がかりに、プラトン以前の「はじまりの哲学」や知恵の回帰としての唯物論の本質、「党」の思想と人類学的起源を探る。94年刊に「唯物論のための方法序説」を加筆した増補版。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
中沢 新一
- 略歴
- 〈中沢新一〉1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専攻は宗教学。現在、中央大学教授。「チベットのモーツァルト」「森のバロック」「ゲーテの耳」などの著書がある。
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紙の本
結局キーとなるのは「無底」ということか?
2003/06/08 13:01
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
だいたい学者の書いたものは素人には難しすぎてよく解らない。この中沢新一も例外ではなく、一生懸命読んでも何が書いてあるのかよく解らない。なのに読み進むにつれて、何が言いたいのかはよく解る。何が書いてあるのかは依然としてよく解らないのだが、何が言いたいのかは非常によく解るのである──というのが、私が初めて中沢新一を読んだ時の感想であった。その時の本は「野ウサギの走り」だった。
久しぶりに中沢作品を読んでみて、前と違ったのは、決して何が書いてあるかよく解らないことはないぞ、ということだった。しかし、これは考えてみればこの本の内容が私の大学時代の専攻と大きく重なっているからにすぎない。逆に全体として何が言いたかったのかということは「野ウサギの走り」ほど明確ではなかった、と言うか、もう少し重層的である。
「レーニンがよく笑う人であった」という点から説き起こすあたりが何ともキャッチーである。第1章の「ドリン・ドリン!」はとても生き生きと伝わってくる。しかし、ヘーゲル論に入ってしまうと、読者はこのレーニンの笑いを思い出す機会がなくなってしまう。そこからヤコブ・ベーメ論に飛んで、「『資本論』は、聖霊にみたされた書物なのだ」(169ページ)という独自の読み込みが披露されるあたりはなかなか仰天もので秀逸だが、やはりレーニンの笑いとどういう関係があるのか、今ひとつ咀嚼できないまま読み進むことになる。そして、グノーシス論になって、やっとレーニンの笑いが戻ってくる。最後にレーニンの3つの源泉として、「古代唯物論、グノーシス主義、東方的三位一体論」(213ページ)が明らかにされてこの本は終わりである。
ここまで読み通して納得が行く一方、「はてレーニンの笑いはどこ行った?」という気がしないでもない。ちょっと騙されたような気分で更に読み進むと、「結び」で「恐がらずに墓へ行くレーニン」(217ページ)が紹介されて、にわかに「ドリン・ドリン!」が甦ってくる。結局キーとなるのは「無底」ということか?
重層的な分、解りにくい点もあるが、確かに面白い書物だった。
紙の本
レーニンという怪物
2002/09/09 03:05
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:じゃりン子@チエ - この投稿者のレビュー一覧を見る
すいません。何が書いてあるのかはよく分かりませんでした。唯物論も弁証法も資本論も三位一体もよく、あ、いやむしろ全然知りませんので検証は出来ませんでした。でも、この本は面白かったです。読んで「レーニンって怪物だったのか〜」と思いました。
「はじまりのレーニン」の第一章「ドリン・ドリン!」は、彼の笑いを糸口にして始まります。
トロツキーが描写するレーニンの笑いはとても魅力的です。魚を釣り上げたとき、子供や動物と共にいるとき。ゴーリキー曰く「彼はからだ全体で、ほんとうに「波を打たせて」、陽気に、時には涙まで浮かべて笑った」。
そこで、著者はもうひとつのレーニンの笑いを引き合いに出します。ボリショイ劇場での第五回ソヴィエト大会の席上でのこと。レーニンとボリシェヴィキを激しく攻撃するエス・エル派左派のマリア・スピリドーノヴァの演説を聞きながら笑い出すレーニン。
「悪罵、弾劾、直接的な威嚇にさらされながら、彼は笑うのをやめず、やめそうにない。この悲劇的な事態の中にあって、彼の事業も、生命も、全てが危機に瀕しているのを知っている彼の、その茫洋として純粋な、巨大な哄笑は、場ちがいだと見る人もあるだろうが、私には異常な力の印象をあたえる。ときどき …一段と激しい罵声がほんの一瞬その哄笑を凍らせる。敵手にとっては、途方もなく屈辱感をそそり、憤ろしさに狂い立たせる哄笑である …」。
面白そうでしょ。私はこの辺だけ読んで買ってしまった訳で。そして、著者はこの笑いの内実を、上にあげた弁証法だとか、唯物史観とかの観点から説いてゆきます。本題に入ると、知識の足りない人間にはついていけなくなります。さっぱりわかりませんでした。
でも、面白いんですよ。哲学をたずさえて革命を遂行する怪物。その影が行間にちらほら見え隠れして不思議とスリリングな読書体験が出来ます。面倒でしたが、とてつもなく。
そして、最後の数行と結びの文に到達して「あーっ! この文を解説するためにこの長くてわかり辛い膨大な文章があったのかーっ!!」と納得。それ自体は一瞬で読めてしまう文ですが、それがこれまでの苦労に報いるようにすーっと吸収されてゆく快感。中沢新一の気障でロマンチックな文章も手伝って、レーニンについての論文は、まるで活劇のように見事に閉じられます。
中身を理解していないのにほめすぎですが。面倒な本につき合ってなおかつすっきりした読語の快感を味わいたい方にオススメ。
紙の本
立川文庫なみの面白さ
2001/02/27 22:35
2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
立川文庫というものがある。明治44年から大正12年にかけて立川文明堂(大阪)から200点近く刊行された講談本のことだ。当然のことながら、私は同時代の経験として読んだ覚えはないのだけれど、中沢氏の『はじまりのレーニン』はまさに立川文庫なみの面白さをもった本だった。
講談本のように思想や思想家や革命家を語る書物は、実に得がたいものだと思う。思想関係を十八番とする現代の講談家・中沢新一は、おそらく本書でその絶頂を迎えたのではないか。皮肉を書いているのではない。絶賛しているのだ。学問的な水準や細部の論理構成に瑕瑾があるのかどうか、私は知らない。知らないけれど、本書は実に面白い。まずは愉しめればそれでいい。たとえば、本書のさわりともいうべき次の一文など、熟読玩味すべき。
《いっさいの生命は、この三位一体の形式をもつ。未発の力を内蔵した空間そのものである「父」から、光の発芽がおこる。「子」が生まれるのだ。そこには、最初の状態の統一を破る分割力が発生する(ベーメは、悪の起源を、この分割のうちにみいだしている)。しかし、それは「父」を貫流し、「子」をとおして出現する「聖霊」の力によって、ふたたび三つのペルソナによって一体であるという、より高められた統一を回復する。
この三位一体の形式のなかでは、「聖霊」は、感覚や具体性をもった個体の世界に、直接あらわれる力をあらわしている。しかし、その力はもともとは、「父」という普遍的なものにねざし、「子」をとおして、個体のなかに感覚や愛となってあふれでる。具体的なものと抽象的なものが、おたがい陥入をおこし、普遍的なものは個体性をとおして、はじめてみずからをあらわにできる。
抽象も普遍も、そのものだけとしては、存在できない。また、単純な本質などというものもないし、個体としての物質などというものもない。すべては、この複雑で、ダイナミックな、三位一体の形式のおこなう運動のなかに現象する。その三位一体が、わたしやあなたのような、すべての存在のなかで、瞬間瞬間、生きて働いているのだ──ヤコブ・ベーメは、このような思想をとおして、未来のヘーゲルを、そしてさらには『資本論』の出現をさえ、準備したのである。(略)
ベーメ的三位一体論は、不思議なことに、東方教会(のちのギリシャ教会、ロシア教会など)が、深めてきた三位一体の考え方と、根本的な共通性をもっている。だが、この東方的な三位一体論は、一〇世紀ころからはげしくなり、長い間つづけられた「フィリオクエ論争」をとおして、ローマを中心とする西欧のキリスト教会によって、敬遠され、採用されなくなってしまった。》